2023年5月、まつもと市民芸術館芸術監督の仕事を終えた串田和美さんは、六本木の小さな地下劇場に戻ってきた。組織から離れてひとりに戻って、独り芝居『月夜のファウスト』(前芝居『阿呆劇・注文の多い地下室』)で新たなスタートを切ることにしたのだ。その時の「ステイトメント」にはこうある。
〈その日私はそこに立つ
私の演劇活動の原点 かつてあった小さな地下劇場
伝説のアンダーグラウンド・シアター自由劇場
あの日私が 途方に暮れ やがて歩き出したあの地点
いつも私に演劇の極意をこっそり教えてくれた
ある時は私を担いで走ってくれた
あの地下劇場から音楽劇「上海バンスキング」や
「もっと泣いてよフラッパー」が生まれ
大勢の観客に支えられ 多くの俳優 演劇人が育った
今はライブハウス音楽実験室・新世界に姿を変え
けれども創作の気配はそのままに
私を待っていたような 懐かしいあの地下劇場に
もう一度立ってみようと思う
再び道を探して歩き出すために〉
初心に返るフレッシュな宣言のように読めるが、おそらく串田さんは初心を忘れたことがない。これを書いた時点で80歳だが、その時も、そして今も、初心のまま生きている印象を受ける。小劇場、大劇場、公共劇場を経て、ぐるりと回ってひとりに戻った串田さんが、フライングシアター自由劇場を立ち上げて主宰し、年に2回程度の主催公演を続けてきたこの3年間の話を聞いた。
「私の演劇魂は飛ぶように彷徨い続けていたい」
――2023年5月の「Story News」のインタビュー(聞き手:串田明緒さん)で当時の心境を「再び途方に暮れて、小さな地下劇場で、歩き出す」と語っていらっしゃいます。白紙状態での再スタートはどのようなものだったのですか?
まず、どうやろうかなって考え始めてみたんだけど、浦島太郎みたいな気分だった。松本にいた20年の間に東京の状況が本当に変わっちゃったなと思った。もちろん同じ日本に暮らしていて、家は東京にもあったし、都内での公演も年に何度かはやっていたからわかっていたつもりだったけど、いざ自分がきちんと演劇をやろうと思ったら、こんなに大変なんだと思わされることがたくさんあった。まず稽古場がない。あっても借料が非常に高い。しかもまだ新型コロナウイルスの余韻が残っていたから、ちょっと驚いたり戸惑ったりした。でも、やれないことはないはずだと思って、いろんなことを模索しながらやってきたのが、この3年間。模索は今も続いています。
――新型コロナウイルスが蔓延する中、松本にある公園の四阿(あづまや)で始めた独り芝居『月夜のファウスト』(松本の後、西日本を中心に各地をツアーした作品)を六本木の地下劇場で公演して、その後フライングシアター自由劇場として活動を本格化されたわけですね。アンダーグラウンドシアター、オンシアターときて、次がフライングシアター。このネーミングについては、こんな説明を書いていらっしゃいます。
〈“フライング”は飛んでいるというイメージも湧くが、以前から考えていたのはワグナーのオペラ『彷徨えるオランダ人』(フライング・ダッチマン)。そう、これからも今まで通り、私の演劇魂は飛ぶように彷徨い続けていたい。それが私の永遠の、大いなる願望である。〉
まずは7人のキャストで『仮面劇・預言者』をやりました。稽古場を探しながら練習を重ねて、高田馬場の小さな劇場で公演しました。その時、状況劇場でも活躍していた俳優の大久保鷹さんが観にきてくれて、ぼくがまた小さな劇場で再スタートしたことにすごく感動してくれたのを覚えています。次はもう少し大きな劇場をと思って、新宿村LIVEと松本の信毎メディアガーデンで公演しました。


――新宿村で公演されたのが、シェイクスピアの『夏の夜の夢』をもとにした『あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは終わらない夢を見た』ですね。この作品は、2023年の独り芝居『月夜のファウスト』に続いて2024年のルーマニア・シビウ国際演劇祭にも正式招聘されました。3作目が阿佐ヶ谷のシアターシャインでの若手公演『あざみの花咲く頃』、4作目が「すみだパークシアター倉」で上演した『ガード下のオイディプス〜スフィンクスの謎解き〜』、5作目が同じ劇場での『そよ風と魔女たちとマクベスと』、6作目が吉祥寺シアターでの『西に黄色のラプソディ』で、今年6月に同じ吉祥寺シアターで行われるバーレスク音楽劇『豪華客船 タイクツニック号 沈没』がフライングシアターとしての7作目。徐々に規模が大きくなって音楽劇要素も増えてきている印象を受けます。
