『大奥』で描かれた、五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院とその信仰

カルチャー|2023.2.7
文=太陽の地図帖編集部

五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院と言えば、元祖「玉の輿」である。
幼名を「玉」といい、八百屋の娘から、将軍の側室となり、さらには将軍生母となって従一位に叙せられ、当時の女性の最高位に上り詰めた。そこから、女性が結婚により身分や階層が高くなることを「玉の輿」と呼ぶようになったとされる。

桂昌院ゆかりの京都にある今宮神社。「玉の輿神社」とも呼ばれている。

 『大奥』では、三代将軍・家光は女性で、桂昌院は男性として描かれている。
 男女逆転してはいるものの、やはり家光の側室となり、五代将軍となる綱吉を産み、権力者となっていく。
 一方、その出自は孤児とされ、有功に拾われ、有功付き小僧として江戸に随行し、共に大奥入りし、有功の部屋子となったものの、その後、有功の懇願により家光の側室となる、という設定である。

『大奥』第2巻P70より
トップの画像/京都の善峯寺は桂昌院が復興した寺のひとつ。境内には桂昌院の銅像がある。

俗説に信憑性はあるのだろうか。
また、有功との関係はどうだったのであろうか。

江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』には、玉の父は、関白二条光平の家司「北小路(本庄)太郎兵衛宗正」と記載されている。
しかし、これにはカラクリがある。

『柳営婦女伝系』(*)によれば、父は京都の八百屋の仁左衛門であったが、母は仁左衛門の死後に二条関白光平の家司本庄宗利の後妻となり、お玉も連れ子となったと記される。(P36・竹村誠 「母「桂昌院」を崇敬した綱吉と生類憐みの令を発した理由」より)
*『徳川諸家系譜』所収。将軍の側室の女性を知る史料の一つだが、信憑性には疑問も残る。

要は、母の再婚により、町人から武家へと身分が変わったのだ。厳格な身分制度のあった当時、これは破格の幸運であった。

では、有功ことお万の方との関係はどうであったのか。
これも定かではないが、一説には、お万の方と二条家につながりがあり、お万の方の部屋子となるため江戸に下ったとされる。
大奥には、公家出身の女中(京都)と旗本出身の女中(江戸)との争いがあったといわれ、桂昌院もまたお万の方と組み、江戸勢力に対抗していたのかもしれない。

さて、そんな桂昌院は信仰心が篤く、僧・隆光に帰依し、綱吉に世継ぎとなる男子を授かるために仏教の功徳を積もうとした。すべての生き物の殺生を禁じた「生類憐みの令」は、桂昌院が綱吉へ進言したことにより発せられた、との説も広く知られていることだろう。

『大奥』第5巻P90-91より

 そんな桂昌院の信仰心を今に伝えるのが、桂昌院がかかわった寺社仏閣だ。ゆかりの寺社仏閣は日本各地にあり、枚挙にいとまがない。特に、隆光が奈良の出身だった縁で、多くの奈良の寺社が再建されている。

 東大寺大仏殿が永禄10(1567)年戦火で焼失し、宝永6(1709)年に再建されるまで、破損した大仏は142年も野ざらしになっていた。大仏殿の再建は規模が違うことから桂昌院からの寄進だけでは成就できないが、桂昌院の崇仏心に押され、幕府は援助することを決断する。今、私たちが仰ぎ見る大仏殿は桂昌院の尽力もあり再建されたものである。
(P.37・畑尚子「今なお数多く残る、桂昌院ゆかりの寺」より)

 新規建立としては護国寺(東京都文京区)が知られる。桂昌院の祈禱寺として創建され、桂昌院は死去するまで約30年間、毎年30両を寄進し続けたという。

 訪れた寺に桂昌院ゆかりの品がないかを探してみるのも一興だろう。

桂昌院の発願により創建された護国寺。本尊は、桂昌院が個人的に崇拝していた如意輪観音像(絶対秘仏)である。

太陽の地図帖『よしながふみ 『大奥』を旅する』
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