失われつつある昭和の名ビル
2020年に予定されていた東京オリンピック前後、そしてコロナ禍となってからも都心の再開発の勢いは止まるところを知りません。これを東京の活力と見るべきなのか。しかしそこで失われていくのは昭和の街並みです。
1960-70年代の高度経済成長時代、日本の建築家やスーパーゼネコンは大いなる躍進を遂げ、世界的な名声を得ていきましたが、その時代に建設された築50年前後の建物が、今、続々と解体されています。
近年すでに解体されたものには、銀座のソニービル、虎ノ門のホテルオークラ旧本館・別館、黒川紀章設計のメタボリズム建築を代表する作品・中銀カプセルタワービル、丹下健三設計の旧電通本社ビル、浜松町の世界貿易センタービルなどがあります。
東京が都市として新陳代謝していくため再開発は仕方のないことと思いながら、私が子どもの頃から親しんできた建築や風景が失われていくことには悲しさと残念さを感じざるを得ません。
そんなことで、失われていく昭和戦後の建物を哀惜し、それらの建築史的価値、建物の味わい深さを解体前に多くの人たちに知っていただきたいと、この企画を思い立ちました。
連載第7回は、57年にわたり、数々の名演の舞台となった国立劇場を取材しました。
国立劇場
住所 東京都千代田区隼町4-1
竣工 1966年
設計 竹中工務店設計部 岩本博行
施工 竹中工務店
都心の一等地に立つ国立劇場
皇居半蔵門近く、内堀に面したこの上ない好立地に国立劇場は建っています。ここは、向かい側は皇居、隣りは最高裁判所という格調高い都心の一等地です。
1966年という、私がものごころつく以前からこの場所にあって、今後も永遠に存在し続けると思っていたこの劇場は、今年10月で閉場し、解体後に建て替えられることになっています。
思えば、私が高校生の時に初めて歌舞伎を見たのは、この国立劇場の大劇場においてでした。演目は「勧進帳」で、弁慶が染五郎(現・二代白鸚)、富樫が孝夫(現・十五代仁左衛門)、義経が勘九郎(後の十八代勘三郎)という豪華キャスト。それで歌舞伎という芸能の面白さに目覚めた私は、やはり高校時代に、七代梅幸演じる「京鹿子娘道成寺」、初代辰之助が主役を演じた「夏祭浪花鑑」も見に行ったことを記憶しています。
その後、大学生の時に初めて歌舞伎座に行き、同じ歌舞伎を上演する劇場にしてもあまりに雰囲気が異なることに驚いたものです。2010年に歌舞伎座が建て替えられることになった時は、それまで馴染んできた劇場がなくなることが名残惜しく。しかしながら建て替え後に以前とそれほど変わらない劇場として生まれ変わったことには拍子抜けしたというか安堵したというか。
一方で今回の国立劇場の建て替えはPFIの手法による施設の整備となり、民間経営のホテルやレストランなども入るということで、現在の劇場とはまったく異なった建物となるはず。閉場前にできるだけこの場に通い、今の劇場との別れを惜しんでおきたいと感じています。
建て替えの理由は、建物の老朽化。現在の建物の竣工は1966年なので、今年で築57年。2020年の東京オリンピック開催に合わせて新劇場を建設する計画があったそうですが、様々な理由で遅れ、今年閉場することになり、新劇場の竣工予定は2029年度とのこと。
実は、国立劇場とは、歌舞伎や日本舞踊、民俗芸能などを上演する大劇場以外にも、文楽を上演する小劇場、落語、漫才、講談などのための演芸場、そして歌舞伎俳優や歌舞伎音楽、大衆芸能の研修機関である国立劇場伝統芸能伝承者養成所、展示室や図書室のある伝統芸能情報館を含む、ハード、ソフト両面から伝統芸能を普及継承していくための一大複合施設なのですが、今回は、私がその中でももっとも親しんできた大劇場に関しての取材をお願いしました。
改めて国立劇場を皇居側正面から眺めてみると、前庭の植栽の樹々が成長し、内堀通りから建物はほとんど見えません。敷地内に入り歩いていくと、ようやく横長プロポーションの伝統的で上品な印象の建物が姿を現します。
恥ずかしながら、私は今回この建物について調べて初めて知ったのですが、この外観デザインは奈良の正倉院を模したものなのだそうです。この初代の国立劇場の設計案はコンペによって選ばれたものでしたが、一等入選した竹中工務店設計部の岩本博行は、この劇場設立の目的が伝統芸能の保存であることから、天皇家の御物を保存してきた歴史的建造物・奈良の正倉院の校倉造りを外観に採用したのだとか。
