『別冊太陽』の創刊50周年と特集「小さな平屋に暮らす」の刊行を記念して、建築家・藤井厚二が設計した住宅建築の名作「聴竹居」および「八木邸」の読者限定見学会が開催された。見学会が開催されたのは、今季一番の暑さ(当時)となった7月1日。案内人は「聴竹居倶楽部」「八木邸倶楽部」代表を務める松隈章さんである。松隈さんの案内で貴重な住宅を見学できるとあって、全国各地から数多くの方々に見学会にご応募いただき、当日10時半に集合できることを前提に抽選を行い、10名の方にご参加いただいた。参加者は、設計事務所や工務店、自治体の方など、建築やその保存活動について関心をお持ちの方も多く、なかには茨城県から神戸空港経由で参加されている方や、プロ顔負けの一眼レフカメラを携え、松隈さんの話を聞きながら熱心に撮影をされている姿に関心の高さが伺えた。
私が「聴竹居」と「八木邸」を訪れたのは今回が2回目で、最初に訪れたのは昨年に刊行された『別冊太陽』の特集「日本の住宅100年 語り継ぎたい、わたしの『家』の話」の巻頭企画の取材のときだった。「日本の住宅100年」を象徴する住宅として、藤井厚二が手がけた初めての注文住宅である「八木邸」を取り上げたいと思い、「八木邸倶楽部」にを申し込んだところ、松隈さんから「藤井厚二が追い求めた『日本の理想の住宅』を体感するには、ぜひ『聴竹居』も合わせて見てほしい」というお誘いを受けたのである。取材に伺ったのは新緑の眩しい4月の半ば、楓の見事な枝ぶりと自然と調和するかのような「聴竹居」の姿は、100年近く経っているとは思えないほどモダンで瑞々しく、また「八木邸」の白く統一された台所も衛生に対する美意識が貫かれており、しばらくスマホの待ち受け画面にするほどに印象に残る光景となった。
藤井厚二が設計した「聴竹居」は、
どのようにして重要文化財になったのか
今でこそ「聴竹居」は、建築家が昭和時代に建てた住宅として初めて2017年に国の重要文化財に指定されているが、思い返してみると、私が学生だった90年代後半にはその存在はほとんど知られていなかったように思う。2000年を過ぎた頃から「聴竹居」の名前を耳にするようになり、10年代に入ってからは、住宅設計を手がける建築家から「ぜひ、見たほうがいい」と薦められるようになり、最近では「まだ見てないのか」と半ば落胆の言葉を浴びせられるようになっていった。「聴竹居」や「八木邸」の魅力については、書籍や弊誌を手にとってご覧いただければと思うが、可能であるならばぜひ実際に見学して体感していただくのが一番だろうと思う。したがってここでは、松隈さんがどのようにして「聴竹居」や「八木邸」と出会い、社会的な認知を広げながら保存運動を行ってきたのか簡単に辿ってみたい。
阪神淡路大震災が、
歴史的建築物の保存を考えるきっかけに
松隈さんが初めて「聴竹居」を訪れたのは1996年。そのきっかけとなったのは、前年に起こった阪神淡路大震災である。都市の風景を一変させる災害を目の当たりにし、歴史的建築物の保存の重要性を痛感、半壊した、関西建築界の父と言われる建築家・武田五一が手がけた明治末期の木造家屋「芝川邸」の実測調査や広報・展示活動などに取り組んでいた。そうした活動のなかで、武田と縁浅からぬ藤井厚二が松隈さんの勤務する竹中工務店にかつて所属しており、藤井が自邸として建てたこの「聴竹居」が京都の大山崎町に現存していることを知ったという。当時、一般の人はもちろん、建築界や地元の大山崎町民にすらほとんど知られていない存在だったそうだ。「聴竹居」の和と洋が融合したモダンな佇まいや日本の自然や風土と呼応した環境共生的な思想に魅了される一方で、所有者にとってはその建築・文化的な価値がわからず、一般的な賃貸住宅として使用されていた建物の存続に対する危機意識が芽生える。
1999年末に空き家となったことをきっかけに将来の維持保全に必要な図面作成のため、2000年に竹中工務店大阪本店設計部の有志で実測調査を行い(2001年3月『環境と共生する住宅 「聴竹居」実測図集』彰国社刊)、時を同じくしてDOCOMOMOの日本支部が日本のモダニズム建築を代表する最初の20選のひとつに「聴竹居」を選定、翌2000年には展覧会が全国各地で開催され、社会的認知度が次第に高まっていく。2008年には、建物の維持管理や見学ガイドなどを担う地元組織「聴竹居倶楽部」が発足。そして社会的な注目を一気に集めることとなったのは2013年、テレビ番組で聴竹居をご覧になられた天皇皇后両陛下(現 上皇上皇后両陛下)の行幸啓の栄に浴したことである。2016年には株式会社竹中工務店が聴竹居を譲り受け、一般社団法人「聴竹居倶楽部」が建物の維持管理・運営や公開活動を担う枠組みが整った。そして2017年7月、聴竹居は昭和時代の建築家の自邸として初めて国の重要文化財に指定されるまでになったのである。
