令和の台所改善運動―キッチン立ち話

第11回「生活者としての視点を忘れなかった
建築家 宮脇 檀」

暮らし|2024.6.21
文= 阿古真理 編集=宮崎謙士(みるきくよむ)

昭和世代なら、特に建築好きでなくても一度は耳にしたことがあるであろう有名建築家が、宮脇檀だ。いまだに熱狂的なファンの「マユラー」たちがいると噂される、ダンディーでステキな建築家だった。宮脇は、建築家として住宅やキッチンについてどのような考えを持っていたのだろうか。残された数多くの著作と長女の宮脇彩さんへの取材から紐解いてみたい。

 宮脇の名が広く世に知られていたのは、メディアにひんぱんに登場し、わかりやすい言葉で伝える住宅の作り方、旅エッセイなど親しみやすい著作をたくさん出しているからだ。生涯に刊行した本は単著だけで30冊以上、共著は約50冊もあり、亡くなった後も、『宮脇檀の住宅デザインの教科書』(中山繁信、エクスナレッジ)などの本が数多く刊行されている。現代に通用する、というより早過ぎたとも言えそうなほど、暮らしを中心にした建築について語り続けた。亡くなったのは1998年10月、62歳と早過ぎた。
 宮脇は1980年代初頭まで、東京・千駄ヶ谷にあった師匠の吉村順三が設計した妻の実家を引き継いで家族で暮らしていた。前回の記事でご紹介した吉村の影響力はとても大きかったらしく、『巨匠の残像』(日経アーキテクチュア編、日経BP社)に、宮脇檀建築研究室で部下だった山崎健一が「宮脇は何かにつけて、吉村さんの言葉を引き合いに出していた」と語るほど。そんな宮脇のキッチン思想と生涯をご紹介したい。
 宮脇は住宅設計を多く手がけた印象があるが、815作品中235作品、と意外と少ない。都市計画にも携わったからだろうか。それでも住宅建築には重点を置いていた。『巨匠の残像』によれば、東京藝術大学在学中の1956年から、『モダンリビング』(婦人画報社、現ハースト婦人画報社)編集部でアルバイトし「住宅に関する基礎の全部は大学ではなく、ここで最先端の先生たちに最新のものを習った」と、本人が振り返っている。その編集部にいた川田泰代から「建築学科の娘の卒業制作を手伝って」、と頼まれ知り合ったのが、のちに結婚する娘の照代だ。
『宮脇檀の住宅デザインの教科書』によると、宮脇が設計した住宅では、対面キッチンが多い。ここにもレーモンド→吉村の系譜が見て取れる。イラストで紹介されている施主宅の例は、いずれもコンロがダイニングテーブルに設置されている。そして、「調理の基本的な作業動線は、左図のように準備から調理、配膳へ、という流れになる。この流れに沿って効率良く動けるように、機器を配置することが重要である」とあり、右から冷蔵庫→洗いかご置き場→シンク→調理台→コンロ→配膳台の順に並んだイラストが描かれている。やはり、冷蔵庫の位置は一番奥ではなく一番手前、と宮脇も主張している。

宮脇が考える使いやすいキッチンと調理の基本的な動線を表した図(『宮脇檀の住宅デザインの教科書』中山繁信、エクスナレッジ)。

 私の手元には、『宮脇檀の[間取り]図鑑』(山崎健一、エクスナレッジ)もあるが、先の本と合わせて2冊で紹介されているキッチンのイラストのほとんどが、冷蔵庫は入り口近くに設置されている。
 コンロがダイニングテーブルにある、というプランは、人を招くことが多く料理を楽しんだ宮脇自身の体験から生まれた。千駄ヶ谷の家では職住一致、離婚後マンションに移ってからは、棟内に事務所を持つ職住近接。友人だけでなく所員たちもよく家に招いた。『宮脇檀の「いい家」の本』(宮脇檀、PHP研究所)によれば、二度目の改築で学生と一緒に考えていた「オープン型キッチン」、つまり対面キッチンに造り替えた。「部屋の一方の端に通常型の流しと小さな一穴のレンジを持つ調理台を作り、残りの部屋の全部は長さ四メートル、幅一・一メートルの作り付けの大テーブル。これが主役。このテーブルの流しのある側に専門家が使う中華用ハイカロリーレンジがはめ込んである」結果、料理する人と他の人が顔を合わせて会話ができ、流れによって一緒に作業できるようになった。2年以上使って便利、と判断したうえで施主宅にも組み入れるようにした、とある。自宅への導入は1970年代後半と思われる。パナソニックが、IHコンロを組み込んだキッチン兼ダイニングテーブル「いろりダイニング」を開発したのが2017年だから、一般にその発想が広がるのに、40年近くかかったことになる。

