聖者のような芸術家になりたい──画家・石田徹也の人生

別冊太陽|2023.7.5
文=別冊太陽編集部 バナー画像=《捜索》第一生命保険株式会社蔵

 別冊太陽の新刊では夭折の画家・石田徹也を特集。
 生誕50年となった今年、石田が作品に込めた想いを、同時代史とともに読み解く決定版だ。
 石田徹也とはどのような作家だったのか。担当編集者が本誌の見どころとともに語る。

団塊ジュニア、就職氷河期、ロストジェネレーションとして生まれて

 1973年生まれの石田徹也は、団塊ジュニア世代に当たる。人口のボリュームゾーンとなったこの時期の子どもたちは、大量生産される工業製品のように、学校教育や社会の中で、規格化され、枷をはめられ、管理されるべき人間として育てられてきた。
 幼少期に高度経済成長が終焉を迎え、社会を意識し始める10代後半にバブルの崩壊を経験。武蔵野美術大学を卒業する頃には、世の中では就職氷河期が話題となり、自信を失った日本社会は、若者に荒々しい牙をむくようになる……。
 ざっと石田の20代前半までを振り返っただけでも、石田が不安定化する日本の転換期を生きたことが分かる。1973年生まれの石田は、後にロストジェネレーションと呼ばれる世代のトップバッターでもあった。
 しかし、石田徹也が、社会に対して、ただただひ弱な存在だったとは思わない。誰もがうつむき、時代の輪郭を描けずにいるなかで、石田はギャグやユーモアを交えながら、時代を描くことをやめなかった。
 石田の代表作となる《飛べなくなった人》をはじめ、不自由な社会に生きる人々を描いた作品が、こうも人々の心に響くのは、苦しみの当事者でもある石田が、私たちの悲しみを、作品という形で代弁してくれているからではないだろうか。

表紙に掲載されているのが、石田の代表作《飛べなくなった人》。
別冊太陽誌面より。星野智幸の小説『俺俺』の表紙にも掲載され有名となった《燃料補給のような食事》。
左/《休暇》部分。右/《めばえ》部分。

石田徹也の言葉の力

 今回の別冊太陽では、石田作品を理解するために、石田の生きた時代背景もあわせて紹介している。また、作品解説も、石田が影響を受け、作品にも組み込んでいる事件、風俗、文化などの考察を加えて読み解いている。1990年代から2000年代初頭という、稀にみる転換期に生きた芸術家の道筋がたどれるはずだ。
 それと同時に、本特集で意識したのが、石田が遺したノート類から、多くの言葉を掲載したことだ。
 たとえば、サブタイトルにも引用した、石田本人の次の言葉がある。


 「聖者のような芸術家に強くひかれる。
 『一筆一筆置くたびに、世界が救われていく』と本気で信じたり、
 『羊の顔の中に全人類の痛みを聞く』ことのできる人達のことだ。
 自分は俗物だと思い知らされます。」


 「聖者」というのは、殉教者や懺悔聴聞師をイメージしているのだろうか。ここまでまっすぐに社会的意義や、公共への貢献を考えていることに、ハッとさせられる。
 「世界が救われていく」ことを本気で信じる、ということは生半可なことではない。アート業界も不況のあおりを受け、コマーシャルギャラリーなど「売れる」絵が評価される時代にあって、「世界を救う」ことを愚直に志すことは、多くの軋轢があっただろうと予想できる。

随所に石田の「言葉」を掲載。その言葉は、時代性もあわせて、心に迫ってくる。

 次は、26歳頃の石田の言葉だ。


 「僕の 自画像 作品は、鑑賞者が現代や、
 社会的価値について見回す機能をもつと信じる。
 もっている。」


 最後に、「もっている」と書き加えたことに、石田が心の奥に秘めていた、静かな矜持を感じさせる。
 石田の言葉は、どれも青春の瑞々しさがあり、また、90年代から2000年代初頭の時代の風をビビットに思い起こさせる。
 最後に、同じく26歳頃、作品を買ってくれた外国人への礼状の下書きが残っている。


 「絵を買ってくださって本当にありがとうございました。(中略)
 できれば直接私がお宅まで絵をおきに行きたかったのですが、アルバイトが忙しくいけませんでした。(中略)
 いまのところ日本の有望な若手にすぎませんが、いつか必ず、世界的に注目される作家になりたいと思っています。」


 石田は、大学卒業後は両親からの仕送りを断り、夜間にバイトをして、日中のほとんどを制作に打ち込んだ。食事はレトルトのカレーやパスタを大量に買い込んで、毎日同じものを食べていたという。
 「いつか必ず、世界的に注目される作家になりたいと思います」という言葉は、生前には叶えることはできなかったが、2019年に、ピカソの《ゲルニカ》も展示されている、スペインのソフィア王妃芸術センターで個展が開かれ、今年9月には、世界最大のメガギャラリーである、ニューヨークのガゴシアン・ギャラリーで個展が開催される。日本社会の変節期に、その時代性を色濃くまとった作品を描き続けた石田に、いま世界の注目が集まっているのだ。
 あの時代とは何だったのか──。石田作品に接するとき、いつもそのことを考えさせられる。

当時のサブカルチャーなど、時代性とともに石田作品を解説。愛用した道具たちなどのコラムも多数。

【目次】

◎巻頭エッセイ
「社会的身体」から「生成の不安と恍惚」へ 水無田気流

◎1973-1994 0-21歳
絵が好きだった少年

◎1995-1997 22-24歳
退路を断って絵の道へ
(閉じこもる/初個展「漂う人」/サラリーマンという表象)

◎1998-2001 25-28歳
他人の自画像──社会への目線
(同化する人間/死と救済/ユーモアとギャグ)

◎2002-05年 29-31歳
ずーと描く、描くのが僕
(内なる子ども/さまよえる自我)

◎column
サブカルチャーの時代と石田徹也 堀切正人
描かれなかった構想 アイデア帖、スケッチブックから 堀切正人
愛用の道具たち
石田徹也没後の海外評価をめぐって 川谷承子

◎essay
石田さんのことは何も知らなかった 大槻ケンヂ
「ボイス」の頃と石田さんの顔 雨宮庸介
時空を越えた二人の石田徹也──絶望と希望の狭間で 和田友美恵
Notes 平林 勇

◎石田徹也の痕跡を求めて

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