都築響一 & nobunobu(鈴木伸子)が歩く

昭和ビル遺産の記憶 #4│三愛ドリームセンター(銀座)

カルチャー|2023.3.23
文=鈴木伸子 写真=都築響一

失われつつある昭和の名ビル

 2020年に予定されていた東京オリンピック前後、そしてコロナ禍となってからも都心の再開発の勢いは止まるところを知りません。これを東京の活力と見るべきなのか。しかしそこで失われていくのは昭和の街並みです。
 1960-70年代の高度経済成長時代、日本の建築家やスーパーゼネコンは大いなる躍進を遂げ、世界的な名声を得ていきましたが、その時代に建設された築50年前後の建物が、今、続々と解体されています。
 近年すでに解体されたものには、銀座のソニービル、虎ノ門のホテルオークラ旧本館・別館、黒川紀章設計のメタボリズム建築を代表する作品・中銀カプセルタワービル、丹下健三設計の旧電通本社ビル、浜松町の世界貿易センタービルなどがあります。
 東京が都市として新陳代謝していくため再開発は仕方のないことと思いながら、私が子どもの頃から親しんできた建築や風景が失われていくことには悲しさと残念さを感じざるを得ません。
 そんなことで、失われていく昭和戦後の建物を哀惜し、それらの建築史的価値、建物の味わい深さを解体前に多くの人たちに知っていただきたいと、この企画を思い立ちました。
 連載第4回は、日本一の繁華街・銀座の中心に建つ三愛ドリームセンターを取材しました。

三愛ドリームセンター

住所 東京都中央区銀座5-7-2
竣工 1963年
設計 日建設計工務(林昌二)
施工 竹中工務店

写真のガラス窓のうち、右側3枚は網入り曲面ガラス。 三愛ドリームセンター建設当時に改正された消防法で、隣り合うビルに接している区域には網入りガラスを用いることとなり、ガラス工事を請負った会社はそれを製作できる会社を探し回った。
この時代、大型の曲面ガラスの調達は今以上に困難で、網入り曲面ガラスとなると、さらに絶望的な状況だった。 見つかったのは富山県の社員5、6人の小規模なガラス会社、新光硝子工業。ほかの会社では実現できなかった網入りガラスを曲げ加工し、250枚を製作過程で1枚も破損することなく納品したという
曲面ガラスと、それを収めるステンレスサッシのデザインが、この建物の外観イメージの肝となった
和光の時計台の向こう、中央通りの延長線上に東京スカイツリーが見えた。 この景色は銀座4丁目でも、三愛ドリームセンター最上階でしか望めないものだろう
8-9階を繋ぐ階段。4-5、6-7、8-9階は2フロアで賃貸できるように内階段で繋がれていた。そのコンパクトな階段のデザインも、今見ると60年代的で美しい
2階から眺めた銀座4丁目交差点。9階からの風景とはかなり印象が違うことに改めて驚く。1-2階には閉館時までドトールコーヒーの店舗があった
1階の天井にのみ、竣工時からの光天井が残っている。当初は各階すべての天井がこれと同じ照明で輝き、「光の塔」としてのイメージを放っていた
エントランス前で記念撮影していた方は、三愛の店長を務めていたとか。三愛ドリームセンターのオープニングセレモニーでは、照明をつける役割を担当されたそう。
1963年1月13日午前0時から行われたセレモニーでは、フランキー堺がドラムを叩き、ゴンドラに乗ったモデルが上階に上がっていくにつれフロアごとに照明が点灯され、屋上に到達すると広告塔のネオンが輝くという派手なパフォーマンスが繰り広げられた
知る人ぞ知る銀座4丁目交差点の守り神、猫のコイコリン像。ビルの右側・左側に置かれている一対で、建物に向かって左側が雌の“のんき”。右側が雄の“ごろべえ”。 実は、世界的彫刻家・流政之の作品で、のんきは施工を担当した竹中工務店、ごろべえは日建設計工務から寄贈されたものだそうだ
のんき、ごろべえの背後の、RICOHのロゴ入りの側壁も流政之のデザイン。竣工時は鏡のように輝いていた
エントランス上で発見したロゴマークは、竣工当時からのものだろうか
外壁には「三愛」のロゴが残る。この建物に婦人服店「三愛」があった時代の思い出が蘇るようだ
三愛ドリームセンターは2023年1月31日に閉館。閉館時には1-2階にドトールのコーヒーショップ、8-9階にリコーアートギャラリーのほか、美容院、化粧品店、ブランド品リセール店があった

