『民藝の100年』 東京国立近代美術館

暮らし|2021.11.22
坂本裕子(アートライター)

「民藝」の眼を通して浮かび上がる100年の社会と意識、そして「いま」

柳宗悦、河井寬次郎、濱田庄司らが中心となって作り出した生活文化活動「民藝」。
 「用即美」、つまり生活の中に美があるとして、名もなき職人たちによってつくられた日常の生活道具を「民衆的工芸(民藝)」と名づけ、それまで“美術品”として鑑賞されてきた作品にも劣らぬ美のあり方を提唱した。
 それは、近代化の名のもとに西洋化され、工業化による大量生産品が浸透しつつあった生活環境に警鐘と覚醒をうながすものであり、現代にいたるまで人々を触発し続けている。

「民藝」のことばが生まれたのは1925年の年末のこと。
 それから96年、まもなく100年を迎えようとするこの運動を、その思想の中心的存在であった柳宗悦の没後60年の記念にあわせて、改めて見直す展覧会が東京国立近代美術館で開催中だ。

ホームスパンを着る柳宗悦 日本民藝館にて 1948年2月 写真提供:日本民藝館
モダン・ボーイでもあった柳らは、みなお洒落。
スコットランド・アイルランド原産の手紡ぎ・手織りの毛織物であるホームスパンを好んで着用していた柳。ここで彼が着用してるものは、ホームスパンを見せられた及川全三が、郷里の岩手で草木染のホームスパンを生産するようになり、彼が制作したジャケット。

柳らが蒐集した陶磁器、染織、木工から蓑・籠・ざるなどの生活道具、大津絵のような民画のコレクションに、彼らの活動の記録である出版物、写真・映像などの資料を合わせ、総展示数450点を超える一大回顧展は、「民藝」の活動の振り返りのみならず、その時代の社会や歴史、経済の姿を浮かび上がらせ、現代へと接続されている。

東京国立近代美術館での開催であることもポイントだ。
 かつて、開館(1952年)まもない頃に、同館は晩年の柳から、彼らが発行していた雑誌『民藝』で批判を受けていた。
 いわく、「近代美術館は官設だが、民藝館は私設である」、「近代美術館はその名の通り“近代”に主眼が置かれるが、民藝館は展示する品物に“近代”を標榜しない」など。
 東京(中心)/地方(全国)、官/民、近代/前近代、美術/工芸という対立項の中で、同館の存在意義は、柳がその活動で壊そうとしていた概念を体現するものとしてとらえられたのだろう。

東京国立近代美術館もまもなく開館から70年を迎えようとしており、民藝運動と同様に時代とともに変化してきた。
 その変化も踏まえ、柳への「返答」として構成された本展は、柳の生涯とその活動の軌跡をゆるやかな経年の全6章で追いつつ、10項目のテーマを各章にちりばめる。
 時間軸を縦糸に、「発見と蒐集」、「都市と地方」、「建築から景観まで」、「展示する」、「売る/買う」などのテーマを横糸に丁寧に織り込んだ、壮大な織物のような空間は、行きつ戻りつしながら、じっくり観て、読むことをうながす。

3章(左)、4章(右)展示風景から
柳が創設から細かい点まで関わり、初代館長を務めた日本民藝館の柳デザインの展示棚や柳所用の家具などとともに、民藝運動の中で生み出された作品を空間として楽しめるよう、展示も工夫されている。

「民藝の父」として知られる柳宗悦だが、彼が大正期の文芸に大きな影響を与えた雑誌『白樺』に関わっていたことはあまり知られていない。
 学習院高等学校在学中、最年少の同人として参加した彼は、まさに西洋文化に魅せられたモダンボーイから出発したのだ。

『白樺』の同人たちとの付き合いから、バーナード・リーチを知り、同時に東洋美術への関心が彼らの間で高まる中で、西洋の美術を学んだ「新たな眼」は、“手仕事”の魅力を見いだすとともに、西洋と東洋との融合を夢見るようになる。

《染付秋草文面取壺》(瓢形瓶(ひょうけいへい)部分) 朝鮮半島 朝鮮時代 18世紀前半 日本民藝館
彫刻家を志していた浅川伯教が、柳が所蔵していたロダンの作品をみるために訪ねた際にお土産に持参した壺。この朝鮮の壺が、柳が陶磁器の美しさに開眼する契機になったという。