「すみだパークシアター倉」は運河沿いにあって、とても雰囲気のいいところで、街の歴史も感じます。錦糸町の駅からちょっと歩かないといけないんだけど、それがまたいいと思っている。パリ郊外の森に太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)というのがあって、弾薬倉庫だったところを拠点にしてアリアーヌ・ムニューシュキンという人が演劇活動を行なっていた。今もあるけどね。これがちょっと不便なところで、駅からも結構歩いたところだったんだけど、観客は喋りながらゾロゾロ歩いてそこに行って、また喋りながら戻っていく。この不便さというか厄介さが非日常空間への移動時間でもある。不便でもわざわざ行くところに魅力がある。「すみだパークシアター倉」はそういう意味でもいいところだなあと思う。でも、引き続き、劇場と稽古場の模索は続いています。
稽古場の借料高騰も悩ましい。演劇に縁のない人たちがスペースを持っていて、稽古場として貸し出すんだけど、結構な金額で貸し出せることがわかったものだから、どんどん借料が上がっています。そんな中で、松本だけでなく東京にも応援してくれる人がたくさんいて、稽古場や会場、小道具を安く貸してくれたり、衣装を提供してくれたりしています。「今までお芝居でたくさん楽しませてもらったから」「串田さんの創作に関わりたいから」と言って。これは本当にありがたいし、助けられています。
いずれもう少し大きいことをやるためには、資金面から考えても他のどこかと組めばいいのかもしれないけれど、それもまた簡単ではないし、本末転倒になる恐れもある。





――かつて東急とやったように、組織と手を組むということですか?
最近もあるところに行ってミーティングしたんだけど、相手の発想が商業演劇だから、ぼくの考えていることとちょっと違いすぎる。会話がうまく噛み合わない。「あの俳優を出せばチケットが売れる」とか「何々で宣伝する」とか、どうしてもそういう話になってしまって、これはなかなか難しいなと思った。
考えが違うといえば、あるメディアで若い人の取材を受けていた時、「演劇もできない時代になりましたよね」みたいなことを言われた。確かに舞台や稽古場を借りるにもお金がかかるし、装置だってベニヤ板1枚、布1枚、本当に高くなっているのに、チケット代をそんなにあげるわけにもいかないし、大変なことは間違いない。でも、それを聞きながらぼくは「いや、演劇なんて最初からずっとできないんだよ。何十年も前から簡単になんかできなかったんだよ。それでもやっていたんだよ」と腹の中で思った。
――そこが串田さんの年季というのか根性というのか。「できるからやる」のではなくて、「やりたいからやる」という姿勢を60年以上貫いてこられたわけですよね。興行収入とか動員数といった指標だけでなく、ご自身にとっての演劇とは何かを愚直なまでに追求してこられた歳月のように思います。串田さんの「彷徨う演劇魂」に衰えはないのでしょうか?
そうですね。演劇そのものが好きで、やることそのものが好き。そして、やれなくなっている時にこそやる、というのにも心惹かれる。コストが高くなっているとか、ライフスタイルの変化とかを理由に、もうダメだとか、もっと酷くなるとか……出版業界が厳しくなって、この先、紙の本が出せなくなるんじゃないかといった話とも共通するかもしれません。
本当にいろんなことの変化が大きい。この国のあり方、有権者の選択も、選挙結果など見るとびっくりする。戦後80年でこんなことが起きてしまうんだと驚くようなことが現実になっている。
墨田区の方で稽古がある時とか、車に乗せてもらって首都高を走る時に感じるんだけど、東京の変化には改めて驚かされる。戦後の焼け野原を知っている世代の人間としては、「あ、80年でこんなに変わっちゃうんだ。わずか80年でここまで変えてしまう人間の力ってすごいな」と思う。
――その80年を生きてきた串田さんは、1960年代の安保闘争を高校生として目の当たりにして、デモにも参加して、日本の高度成長、バブル経済とその崩壊、パンデミックを経験する中で、いわゆる社会運動とは違う形で、一貫して社会への警鐘を鳴らしてこられたと思います。『白い病気』(カレル・チャペック原作)、あるいは『上海バンスキング』も、戦争の不条理と歴史に翻弄される人たちの悲劇を描いたメッセージ性の強いお芝居です。
そうしたメッセージを伝えるにも、時代に合わせた工夫は必要かもしれない。1980年代に『上海バンスキング』を上演した時は、観る人たちが歴史的背景をわかって観てくれたけど、この先、再演する時は「上海に渡った無邪気な音楽家たちは夢の前借りをしたけれど、結局返すことはできませんでした」みたいなことをテロップなどで説明するような工夫が必要になるかもしれないね。まあ、そんなヤボなことはしたくないですが。
何のために演劇をするのか?
