今年は空海(774~835)に「弘法大師」という諡号(贈り名)が下賜された921年から、ちょうど1100年になります。つまり弘法大師は空海と同一人物なのですが、真言宗の開祖の空海が閉眼してからおよそ100年後に登場した荒唐無稽ともいえる人物が弘法大師なので、人格的には別人といってよいのです。
童子が書いた「龍」の字に大師が点を加えると、文字が龍と化した。このような弘法大師の能書伝説は数多い。「高野大師行状図画」(親王院蔵)より
弘法大師は書道の名人として崇敬されています。在唐中、大師が川辺を歩いていると、一人の童子がやってきて、書の腕を競います。童子が書いた「龍」の字の最後の点を大師が打つと、文字が龍と化して大音声を発して天に昇ったといいます。この童子は文殊菩薩の化身でした。
大師は唐からの帰り、明州の浜で「密教を広めるにふさわしい地があれば、教えたまえ」と持っていた三鈷杵(さんこしょ)を日本に向けて投げた。『高野大師行状図画』(親王院蔵)より
たとえば、弘法大師は中国から帰国するとき、「密教を広めるにふさわしいところがあれば、教えたまえ」と、持っていた三鈷杵を投げ上げたところ、日本の高野山でその三鈷杵が見つかり、この地に伽藍を建立することになったという典型的な伝承があります。
高野山の中核となる「壇場伽藍」は、弘法大師によってデザインされた密教宇宙を象徴する空間といえる。写真=永坂嘉光
和歌山県の高野山は、弘法大師によって修禅(瞑想による修行)の道場として開かれました。
そして大師はこの地をみずからの入定(にゅうじょう)の地に選びました。入定とは、現世に肉体を留めたまま瞑想を続けることをいいます。日々欠かすことなく大師に供する朝食と昼食が運ばれ、まさに大師は生きて祈りを続けています。
遍路者は金剛杖や菅笠に「同行二人」と記す。これは弘法大師と二人連れということで、大師への帰依をあらわした言葉。写真=堀内昭彦
現代も弘法大師の修行の地である四国の霊場をお遍路する人々が絶えません。四国の人々は「お遍路さんは弘法大師の分身」という思いで温かく迎え入れて、遍路者に食べ物や金銭、一夜の宿を無償で喜捨する「お接待」と呼ばれる風習が続いています。
別冊太陽 日本のこころ290
弘法大師の世界 諡号下賜1100年
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