文化人たちが集い、議論が生まれる“場”として伝統を受け継ぐサン=ジェルマン=デ=プレのカフェ「ドゥ マゴ」。ドゥマゴ賞という独自の文学賞を持ち、文化を育んできたその姿勢に共感し、渋谷の地に誕生して以来、存在感を放ってきたカフェ「ドゥ マゴ パリ」と「Bunkamura ドゥマゴ文学賞」。なぜカフェが文学賞を生み、どのようにその文化が根付いていったのか。パリのドゥ マゴ関係者、そしてBunkamuraの開業に携わったスタッフに、これまでの歩みを聞き、独創性の源を探った。
文化人との交流が店を形作ってきた
常連客の名前を挙げるだけで、そのカフェの輪郭が浮かび上がる。
詩人のランボー、作家のヘミングウェイ、画家のピカソ、シュルレアリストのアンドレ・ブルトン、それから哲学者のボーヴォワールにサルトル……。
そのカフェとは、1884年にパリで創業したドゥ マゴである。
向かいには、パリ最古の教会であるサン=ジェルマン=デ=プレ教会がそびえる。ソルボンヌ大学やパリ国立高等美術学校(ボザール)も程近い。多くの文学者や芸術家らにかねてより愛されてきたドゥ マゴの特色は、こうした土地の来歴と深く関わっている。
「ドゥ マゴは土地とともに店の雰囲気を磨きあげてきました。中世の頃、つまり印刷技術が発明される以前から、この町にはたくさんの修道士たちが集い、写本をしていたんです。20世紀に入ってからも、文学や出版に関わる人たちがコーヒーを飲みにやってきて、わたしたちの店は成り立ってきました」
こう語るのは、ドゥ マゴの4代目オーナー、カトリーヌ・マティヴァである。2012年、父の跡を継いで就任した。
「創業以来の伝統を守りながらも、世の中が変化していく中で時代に適応してきました。内装やギャルソン(給仕人)の服装などは、自信と誇りを持って昔ながらのスタイルを継承しています。その一方で、昨今では海外進出やケータリング、惣菜の販売など新しい事業も展開しているんです。守るべきものを守るとともに、パリから海外へとドゥ マゴというブランドを広げていきたいと考えています」
国際的な文化のレガシーを体現するカフェ
そのドゥ マゴにとって初めての海外進出先となったのが、東京・渋谷だった。1989年9月3日、複合文化施設Bunkamuraの開業とともに「ドゥ マゴ パリ」がオープンしたのである。

パリのドゥ マゴとの交渉にあたった一人が、当時東急百貨店でBunkamuraの開業に取り組んでいた村岡健だ。Bunkamuraは音楽や演劇、映画、美術など多様な文化・芸術に触れられる複合文化施設を目指していた。さまざまな分野の人々が出会い、新たな文化が生まれる場として、Bunkamuraの顔となる空間を吟味していた折、パリの文学や芸術関係者らが集うドゥ マゴが日本進出を検討しているとの情報が飛び込んできた。村岡はすかさずパリへと渡った。
「パリのセーヌ川左岸は、おだやかで知的でアートが根付いているエリア。左岸にはBunkamuraが目指すものがありました。ですから、ドゥ マゴはBunkamuraの中庭には最適なカフェだと実感できましたね」
Bunkamuraのすぐそばには閑静で風格ある街並みの松濤エリアがある。文化施設も点在し、そんな地域性もパリと東京で響き合う。村岡はその後、マティヴァの父ジャックと親交を深めていった。国立土木学校の教授で橋を専門とする氏と、約1週間にわたって日本各地の橋を巡ったこともある。
「大鳴門橋は、そりゃあ怖かったですよ。車を道路の脇に止めてもらって外に出たんですが、下を見ると渦潮が文字通り渦を巻いていますし、すぐそばを車が次々と猛スピードで走り抜けていくわけですから。でも、ジャック・マティヴァさんは平気な顔でボルトや橋脚などの写真を撮ってて」
徳島の大鳴門橋、山口の錦帯橋。土地と土地を結ぶ橋を巡る旅は、そのままフランスと日本の架け橋となる交流だった。
こうした交流が実を結んだ背景には、ドゥ マゴが現在に至るまで家族経営を貫いてきたことがある。マティヴァのいとこであり、ドゥ マゴの最高経営責任者のジャック・ヴェルニョーは語る。
「わたしたちの店は家族経営であることが非常に大きな鍵なんです。いまだに家族経営を続けているからこそ、従来のスピリットとスタイルを継承できているんですよ」
マティヴァがこう付け加える。
「フランス人というと、フランスの文化を他の国に押し付けると思われがちですが、わたしたちは断じてそうではない。フランスと日本の架け橋を心がけました。わたしの父はカフェのオーナーであるとともに、橋のエンジニアでもありましたからね」
家族経営だからこそ、ビジネスライクではない関係が築けた。出店の経緯について、ヴェルニョーは述懐する。
「気持ちの面を重視したと聞いています。ぜひ渋谷に店を出したいというBunkamuraの思いが、互いの協力関係に結びついたんです。パリのサン=ジェルマン界隈で受け継がれているわたしたちのスタイルに共感したBunkamura側の熱意から、渋谷のドゥ マゴ パリは始まりました」
マティヴァいわく、
「ドゥ マゴには地元パリのお客様のみならず外国からの観光客も多く訪れます。ですから、パリの雰囲気を反映しているだけでなく、国際的な文化のレガシーを代表するカフェでもある。つまり、パリの人々の生き方を体現し、それを世界に向けて発信していく店なんですね。そのようなドゥ マゴが渋谷に進出できたことを誇りに思っています」
求めたのは日本ならではの独創的な文学賞
カフェ文化とともに、ドゥ マゴを語る上で欠かせないのがドゥ マゴ賞である。この賞は1933年に始まり、斬新かつ独創的な作品を称え続けてきた。常連客が発案し、当初は皆がポケットマネーを出し合って賞金をまかなうという、成り立ちそのものも独創的な文学賞である。そして渋谷のBunkamuraにカフェがオープンした1年後、Bunkamuraドゥマゴ文学賞が満を持して創設された。パリのドゥ マゴと思想を共有するためだ。
「ドゥ マゴを考えるにあたって、文学賞は切っても切り離せない文化的な活動。ドゥ マゴの一部として文学は存在します」とマティヴァ。 「文学は、わたしたちのDNAのまさに一部」とヴェルニョーも語るほど、文学賞には大きな存在意義がある。