柳が結婚後に居を構えた千葉県・我孫子の地には、志賀直哉や武者小路実篤が移り住み、バーナード・リーチの窯も築かれて、柳が「コロニー」と呼んだ芸術家村が形成された。これが民藝運動の揺籃の地となり、雑誌上での作品の紹介、蒐集、そして美術館建設の夢へとつながっていく。

その作品の発掘・蒐集にあたっては、精力的な「旅」が重要なファクターとなる。 
 柳、濱田、河井ら、民藝運動の創設メンバーは、日本各地に、朝鮮、ヨーロッパ、アメリカと国内外を問わず「移動」することで、民藝の概念に実態を付与していった。
 そこには、日本に眠る民藝の発見というローカルな視点と、ヨーロッパの工芸運動やモダン・デザインを追うグローバルな視点が交錯している。

木喰五行(もくじきごぎょう)《地蔵菩薩像》 1801年 日本民藝館
朝鮮陶磁器をみるために友人・浅川巧と訪れた山梨県甲府の旧家で出会った木喰上人の仏像。この像に魅せられた柳は、数年間全国を巡り、木喰仏の調査研究を行った。 いま円空と並んで人気の木喰もいちはやく発見したのは柳だった。
左:《スリップウェア鶏文鉢(とりもんはち)》 イギリス 18世紀後半 日本民藝館
右:展示風景から
宮本憲吉が丸善で見つけた英国の伝統的な陶器の専門書から、彼らはスリップウェアを見いだす。濱田がリーチとイギリスで発見した、オーブンにそのまま入れられるパイ皿として使用されてきた大皿や、柳がロンドンの骨董屋で入手したものなどが遺されている。 そのうちの1枚は特に柳のお気に入りで、渡米の際も座右の品として携行したそうだ。ケンブリッジでその皿とともに写る柳の写真もパネルで紹介される。
左:《ボウバック・アームチェア スプラットタイプ》 イギリス 19世紀 日本民藝館
右:展示風景から
朝鮮と英国の家具を高く評価していた柳は、濱田とともに欧米旅行に出た際、イギリスで大量のウィンザーチェアを買い付けて日本に送り、それらは銀座・鳩居堂で展示・販売された。 会場では、子ども用も含め、多様なタイプが並べられている。

こうした各地への「旅」は、同時に「中心」と「辺境」という、近代化ゆえのまなざしやそれが持つ矛盾もはらんでいた。
 「都市」に対する「郷土」という概念が成立するとともに、「民族」「民家」「民具」「民芸」などの地方の伝統的な生活文化が再評価されていく。それは都市生活者の“趣味”という側面も含みながら活性化する。
 彼らは、そんな近代の歪みも抱えながら、蒐集から制作へと活動を展開、ギルド(制作者集団)による新しい民藝の創造と、それによる生活の芸術化を追求していく。
 それは各地で彼らに共感し、支持し、経済的にも文化的にも協働した人々の存在なくしては語れない。彼らとのネットワークも民藝の重要な要素である。

《自在掛(じざいかけ) 大黒》 北陸地方 江戸時代 19世紀 日本民藝館
民家の炉端で、鍋などを掛けるために使用される自在掛は、煙で燻され縄で擦れた痕など、使い込まれた痕跡も含めて「味」として愛でられた。近代化によりこうした道具が失われていくと同時に見いだされたこれらの「美」は、まさに近代化というコインの表と裏を象徴する。

柳は、美の本質に迫るためには、「直下(じか)に」モノを観ることが大切であると説いたが、並行して民藝運動の理念や彼らが提唱する「美の標準」を伝えるために、雑誌や作品集、展覧会における陳列など、メディアを活用した戦略を駆使する。
 『白樺』時代に培った編集の経験と「柳の眼」が優れた編集者として活動に寄与する。
 出版、美術館、ショップという三本柱を活用した彼らの戦略は、まさに「近代」のシステムを取り入れながら展開していったのだ。