――改めてお聞きします。串田さんは何のために演劇をしてこられて、何のためにこの先も演劇をしていかれるのですか?
芸術と言われるものはどんなものでも同じだと思うけれど、ひとつは、実際に今生きているためにしていること、食べるとか、働くとか、仲良くするとか、そういった行為とは別に、「なんだかとんでもないこと」、「理屈に合わないようなこと」、「何なのかわからないようなこと」、そんなものに出会った時に感じる「何なの、この感じ?」という感覚を刺激するため、かな。変な夢を見たとか、人間ってそういう感覚を覚える生き物だと思うから、それをお芝居で刺激したい。
演劇の目的はいろいろあって、政治運動のためとか社会運動のためとか、ぼくもそういうことを思わないわけではないけれど、演劇という行為では、そこからもうひとつ離れた、次元の違うものを示したいと思う。
それは、ひょっとして多くの人がそんな感性を持てば、何かが違ってくるのかもしれないと思っているからかな。いつも言うことだけど、ぼんやり雲を眺めるとか、1日中止まない雨を眺めているとか、そういう時に何かを感じる。そういう演劇をしたい。そういう感覚の手引きというか、忙しそうにしている人たちに向かって、「ほら虹だよ、虹が出てるよ」って指し示すような存在でいたい。「虹が出たからどうしたっていうんだ?」と言う人もいるかもしれないけど、何人かは「あ、そうだ。虹だ」と思って、しばらく佇むかもしれない。その時に何を感じるか、考えるか?
他にやることがたくさんあるのに、虹を眺めちゃった、雨を眺めちゃったという人が100人のうちひとりでもいたら、新しい何かを見られたと思うかもしれない。ぼくはどうしてもそんな感性にこだわってしまう。
去年ワークショップをした時に、参加してくれた若い俳優や制作者に、陶工の酒井田柿右衛門の話をしたんだよね。良い柿色を出すために、「もっと熱が必要だ!」といって、無意識のうちに家の柱をどんどん窯にくべていった人。愚かかもしれないけれど、でもその衝動というか、情熱は頭から離れない。
お芝居もたくさんの人に観てもらいたいのはもちろんそうなんだけど、大事なのはそこじゃない。3人ぐらいしか観ていなかったけれど、その人たちがすごく感動したとか、たくさん来ていても半分くらいは「わからない」ってぼんやりした反応でも何%かが狂ったように心を動かしたら、それでいいと思う。
もちろん、それをするためには、したたかに経営しなきゃいけない。出演者が適切な対価を得られて、劇団が持続的に公演していけるように運営しなければいけないけれど、そっちが勝ったら本末転倒になってしまう。実際、今は公演するだけで大変だから、芝居をするためにどうすればいいか、どうやれば当たるか、ネットで常に宣伝しなければダメだとか、そういう知恵の部分に引っ張られる。それが大事なのもわかる。わかるけれど、くたびれるね(笑)。
――くたびれるといえば、以前、お話を伺う中で、年齢を重ねて体が思うように動かなくなったり、セリフを覚えにくくなっていった時に俳優としてどうするのかを考えるとおっしゃっていました。日々の運動や食事の摂生など、かなり自己管理されている印象ですが、老いは意識されますか?
いろんなことをよく忘れるね。これはびっくりする。何を忘れたかも忘れちゃう。同世代の人と話してよく笑うのは、用事があって2階に上がるんだけど何をしに来たか忘れる。忘れた時は元に戻れっていうから、1階に降りて思い出そうとするんだけど、やっぱり思い出せない。そんなことは増えてきた。
もうひとつは、ずっと毎日自分を調整してきたんだけど、その「毎日の調整」ができなくなってきている。ちょっと歩いた方がいいなと思っても、面倒くさくなって「明日でいいか」と自分に甘くなることが時々あるね。
――串田さんでもそういうことがあるんですね。
うん。やろうとは思うんだけど、急に「今日はいいか」って思うことが増えてくるんだよ。
――セリフを覚えるのは年齢を重ねていなくても大変だと思いますが、さらに難しくなるものですか?