だが、Bunkamuraドゥマゴ文学賞のスタイルは、パリとは異なる。
「パリのほうは13人の選考委員がいて、意見が一致するのが難しく、いつも侃侃諤諤と議論が続きます。一方、日本では選考委員はたった一人で、しかも毎年変わる。珍しい形だけれど、だからこそ面白く、35回も続いているのだと思います」(マティヴァ)
選考委員がたった一人という唯一無二のコンセプトを提案したのは、Bunkamuraプロジェクトに1984年の草創期から携わっていた井上俊子だ。フランスと日本の文学賞について丹念に調査した井上は、抜群の企画力で名を馳せた編集者・安原顕からの助言を得て、Bunkamuraドゥマゴ文学賞の構想を練っていく。
「パリのドゥ マゴ賞は権威主義に抗うものとして生まれましたが、ドゥ マゴの名を冠し、思想を共有する文学賞とはどうあるべきか、Bunkamuraならではの文学賞としてどんな形がふさわしいのかを追究しました」
選考委員は、まずは他の文学賞の委員を務めていない人々から選んでいった。1回目は蓮實重彥、続いて吉本隆明、辻邦生と文学界隈も目を見張るようなラインナップだ。こうしたコンセプトに、パリ側もうなずいた。
「渋谷のドゥ マゴはパリの雰囲気を最大限に演出しながらも、決してパリのコピーではありません。日本ならではの要素もあります。文学賞も同様で、フランスとまったく同じではないからこそ独創的なのです。目下、ブラジルとサウジアラビアにもドゥ マゴがありますが、それぞれその国独自の文化イベントもあって、ブラジルでは音楽のイベント、サウジアラビアでは詩にまつわる催しが繰り広げられています」(ヴェルニョー)

第35回(2025年度)のBunkamuraドゥマゴ文学賞は、川内有緒の『ロッコク・キッチン』(講談社)に決まった。福島の国道6号線沿いを旅した川内が、地元の人たちが何を食べ、どう暮らしているかを綴った一作だ。選考委員を務めたのは最相葉月。ノンフィクション作家が、ノンフィクション作家を選ぶ結果となった。
次の選考委員は荒俣宏と発表されている。多彩な肩書きを持つ荒俣がどのような視点でどのような作品に賞を与えるのか、今後も目が離せない。
第35回Bunkamuraドゥマゴ文学賞の贈呈式などの様子はこちらからご覧いただけます。
https://www.bunkamura.co.jp/bungaku/winners/35.html
※Bunkamuraは現在オーチャードホールを除いて、休館中です。また、2027年1月4日から全館休館となります。休館の間も文学賞をはじめ、Bunkamuraがプロデュースする文化・芸術の発信はさまざまな場で続いていきます。
https://www.bunkamura.co.jp/topics/10505.html