「民藝樹」『月刊民藝』創刊号 1939年4月 より(会場パネル展示)
民藝運動の3つの柱「美術館」「出版」「流通」を図示したもの。蒐集・展示を担う日本民藝館、出版を担う機関誌『工藝』と『月刊民藝』にその他の書を編集・刊行する日本民藝協会、作家の作品や全国の民藝品を販売するセレクトショップ・たくみ工藝店が、それぞれのメディア特性を活かして発信していく。自前のメディアを持っていることが民藝運動の強みとなる。
左:雑誌『工藝』第1号-第3号 1931年(型染・装幀 芹沢銈介) 写真提供:日本民藝館
右:展示風景から
1931年に民藝運動の機関誌として創刊された雑誌『工藝』。豊富な図版と原稿で、民藝の美や思想を伝えるべく制作されたこれらは、表紙には織物や漆絵、紙は各地の手漉き和紙などを使用しており、これだけで一級の工芸品! 初年度は、やはりこの運動で中心的な存在として活躍した染色家・芹沢銈介が担当している。
左:《白地網文様鞠散し革羽織(しろじあみもんようまりちらしかわばおり)》(部分) 江戸時代 18世紀 日本民藝館
右:展示風景から
武家の革羽織の部分。本体は背中と両袖部分に家紋があり、金と赤の丸がアップリケされた華やかな衣装だが、柳が注目し雑誌に掲載したのは、布の網目模様の部分だった。確かにパターンの中の微妙なグラデーションが美しい。
柳の眼が何を美ととらえ、どのように切り取る技を持っていたかを感じさせる一例だ。展示では、掲載されたページと同様の文様をほどこした器などとともにみられる。
左:《緑黒釉掛分(りょくこくゆうかけわけ)皿》(デザイン指導:吉田璋也) 牛ノ戸 (鳥取県) 1930年代 日本民藝館
耳鼻科医師の吉田璋也が1930年に鳥取に帰郷して制作した新作民藝の食器。もともとは褐色(伊羅保釉)と黒釉の掛け分けだった民窯の器を鮮やかな銅緑釉と黒釉にアレンジしたもの。時代にふさわしいモダンさを獲得し、柳も大絶賛した一品。
右:《ににぐりネクタイ》(デザイン指導:吉田璋也) 向国安処女会ほか (鳥取県) 1931年
(デザイン) 鳥取民藝美術館 撮影:白岡晃
同じく吉田が、柳から贈られた英国のホームスパンの毛糸のネクタイを参考に、屑繭で紡いだニニグリ糸を用いて考案、農家の女性の副業として生産し、彼の店「たくみ工藝店」で販売した。類似品が出るほどの人気を博したという。 サスティナビリティがいわれる現代に先駆けた商品の生産ともいえよう。

過去の作品の蒐集、新たな作品の生産と販売と併せて、民藝の活動は、現代における手仕事の保存と育成、その産業化へと目標を拡げていく。
 各地の多様な民藝をひとつの日本の産業としてとらえていく彼らの実践は、大きな成果を生み、それゆえに、戦時下において、国内外に「日本文化」を表象するものとしてとらえられ、その役割を負うようにもなっていく。
 本展では、時代の社会的・文化的な背景を踏まえた民藝の遺産の再考が示唆される。

《日本民藝地図(現在之日本民藝)》 芹沢銈介 1941年 日本民藝館(展示から)
全国調査の総括の一環として、柳が芹沢銈介と協働してつくりあげた巨大な民藝の分布図は、なんと全長13m超! そこに「金工」「和紙」「漆」「染色」などの25種の絵記号で、500件を超える産地が登録されている。
興味深いのが、近世の旧国名の区分と、近代の都道府県の境界を重ね、その上に簡略化した鉄道網を描いていること。ローカルな多様性とともに、時間の重なりをも感じさせて、「日本」というナショナルを提示する。
《羽広(はびろ)鉄瓶》 羽前山形 (山形県) 1934年頃 日本民藝館
本展の貌にもなっているこの作品は、山形市の銅町でつくられているもの。裾が広がっているのは、熱効率を高めるためと思われる。「特に堤の膨らみがいゝ。地方的な鉄瓶として最も出色もの」と柳が讃した。
左:《木綿切伏(きりぶせ)衣裳》 北海道アイヌ 19世紀 日本民藝館 前期展示:2021年10月26日~12月19日
日本民藝館では、1941年に早くも「アイヌ工藝文化展」を開催し、『工藝』でも2号にわたってアイヌ特集を組んでいる。彼らの衣装には、和人から入手した木綿の古着にアップリケを付してアイヌ様式に仕立て直した本作のように、アイヌと内地の交流の跡を示すものも多い。
右:《垢取り(あかとり)》 糸満(沖縄県) 1939年頃 日本民藝館
柳がはじめて沖縄を訪問した1938年からは、この地の工藝のすぐれた作品を紹介し、衰退しつつあった手仕事の復興に寄与、さらには映像メディアによって沖縄の風土と生活を表そうとした。
舟に溜まった水を汲みだすために、松材を舟底に合わせて底に丸みをもたせて刳り抜いた道具・垢取りも、柳が機能とかたちの美を見いだし、『月刊民藝』創刊号の表紙となった。