「聴竹居」の実測図集がきっかけとなり、
「八木邸」の再発見へとつながる
さらに、2001年に発行した『環境と共生する住宅「聴竹居」実測図集』が、新たなる出会いをもたらす。藤井厚二が「聴竹居」の竣工2年後に同じ大工の酒徳金之助と共に完成させた「八木市造邸」の現在の当主の八木重一さんに繋がることができたのだ。当時、大手総合電気メーカーのエンジニアだった八木重一さんが大型書店に立ち寄り、たまたま建築のコーナーで同書に目が留まり、本の中に掲載されている藤井厚二の建築作品目録を見て、自分の住む「八木市造邸」が、“現存”でも、“解体”でもなく、“不明”と記されていることを知る。普通であれば話はここで終わるところだが、エンジニアとして海外出張することが多かった八木重一さんは、ドイツに向かう飛行機の中でたまたま隣に座った人に声を掛け話し込むうちに、その人がドイツ竹中(竹中工務店の現地法人)の社員だと知る。そこで、「八木市造邸」が“不明”と記されているが、現存しているのでその旨をこの本を編集した人に伝えてほしいと依頼したのだ。そのことが松隈さんの耳に入り、ほどなく八木重一・圭子ご夫妻が住む「八木邸」を訪問することになったというのだ。
住宅を次世代にのこすためにも、
素晴らしさを体感し「ファン」になってほしい
いかに魅力のある住宅とはいえ、次世代にのこしていくことは容易ではない。個人所有であれば、日常の管理のみならず固定資産税や相続税が重くのしかかってくる。「聴竹居」のように個人から企業に所有を移行させた上で重要文化財に指定し、維持管理を行う組織を一般社団法人化することができればいいが、そこに至る道は、これまで松隈さんの活動を見てきたように、情熱と行動力に加えて、社会的な機運や運も味方につけなくてはならず、決して簡単な道のりとは言えない。「八木邸」も地域の大学などの学術組織と地元のボランティアスタッフが連携し、保存・啓蒙活動と並行して維持管理を行っているが、次世代に繋いでいくためにはまだまだハードルがある。名作住宅を中心に建物そのものの価値を認め、所有者に寄り添いながら遺産として継承をサポートする住宅遺産トラストの活動など、さまざまな動きが活発になってきているが、まだまだ十分ではない。住宅そのものの歴史的価値を認めること、そうした文化を社会に醸成していくには、住宅の「ファン」になってもらい、そう思う人を増やしていくしかないのではないかと思う。“推しの名作住宅”や“推しの建築家”ができるなんて、素敵なことではないだろうか。そのためには、やはり実際に体感して魅力を感じてもらうことが一番だろう。一世紀近くを経てなお、住宅の理想を体現する「聴竹居」や「八木邸」のような住宅の見学ができることは、日本の住宅を再発見する意味で大きな契機となるはずだ。
聴竹居
建築家・藤井厚二が自邸として設計した「聴竹居」(1928年)。日本の気候風土と日本人の感性やライフスタイルに適合させた普遍的な「日本の住宅」の理想形を提示している。「聴竹居」は、1999年に日本のモダニズム建築を代表するとしてDOCOMOMO Japan最初の20選に選定され、2017年には建築家が昭和時代に建てた住宅として初めて国の重要文化財に指定された。(京都府乙訓郡大山崎町/JR山崎駅、阪急大山崎駅より、それぞれ徒歩約10分程度)
http://www.chochikukyo.com
香里園 八木邸
藤井厚二設計による木造瓦葺二階建住宅。大阪で綿花・綿糸・絹織物を商っていた八木市造とその家族のために建てられた藤井にとって初めての注文住宅。竣工(1930年)当時とほとんど変わりない状態が保たれ、また現存する藤井設計の住宅の中でも特にオリジナルの家具や調度品がたくさんのこされている。(大阪府寝屋川市/京阪本線香里園駅より徒歩5分)
http://www.yagiteiclub.com
松隈章(まつくま・あきら)
一般社団法人聴竹居倶楽部代表理事、八木邸倶楽部代表。株式会社竹中工務店 設計本部設計企画部部長付企画担当。1957年兵庫県生まれ。北海道大学工学部建築工学科卒業。著書に『聴竹居:藤井厚二の木造モダニズム建築』(平凡社コロナ・ブックス)、『木造モダニズム建築の傑作 聴竹居 発見と再生の22年』(ぴあ)など。聴竹居の保存・研究活動などにより「日本イコモス賞2018」、「2018年日本建築学会賞 業績賞」を受賞。
聴竹居について、詳しくはこちら。
『聴竹居:藤井厚二の木造モダニズム建築』
https://www.heibonsha.co.jp/book/b193686.html
八木邸について、詳しくはこちら。
別冊太陽 『日本の住宅100年:語り継ぎたい、わたしの「家」の話』
https://www.heibonsha.co.jp/book/b581523.html