その建物正面の左手が大劇場、右手が小劇場。館内に入ると、大劇場のロビーには桜の花がちりばめられた絨毯が敷き詰められ、三層吹き抜け空間の天井には球形のシャンデリアが煌めいています。ロビー中央に鎮座しているのは、この大劇場の守護神のようにも感じられる平櫛田中作の「鏡獅子」(1958年)の木彫。2階ロビーには経団連寄贈による著名画家の日本画や歌舞伎俳優の胸像が並び、3階にも長谷川昇による歌舞伎役者の肖像画が展示されているといった具合に、東京国立近代美術館の展示室に匹敵するようなギャラリー空間が展開されています。
国立劇場が開場した66年には帝国劇場(谷口吉郎設計)、3年前の63年には日生劇場(村野藤吾設計)と、都心にデラックスな大劇場が続々とオープンした時代。いずれの劇場もその当時に活躍した建築家の代表作とされているものですが、ここ国立劇場は、その中でも伝統色を重んじた落ち着いた内装が特徴。とはいえ、芝居見物という非日常の場にふさわしい華やかな空間が実現されています。
客席内に入るとゆったりとした雰囲気で、これはどうも国立劇場という建物全体に共通するスケール感のようです。前庭、ロビー、通路なども十分なスペースが取られていてせせこましくなく、もともとの敷地の大きさから、計画の段階で十分な面積をとることが可能だったからなのでしょう。
また、客席には歌舞伎座と違って桟敷席がありません。花道を電動で上下させ、その部分を客席にすることもできるそうで、これらは、この大劇場が歌舞伎以外の雅楽や声明、日本舞踊、民俗芸能など様々な演目にも用いられるためだとのこと。開場当時から初代水谷八重子主演の新派公演、杉村春子主演の新劇公演なども行われ、貸劇場として谷村新司のコンサートも行われてきたそうです。
今回は撮影のため、私も1階客席から花道を通って舞台に上がるという夢のような体験をさせてもらいましたが、その舞台上から客席を眺めると、2階席、3階席までも近く感じられ、これは客席からも舞台がよく見えるということだと実感しました。
舞台は国産の総檜貼りで、とにかく面積が広いことが特徴。客席側から見た舞台間口は22メートルですが、舞台の左右の袖までを含めた幅は64 メートルもあり、奥行きは27メートルと、演技面積に対して舞台面積が6倍もの広さを持っているのだそうです。そのため、次の場面の装置を舞台袖に用意しての迅速な場面転換が可能。こんなに舞台面積に余裕のある劇場は国内で唯一だとか。また、舞台上の天井高も客席から見える高さの3倍もあり、ここに緞帳、照明や装置など様々な吊りものを下げることができます。
廻り舞台の直径は20メートル。“せり”は17もあり、使いこなすだけで大変そうです。
バックヤードである楽屋に案内してもらうと、こちらの廊下も幅広くゆったりとしていて絨毯敷きです。幹部俳優のための一人部屋の楽屋、そして相部屋の楽屋、風呂場などが並び、57年間のこの劇場の歴史の中で、どんな名優がこの場所を使用してきたのか思いを巡らしてしまいます。楽屋口には神棚が設えられ、お祀りしてあるのは新宿・花園神社の神様だとか。
当初は純白で提案されていた外観
この国立劇場の設計者を決める公開コンペでは、1962年9月1日より公募を開始。1963年2月末の応募締切後、6次にわたる選考を経て翌3月23日に入賞者を決定しています。
建物の設計者をコンペティション=設計競技によって決めることは、国内でも明治、大正期から行われてきましたが、戦後の高度経済成長期になると公共建築や大型建築のコンペ開催が増えていきました。60年代前半から後半にかけては、国立劇場、国立京都国際会館、最高裁判所庁舎という国の大きな公共施設の設計案募集が相次いで行われ、これらは当時の建築界において「三大コンペ」と位置付けられ、その最初に実施されたのが、この国立劇場のコンペだったのです。
そもそも、国立劇場の設立準備が閣議決定されたのは1956(昭和31)年、「もはや戦後ではない」といわれた年でした。この段階では、劇場をどこに作るかが検討されている状況で、当時連合国軍に接収されていた千代田区隼町のパレスハイツ、永田町の旧閑院宮邸跡、新宿御苑、日比谷公園、赤坂御所の一部などが候補地となっていましたが、最終的にパレスハイツと赤坂御所に絞られ、当時の皇太子のご成婚が決まり、赤坂御所にその新居を建てる必要があるのではなどの配慮もあったようで、1958年に建設地は接収解除になったパレスハイツ跡地にようやく決定。
このパレスハイツは、戦後は米軍のカマボコ形兵舎が並び建っていた寂しい場所だったとか。コンペの募集要項の決裁の段階になって、河野一郎建設大臣が、「大体、人の集まりそうもない場所に23億もの金を注ぎ込むのは無駄だ。古典保護の意味なら歌舞伎や能楽に何億円かの現金を与えてやればそれで充分だ」と閣議で反対論を主張しだしたという話も新聞で報道されています。