銀座の中心で存在感を放つ三愛ドリームセンター

 銀座4丁目交差点に建つ三愛ドリームセンターが閉館し、その後解体・再開発されるというニュースを知ったのは今年2月1日のことでした。すでに3月9日から建物の解体は始まっています。
 日本一の繁華街・銀座の中心に「和光」(現在の名称はセイコーハウス銀座、1932年竣工)とともに三愛ドリームセンター(1963年竣工)があるのは子どもの頃から見慣れてきた風景。それは永遠に続くものだと思い込んでいたので、この知らせには大いにショックを受けました。
 このガラスの円筒建築は、今年で築60年。確かに築年数は経っていますが、銀座の目抜き通りにあっても少しも古びていないと感じる建物は、常に街の中心で存在感を放っていました。

 私は、三愛ドリームセンター誕生の翌年の1964年生まれ。子どもの頃の銀座へのお出かけは、家族でのハレの日のイベント。デパートやレストランのほか、その頃続々とオープンした新しいビルやお店巡りをするのが楽しみでした。66年にはソニービルが竣工。71年には4丁目交差点近くに銀座コアがオープン。当時の最新商業建築には、ガラス貼りのエレベーターから外の景色が見える“シースルーエレベーター”、円盤状のフロアが回転して360度の景観を楽しめる回転スカイラウンジなど、空間移動や展望体験を得られるものが登場し、そんなビルがあちこちにある銀座界隈はまるで遊園地のような街に思えたものです。
 私が生まれて初めてシースルーエレベーターに乗ったのは、銀座コアでのこと。銀座中央通りを眺めながら上の階へと移動していく高揚感、下の階に降りる時のスリル感は、まさに遊園地のアトラクションに匹敵するものでした。
 また、有楽町駅前の東京交通会館の回転展望レストラン「銀座スカイラウンジ」で、刻々と移り変わる景色を眺めながらご馳走を食べるのはめくるめく体験。
 子ども時代の私には、銀座の中心にそびえ立つ光り輝くガラスの塔・三愛ドリームセンターは、回転こそしないものの、そんな夢のような建築に見えていました。

 当時の三愛ドリームセンター上には三菱のスリーダイヤモンド印のネオンサインが輝いていたので、ここは三菱銀行、三菱電機などと同じ三菱の建物なのだと思い込んでいたものです。1階から3階に入っていたのは婦人服「三愛」のお店。この「三愛」には、10代、20代の頃に銀座に行くと必ずといってよいほど立ち寄っていた記憶があり、その頃の私の洋服ダンスには「三愛」で買った服が常に何枚かあったはずです。
 しかし当時の私には、この三愛ドリームセンターが名作建築だという認識は皆無。その後就職して編集者となり、戦後モダニズム建築についての知識を得て初めて、これが高度経済成長期の商業建築としても、60年代の建築界においてデザイン的にも工法的にも画期的な作品だったと知ることになるのです。

1963年の竣工当時。ネオンの三菱のマークと、何層も連なる光天井が輝く円筒を演出している

リコー創業者・市村清と若き日の林昌二

 三愛ドリームセンターの設計を担当したのは日建設計の林昌二(1928-2011)。竹橋のパレスサイドビル、中野サンプラザ、五反田のポーラ本社などの設計を担当し、日建設計という設計組織を今日のような業界トップの地位に導いた大建築家です。
 私は、その林さんに取材で何度かお会いしたことがありましたが、常にユーモアを漂わせた落語の好きな面白い方という印象の一方、いざ仕事となったら一切妥協を許さない厳しい面をお持ちなのではとも感じていました。
 そもそも、銀座の中心に建つガラスの塔・三愛ドリームセンターという建築が実現したのは、この建物の施主であるリコー創業者・市村清と、若き日の林昌二との出会いがあったからなのだそうです。