まだ、覚えにくくなってから日が浅いものだから、「セリフを忘れるわけない」って舐めてる(笑)。でも忘れるから、十二夜が「忘れやすくなってるんだから、もっと早くからやらなきゃダメだよ」って言って、セリフを覚えるのに付き合ってくれたりするんだけど、それが面倒くさくなる。セリフを覚えるのが面倒くさいというか、自分の衰えた能力を補おうとする努力が面倒くさいっていうのかな。でも本当に面倒くさくなっちゃうとできなくなると思うから、現場に居続けることを意識しています。
――俳優として舞台に立ち続けるだけでも大変なことだと思いますが、その上、6月公演のバーレスク音楽劇『豪華客船 タイクツニック号 沈没』では、戯曲を書いて、出演して、演出もされるんですよね。3月から4月にかけて東京と大阪で沢田研二さんと共演したロック音楽劇『ガウディ×ガウディ』が終わってから戯曲を2本書かれたとか。
『豪華客船 タイクツニック号 沈没』は3本の戯曲のオムニバス形式で、以前にやったものを書き直したのが1本。もうひとつは一緒に演出する劇団はえぎわのノゾエ征爾さんが書いて、もうひとつは、ぼくがゼロから書いた書き下ろしです。
書き直したのは、『怪盗ジゴマ』といって、東急Bunkamuraのシアターコクーンで毎年年末に上演していた『ティンゲルタンゲル』の中でもやった小さな話。松本の活動環境でできるように再構成して上演したものを、また書き直した。元はフランスの怪盗小説シリーズで、それが大正時代かなあ、日本に入ってきてすごく流行した時代があった。何にでも化けられる変装の名人で、怪盗なのに魅力的な存在。無声映画も大ヒットしたんだけど、「犯罪を誘発する」という理由で上映禁止処分になったらしい。そんな記事を読んで、おもしろいなあと思った。
もう1本の書き下ろしは、『混沌の部屋』というタイトルで、部屋の中に妙な人たちが出入りするぶっ飛んだ話。自分で書いていながらおかしくて、おかしくて、ケタケタ笑いながら書きました。
――書き下ろしの脚本は、舞台を想定して、役者さんの動きも想像しながら書くんですか?
いや。書く時はあんまり現実を考えないで、贅沢に書く。でも、それを舞台にする時にちょっと自分で困っちゃって修正案を書く(笑)。
今回は即興劇の要素を取り入れようと思っているので、扉から出てくる不思議な人たちのやり取りを即興劇風に自分で考えながら書いてるとほんとに笑っちゃう。
――6月の公演が楽しみですね。串田さんのお芝居の特徴のひとつでもある音楽的要素、それも役者さんたちによる生演奏が入るのは本当に楽しみです。お稽古は順調ですか?
まず音楽から練習が始まっていますが、プロの演奏家の要求水準が高いので苦労しています(笑)。芝居の稽古はこの記事が出るころ佳境でしょうね。
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バーレスク音楽劇『豪華客船 タイクツニック号 沈没』 チケット販売中
吉祥寺シアター 2026年6月14日(日)〜21日(日)
https://www.k-jiyugekijo.com/titanic
松本公演
信毎メディアガーデン 2026年7月10日(金)〜12日(日)

串田和美
俳優・演出家。日本大学芸術学部演劇学科中退後、俳優座養成所を卒業し文学座に入団。1966年、六本木の「アンダーグラウンド・シアター自由劇場」を本拠地とする劇団・自由劇場を結成。1975年オンシアター自由劇場に劇団名を改め、「上海バンスキング」「もっと泣いてよフラッパー」「クスコ」などの大ヒット作を生み出す。1985年、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。コクーン歌舞伎も成功させる。2000年日本大学芸術学部演劇学科特任教授に就任。2003年まつもと市民芸術館芸術監督に就任。2023年、演劇創造カンパニーであるフライングシアター自由劇場を新たに立ち上げて活躍中。2025年10月、吉祥寺シアターで「西に黄色のラプソディ」を上演する。1942年東京生まれ。父は哲学者で詩人の串田孫一。紫綬褒章、芸術選奨文部科学大臣賞、旭日小綬章など受章・受賞多数。
聞き手:草生亜紀子
ライター・翻訳者。近著は『逃げても、逃げてもシェイクスピア――翻訳家・松岡和子の仕事』(新潮社)