そうした紆余曲折を経て開催に至った国立劇場の設計コンペの審査員には、演劇・文化関係者から伊藤熹朔(舞台美術家)、河竹繁俊(演劇学者)、高橋誠一郎(経済学者・日本芸術院院長)、細川護立(細川家当主)、建築界からは内田祥三、岸田日出刀、谷口吉郎、村野藤吾、吉田五十八と大御所が勢揃いしました。
募集要項では、コンペに一等入選したとしても実施設計を担当するのは建設省という条件があらかじめ提示されており、入選したとしてもオリジナルの設計案は、建設省によって修正されることが前提であり、一方で、賞金は350万円で当時としてはまあまあの価格だったそうです。
そこで一等となったのは竹中工務店大阪本店の設計部長・岩本博行の案。当時脚光を浴びていたのは丹下健三や菊竹清訓といったフリーアーキテクトたちでしたが、それを抑えてゼネコンの設計部の案が1位となったことは、建築界でかなり物議を呼んだようです。
この岩本案は、先にも述べたように奈良の正倉院の外観を模したもので、設計者の岩本博行は、コンペ案の設計にあたり奈良の正倉院に足しげく通い、そのコーナーのディテールを熱心にスケッチしていたとか。確かに、国立劇場の建物外観を改めてよく眺めてみると、コーナー部の木材の木組みを模した部分が、建物全体の要になっていると感じます。
その一等入選案では、建物両側に塀を作り、自動車を入れずに歩行者が玉砂利を敷いた前庭を歩み、静かな雰囲気のなかで伝統芸能を鑑賞する場に入場するというのがコンセプトでしたが、実施段階では現在のような形に変更されています。開場当時の国立劇場近くには地下鉄の半蔵門駅も永田町駅もまだなく、新宿駅や有楽町駅から出ていた国立劇場行きの都営バスが多くの観客のアクセス手段となっていました。劇場建物前には、このバスなどの自動車を横付けする必要があったわけです。
また、設計案を出した岩本自身により、当初は純白で提案されていた校倉造りの外観が焦げ茶色に変更されるという驚くような展開もあったそうです。純白は、考えてみれば西洋の美しさ、伝統芸能を保存振興するには、風雪に耐える古代の色調を持つ宝庫がふさわしいのではないかというのが、その理由。あの国立劇場の建物が焦げ茶色ではなく純白だったとしたら、校倉造りだとしても随分モダンな雰囲気になったはず。それが、コンペ入選後に変更されたとは意外ですが、岩本が熱心に主張した結果認められたそうです。
しかし、古色蒼然とした木造建築の色合いをコンクリート材で表現するにはかなりの困難が伴い、いくつもの方法を試行錯誤した結果、硫酸第一鉄に硫酸マンガンを加えた水溶液をコンクリートの表面に塗って化学反応により色素を定着させる「ケミカル・ステイニング」の方法が採用されのだそうです。
名優たちの活躍を見守った劇場
竣工から57年目に閉場し解体されることになった国立劇場ですが、伝統芸能の保存を目的として設立された施設として、創立当時の演劇界においてはどんな存在だと受け取られていたのでしょうか。そんな漠然とした問いを抱いていたところ、なんと、創立時からこの劇場に通い、翌年には職員となった、元国立劇場理事の織田(おりた)紘二さんにお話を伺うことができました。
織田さんは國學院大学を卒業後、早稲田大学の大学院に入り郡司正勝氏に師事しようと希望していたところ、郡司氏本人から国立劇場の職員になるように薦められて新卒で国立劇場芸能部に入り、その後、歌舞伎の制作者としての仕事を続けてこられたということ。
その前年、大学4年生だった66年11月に開場した国立劇場では、柿落としの「菅原伝授手習鑑」を観劇。当時から国立劇場で上演する民俗芸能や琉球舞踊公演の制作を手伝うなど、劇場との関わりがあったそうですが、翌年からは、国立劇場の歌舞伎公演の制作者でもあった郡司氏の助手を務め、最年少の制作スタッフとして、松竹、東宝、前進座などの舞台の制作、進行をまとめる役割を担ってきたそうです。
当時は現在と違って松竹以外にも様々な興行会社が歌舞伎公演を上演していた時代。「それぞれで制作の方法が違うので現場は大混乱。僕より年上のスタッフは自分の親父と同じくらいの年齢ですから、一番年下の僕がそれらを一つの書式にして全スタッフに通達する役割を担当していました。そうして国立劇場独自の進行・制作方式を一から作っていくことになったんです」とのこと。