戦後、敗戦から国際社会への復帰を目指した日本では、民藝はふたたび国際文化交流の貌となる。
 高度経済成長期、ライフスタイルも大きく変化する中で、民藝運動が新たな可能性のひとつとして見いだしたのがモダン・デザインだった。
 当時のデザイン界も民藝に注目、新たなブームの中で、「インダストリアル・デザイン」としての展開が示され、衣食住をトータルに提案していく視点が導入されていく。
 その拡張は、民家や景観の保存運動にまで拡がり、現在のプロダクト・デザインやライフスタイルの提案、建築から古民家の活用へと連なっているのだ。

左:《キセル》(デザイン:河井寬次郎) 金田勝造 島根県 1950-60年代 河井寬次郎記念館
愛煙家であった陶芸家・河井寬次郎が自らデザインした真鍮製のキセル。彼の郷里である島根県の金工職人・金田勝造が制作した。およそ10年にわたり、さまざまな形のものがつくられ、それらの詳細な指示書も残っている。時代を先取りしたようなモダンさが印象的。
右:《黒土瓶》(デザイン:柳宗理) 京都五条坂窯(京都府) 1958年 柳工業デザイン研究会(金沢美術工芸大学寄託)
柳宗悦の息子で、インダストリアル・デザイナーとして活躍した宗理が原型をデザインし、河井寬次郎の京都五条坂の窯で焼かれた。同規格の製品を作りやすい型成形と黒釉の風合いが融合した、インダストリアル・デザインと民藝のコラボレーションは、民藝の新たな方向を象徴する。
5章(左)、6章(右)展示風景から
戦前の全国での調査から見いだした郷土文化は、いままた新たに注目され、調査・研究が進められているものが多い。
戦後の文化の中で展開されたインダストリアル・デザインへの道は、わたしたちにもなじみある風景を作っている要素が見いだせる。

アートとデザインの境界がゆるやかになり、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさへの意識が高まっている現代。
 SDGsの視点からも、民藝が遺し、継承してきたものが改めて注目されている。
 柳宗悦が見いだし、彼に共感し、ともに活動した人々が遺した「民藝」という思想は、1世紀を経たいま、その先の100年に向け、また新たな道を示してくれるかもしれない。

展覧会概要

柳宗悦没後60年記念展『民藝の100年』 東京国立近代美術館

美術館窓口(当日券)、オンライン(日時指定券)の併売となります。
また、新型コロナウイルス感染症の状況により会期、開館時間等が
変更になる場合がありますので、必ず事前に展覧会公式ホームページでご確認ください。

会  期:2021年10月26日(火)~2022年2月13日(日)
     ※会期中一部展示替えがあります。
開館時間:10:00-17:00.金・土曜日は20:00まで(入館は閉館の30分前まで)
休 館 日:月曜日(ただし1月10日は開館)、年末年始(12月28日―1月1日)、1月11日
観 覧 料:一般1,800円、大学生1,200円、高校生700円
     中学生以下、障害者手帳提示者とその付添者1名は無料
      ※本展観覧料で入館当日に限り、
      同時開催の所蔵作品展「MOMATコレクション」も観覧可能
問 合 せ:050-5541-8600(ハローダイヤル)

展覧会公式サイト https://mingei100.jp

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