宮脇が設計した対面式キッチンのさまざまなレイアウトパターン。冷蔵庫は、動線と使い勝手を考えキッチンの入口側にあるのがわかる(『宮脇檀の住宅デザインの教科書』中山繁信、エクスナレッジ)。

 対面キッチンは1980年代半ば頃から人気が出始め、平成時代になって一般化した。しかし、その多くがシンクをダイニングに向け、コンロは壁を立てて隠す、あるいはコンロは壁付、というパターンが多い。それは、油跳ねや作業の効率性を考えれば、シンクがダイニングに近いほうがラク、という台所の担い手側の事情が大きい。宮脇も先のエッセイの続きのくだりで、導入するにはこまめな掃除や片づけが前提で、生活感が丸見えにならないデザイン的配慮も大事と記している。そして、マメな人しか使いこなせないがゆえに、施主宅には十数件しか導入できなかったと補足している。
 さらに、シンクがダイニング側にあることへの不満を書いたコラムもある。宮脇が同書を刊行したのは最晩年の1998年。天袋つきでペニンシュラ型の対面キッチンが大流行し、袋戸棚下がシンクと調理台でダイニングを向くパターンが主流になっていた。それが作業性から選ばれたことを承知しつつ、残念だと書いている。宮脇は離婚後にシングルファーザーだったので家事もしていたわけだが、それでも生活感覚は一般的な女性とは違っていたのだろうか。
 宮脇の長女の宮脇彩さんにお会いした。宮脇が住んだマンションを引き継いで暮らし、LDKはほとんどいじっていないという。取り出しやすい幅と高さに設定したキッチンの棚や、入り口のダイニング側に置かれた黄色い冷蔵庫が印象的だった。気さくに話す彩さんとは、料理好きであることと同い年という共通点があるからか、まるで幼馴染のように盛り上がって楽しい取材になった。

彩さんが引き継いだマンションのダイニング。冷蔵庫も収納棚もコンパクトでありながら、きれいに収まっている。窓際には、フリッツハンセンの丸テーブルとセブンチェアのダイニングセットが置かれる(写真=武藤奈緒美)。

 父とよく散歩がてら書店に行き、2人で好きな本を大量に買い込んだ思い出がある彩さん自身も、頼まれてエッセイを書くことがある。父の死後まもなく、夫の転勤でパリに住んでいたときに書いた初めてのエッセイ集『父の椅子 男の椅子』(宮脇彩、PHP発行、PHP研究所発売)に、キッチン回りの思い出を記した作品がある。千駄ヶ谷時代、リビングの吹き抜けを通して大人たちの声が聞こえたこと、大勢が集まり、誰かが料理していたら「ちがう、ちがう」と飛び入りで料理のセッションになる場面も多かった楽しい記憶。
 彩さんは「小学生の時、突然サンドイッチを作って両親を驚かせたことがあります」。いつも見ていたから、と誇らしげな彩さんを見て、今度は父親が対面キッチンの教育的効果を自慢する、という流れが紹介されている。
 世界各国を旅し、グルメでもあった宮脇の得意料理は、ジャガイモ料理に各種パスタ、ポトフ、ガーリックオムレツ、名店で知られる「レストラン文流」で教わった赤ピーマンのアンチョビ炒めなど。「肉をバーンと焼くとか、鍋でドーンと煮る料理。当時は珍しかったと思いますが、家にガスオーブンが2台あり、冷蔵庫もGE製の氷が自動でガンガンガン、と出てくる巨大サイズでした。扉前に蛇口のようなものがついていて、押すと氷が落ちてくるんです。焼き魚と白和えの小鉢みたいな料理は食べたことがなくて、結婚してからレシピ本を見ながら作るようになりました」と彩さんは振り返る。
 料理好きは父と同じだが、父と2人で暮らした中学生から結婚までの十数年間、平日は通いの家政婦がいたこともあり、あまり料理などの家事はさせてもらえなかったという。父は親子の時間を大切にし、できるだけ事務所から戻って一緒に食べ、そして再び仕事へ、という毎日だった。旅行社が企画する「宮脇先生と〇〇ツアー」の類のガイド仕事では、彩さんも同行させ、最終目的地をパリにして、やはり2人で買い物を楽しんだそうだ。
 朝、彩さんが起きると父はたいてい執筆していた。週末も、ドライブだと言われてついていくと施工現場、という多忙さを目の当たりにしてきた彩さん。建築とは畑違いの会社員の道を選び、結婚すると主婦になり、暮らしを存分に楽しんでいる。