当初、織田さんは国立劇場に入ることをかなり逡巡したそうで、その理由は「歌舞伎は歴史的に幕府に弾圧を受け、それをエネルギーにして栄えてきた芸能。近代以降の新劇にしても国家権力にたてつく側だったから」と。しかし「とにかく歌舞伎が好きだった」という情熱が、織田さんをこの劇場に導いたようです。
そうして就いた劇場開場からの約10年の間は、大佛次郎、宇野信夫、北条秀司、舟橋聖一、川口松太郎、三島由紀夫などの大作家たちが作品を書き下ろし、演出した「作家の時代」。そしてその後10年間は、歌右衛門、松緑、勘三郎、仁左衛門、鴈治郎、幸四郎といった昭和の名優たちが活躍した「役者の時代」だったと、往時を懐かしみます。「当時は文化人も作家も画家も歌舞伎をよく見ていて、応援してくださる方がいっぱいいた。そんな、国立劇場が一番幸福な時代に自身は巡り合ったのだ」ということです。「その後の歌舞伎界は」と問うと「混迷の時代に入りましたね」とのお答え。
私は高校時代に、その「幸福な時代」の最後の片鱗を見たということでしょうか。織田さんに、私が初めてこの劇場で見た「勧進帳」の舞台についてお話ししたところ、その公演期間中に来日したアメリカのカーター大統領が「勧進帳」を観劇。感動し、スタンディングオベーションとなった挙げ句、歌舞伎では異例のカーテンコールが行われたそうです。
その後、私がこの舞台で見た梅幸、辰之助、羽左衛門、勘三郎、吉右衛門、藤十郎といった役者も皆鬼籍に入り、彼らが活躍した国立劇場の建物が建て替えられてなくなるということには、時の流れを感じざるを得ません。
しかし歌舞伎という芸能は、役者が襲名し、芸を継承し次代につないでいくもの。その芸の継承の場をこの劇場は57年間にわたり担ってきたということになります。そんな国立劇場の建物でこれから数カ月あまりとなったさよなら公演の舞台は、なんとしても見届けておかなければ。閉場は10月末。7月、9月、10月に大劇場での歌舞伎公演が予定されています。
■撮影後記 都築響一
鈴木さんの文章で国立劇場が進駐軍のパレスハイツ跡に建てられたと知って、ちょっと感傷的な気持ちになった。僕は国立劇場から徒歩2、3分の麹町2丁目で生まれ育って、1966年といえば10歳、小学校3、4年あたりだった。よく、赤んぼうの頃から記憶があるというひとの話を聞くが、僕は子どものころのことをほとんど覚えていない。でも、いま国立劇場があるあたりはとにかく一面、背の高い草がぼうぼうで(子どもの視線からすれば)、そのなかに兵舎らしきものがぽつぽつあったような風景がかすかな記憶にあり、それがほんとうなのか夢だったのか、確かめもせず半世紀以上放っておいたのだった。
いまはただのオフィスビル街になっている麹町から平河町、隼町かいわいだが、当時は新宿通り(麹町大通り)を挟んで大きなお屋敷が北側を中心に並び、国立劇場の裏手には自動車修理の町工場がいくつもあり、スポーツ報知を発行する報知新聞社もあった。
新宿通りにはびっしり商店が並び(うちもその一軒の薬局だった)、新宿と銀座を結ぶ都電も走って、いまとはぜんぜんちがう活気がある街だった。この都電(12系統)が廃止されたのが1968年だったので、国立劇場や最高裁判所(1974年竣工)が出現したあたりから、このエリアを含む皇居の西側は徐々にキャラクターを変えていったのかもしれない。
鈴木伸子(すずき・のぶこ)
1964年東京都生まれ。文筆家。東京女子大学卒業後、都市出版「東京人」編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『山手線をゆく、大人の町歩き』『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』など。東京のまち歩きツアー「まいまい東京」で、シブいビル巡りツアーの講師も務める。東京街角のシブいビルを、Instagram @nobunobu1999で発信中。
都築響一(つづき・きょういち)
1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。上智大学在学中から現代美術などの分野でライター活動を開始。「POPEYE」「BRUTUS」誌などで雑誌編集者として活動。1998年、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。2012年から会員制メールマガジン「ROADSIDERS' weekly」(www.roadsiders.com)を配信中。『TOKYO STYLE』『ヒップホップの詩人たち』など著書多数。