 コピー・複合機、カメラといった事務機器、光学機器のメーカーとして知られる「リコー」ですが、その創立者・市村清は経営者として異色で、戦後に皇居外堀を埋め立てた数寄屋橋付近で西銀座デパートを創業。やはり戦後には結婚式場が不足していると見込んで明治記念館を創業。コカ・コーラの販売や日本初のリース会社の創設、阿蘇や札幌でのホテル経営など、リコー以外にも多方面で事業を展開し成功を収めた人でした。

 市村清は、銀座4丁目交差点の土地を戦後の1945年に入手。当初はここに2階建ての店舗を建てて食料品を販売していたそうですが、洋裁が得意だった市村夫人が婦人服を販売したいということで婦人服専門店に業態転換。その「三愛」という店名は、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」という市村清が提唱する「三愛精神」から取ったもので、現在も「三愛精神」はリコーグループの拠り所となっているのだとか。

 市村は昭和20年代から、銀座4丁目の店の狭小敷地をなんとか広げて自社のビジネスを発展させたいと周辺の土地の買収を画策していましたが、うまく行かず、結局その利用法を模索して日建設計(当時の社名は日建設計工務)に相談したところ、当時30代半ばだった林昌二がその提案を担当することになったのだそうです。
 林は、「この狭い土地いっぱいにビルを建ててもたかが知れている。広告塔かショールームのような外から見てもインパクトのあるビルを建ててはどうか」と提案。菱形の土地に円筒形のビルを建てることで敷地に無駄は出るけれど、その分を広告収入でカバーすればよいということで市村との合意に至ります。
 さらに、円筒建築の広告主と館内のショールームテナントとして三菱電機という大クライアントが入ることになり、建設費と定期収入の目処がついたことで、このプロジェクトは一気に現実味を帯びるものとなっていきました。 
 銀座の真ん中の円筒形の広告塔という大胆な提案をした林。それを受け入れた市村という異才の経営者。まさにその二人のコンビが、このユニークな建築を実現させたというわけです。

竣工当時、銀座中央通りにはまだ都電が走っていた。右手前が和光の建物

 確かに、三愛ドリームセンターの銀座における広告塔としての効果は絶大なもの。銀座の街を彩るネオンサインは、通常はビルの上に載っているものですが、三愛ドリームセンターはネオン広告がビルと一体化しているため、特に夜間はビル全体が広告のように街に浮かび上がります。
 当初から塔上のネオンで輝いていたのが三菱のスリーダイヤモンドのマーク。それが、竣工から27年後の1990年に「San-ai」のロゴに。1994年には「Coca-Cola」、2000年にはサントリーウイスキー「響」、2004年には携帯電話「vodafone」、2006年には本家本元の「RICOH」と、そこに映し出されるネオンは変遷し、そのたびにテレビや新聞などのニュースで話題となりました。

 この建物は、若き日の林昌二の出世作ともなりましたが、当時最新の工法に挑戦しながらの施工という点でも大いなる意欲作でした。
 銀座4丁目の狭小敷地にガラスの円筒を建てるにあたっては、まず中心に鉄骨のシリンダーコアを建てて4階までの床スラブをその場でコンクリートで施工。それより上階の5階から屋上階までの6層分の床は、あらかじめ工場で生産した放射状の形のプレキャスト・コンクリート(1フロア分24枚)を現場で一体化して円盤状に組み立て、それをリフトアップしていくという前代未聞の工法が採られました。
 外壁には、やはり当時最新であったステンレスとガラスのカーテンウォールが用いられています。今でこそガラス外壁のビルはあちこちで見かけますが、60年代前半においては皆無だったのではないでしょうか。そのガラスを接合するステンレスサッシのデザイン、接合技術は、この建物の透明感の決め手となるもの。大型の曲面ガラスもサッシも最新かつ最高峰の技術で特注生産されたものでした。