宮脇が男の一人暮らし仕様で造ったキッチン。コンロ上の壁はビストロの厨房のように鍋をかけられる。向かい側の壁は全面収納で、食器や調味料、ストック食材をすぐに取り出せる(写真=武藤奈緒美)。

 「住宅というジャンルは建築家の仕事として、低く見られるところは何となくあったんじゃないかと思います。でも、父はパズルみたいにこの家族にちょうどいいところをビシッと決めるのが好き、みたいなところはあって、住宅が面白いとずっと言っていました」。後年、静岡駅前商店街再開発や真駒内住宅地計画など、62もの住宅団地開発・都市計画に携わったことについて聞くと「暮らし方を広げると住宅地になるのでしょうね。『横や周りも考えないとよくないね』と言っていました。ドイツなどでは、小さな村でも道はまっすぐではなく、周回する形で人がゆっくり過ごしているのを見て、日本でもそうした街並みを作りたいと思ったようです」と振り返る。
 宮脇は東京藝大を卒業後、東大の大学院に進学し都市計画を学んでいる。地に足のついた視点で暮らし方を本気で考えた稀有な建築家だった、宮脇の原点を確認してみよう。生まれは1936年、名古屋市。父親は画家の宮脇晴、母親はアップリケ作家の宮脇綾子。『父の椅子 男の椅子』によると、高級メロンをいただいても、食べ頃には食べられない環境だった。なぜなら、まず晴がデッサンのモデルとして預かるし、食べようと包丁を入れた綾子は、メロンを見ながらアップリケの構想を練り始めるからだった。美しさを大切にする感覚を宮脇も受け継ぎ、一緒に名作椅子を選んで買うパートナーと巡り合う。その結果、彩さんは両親のお眼鏡に適う美しいデザインのおもちゃしか買ってもらえなかったという。母はインテリアデザイナーで、ハードウエア商会という輸入販売会社を仲間と立ち上げ、家具の輸入などを手掛けていた。

宮脇が1970年代に住んでいた千駄ヶ谷の家のキッチン。大テーブルを囲むように、シンク、オーブン、大型冷蔵庫、食器棚があった。食卓の一辺にはめ込んだガスコンロで調理するのが宮脇檀さん。左が彩さん(写真提供=宮脇 彩)。

宮脇が建築に興味を持ったきっかけは、GHQのアメリカ人将校の肖像画を描いて気に入られ、アメリカの雑誌を手に入れられたこと(「宮脇檀の住宅地設計の思想」小川正人・高尾忠志・樋口明彦・榎本碧、「景観・デザイン研究講演集№8」2012年12月)。そして高校3年生のとき、晴が教える学校に講演で来た柳宗理に藝大建築科をすすめられ、進路を決めた。
 宮脇が亡くなって四半世紀経つが、たくさんの著書は、一部新刊書店でも見かける。今でも通用する住宅理論は、彼の理想とする暮らしやすい設計の住宅、住宅地がまだ道半ば、ということもあるのだろう。キッチンについては、共働きその他多忙な人が増えた今こそ、コミュニケーションしやすく動線がスムーズ、というその考え方を再考するべきなのではないだろうか。
 次は、宮脇と家族ぐるみで付き合い、またレーモンドからの系譜につながる女性の建築家のキッチン思想を紹介したい。

書籍刊行案内

本連載「令和の台所改善運動―キッチン立ち話」の元になった文章が、2024年6月下旬に書籍として発売されます。
100年前の「台所改善運動」、戦後のシステムキッチンを経て、日本の台所はどこへ向かうのか? 理想のキッチンを追い求めた、台所と住まいの100年の変遷とその物語を辿ります。

『日本の台所とキッチン 一〇〇年物語』(平凡社)
6月25日刊行予定
定価3,520円(10%税込)
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