 林昌二は三愛ドリームセンター竣工の41年後、この建物についての雑誌取材(『カーサブルータス』2004年9月号)で以下のように語っています。
「当時は周囲に高いビルもなく、大変存在感がありました。今の銀座は節操もなくビルが建ち並び、品がなくなった。残念な気がします」
 確かに1963年の竣工時の写真を見ると、このガラス建築は周辺の建物より群を抜いて高く見え、光輝く姿は圧倒的。当時の銀座の街並みは中央通り沿いや晴海通り沿いにも2階建ての店舗が点在しているほどののどかさでした。
 しかし2004年の時点では周辺のビルは、三愛ドリームセンターとほぼ同じ高さに建て替わり、4丁目交差点付近は現在とほぼ同じく建て混んでいます。それからまた20年ほどが経ち、街並みは今後も大きく変化していきそうです。

2006年にはネオン広告がRICOHになり、その後2008年にはリコーの運営するフォトギャラリー「リングキューブ」が入居。2017年にはリコー製のプロジェクター80台による大規模プロジェクションシステムが設置され、ビル外壁にプロジェクションマッピングの投影が可能となった

新建物は2027年竣工予定

 現在の銀座では、ソニービル、2丁目のメルサ(1971年竣工)、アップルストアの入居していたサエグサ本館ビル(1967年竣工)などが建て替え中。私が幼い頃心躍らせたシースルーエレベーターのある銀座コアも近々閉館・再開発されるらしい。1960年代から70年代の高度経済成長期に一気にビル化が進んだため、その時期にできた築50年ほどのビルが老朽化の節目を迎え、再開発が相次いでいるようです。

 すでに三愛ドリームセンターの建物の解体は始まっていますが、銀座4丁目交差点という日中人通りが激しく、交番や地下鉄駅の出入口が前面にあり、解体した資材の搬出口も限られるという諸条件のため、解体期間は2年間となる予定。その後、さらに同じ条件下で新築工事が行われるため、新建物の竣工予定は2027年だとか。
 ここに再び建つ建物の施主は、三愛ドリームセンターと同様に、市村清の創業したリコー。新建物のコンセプト「CIRCULAR(サーキュラー) -めぐり めぐる よろこび-」に基づき、設計を担当するのは小堀哲夫氏。1971年生まれで、作品の受賞歴も多く、法政大学デザイン工学部建築学科教授も務める俊英建築家です。
 市村清と林昌二が生み出した異色の建築であり、60年間銀座4丁目交差点の象徴であり続けた存在が、今後どう受け継がれどんな姿の建築となるのか、期待を持って見守っています。

■撮影後記 都築響一

 高校生のころはちょっと遠回りの銀座乗り換えの定期券を買って授業が終わるやいなや学校を飛び出し、数寄屋橋の中古レコード屋・ハンター〜洋書店イエナ〜山野楽器・エレキギター売り場〜銀座ヤマハ・輸入レコード売り場、ときに名画座の並木座や銀座文化(現シネスイッチ)が入るというコースが定番だった。丸ノ内線の銀座駅を降りるたびに生き返った気がした。
 あれから半世紀が経ち僕は年老い、同じように年老いた銀座は若返りの真っ最中だけど、いまの銀座は都心でいちばん足を運ばない街になってしまった。
 高級品を売る店はたくさんあるけれど、高級な文化を売る店がひとつずつ姿を消していくのを見るのが、自分の老化を見せつけられるような気がして僕にはつらい。

鈴木伸子(すずき・のぶこ)
1964年東京都生まれ。文筆家。東京女子大学卒業後、都市出版「東京人」編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『山手線をゆく、大人の町歩き』『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』など。東京のまち歩きツアー「まいまい東京」で、シブいビル巡りツアーの講師も務める。東京街角のシブいビルを、Instagram @nobunobu1999で発信中。

都築響一(つづき・きょういち)
1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。上智大学在学中から現代美術などの分野でライター活動を開始。「POPEYE」「BRUTUS」誌などで雑誌編集者として活動。1998年、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。2012年から会員制メールマガジン「ROADSIDERS' weekly」(www.roadsiders.com)を配信中。『TOKYO STYLE』『ヒップホップの詩人たち』など著書多数。

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