識名園と識名霊園
学生たちを連れて沖縄旅行をするとき、いつも「識名霊園(しきなれいえん)」に立ち寄ることにしている。世界遺産になっている「識名園(しきなえん)」(琉球王朝の別邸。庭園が美しい)ではない。「霊園」のほうだ。那覇市の東側、首里に近い高台にあり、市内が一望できることも理由の一つだが(この連載のバナー写真はそこからの撮影)、霊園を含むこのあたり一帯にはさまざまなタイプのお墓が無数に建ち並んでおり、沖縄の人たちの「他界観」(死者の世界についての観念)を知るのにうってつけの場所だからである。
識名霊園とその周辺には、大小さまざまな墓がある。上部が亀の甲羅のような形になっている大きな「亀甲墓(カーミヌクーバカ/かめこうばか)」、家の形をした「家形墓」(戦後増加したタイプ)、本土風の石塔と沖縄風の納骨部分が合体した小ぶりの「軸石(じくいし)墓」(近年、増加しているタイプ。「和琉型」とも呼ばれる)などだ。これらが識名台地の上に広がっており、遠くから見ると、小さな家が建ち並んでいるようにさえ見える。さながら「お墓のニュータウン」である。
いま、ニュータウンと書いたが、実際、もともと原野や畑だったこのあたりに墓地が急増したのは戦後、1950年代からである。そして、その経緯は戦後の那覇の歴史と深く結びついている。どういうことか。
中/写真2 識名霊園の家形墓
右/写真3 墓地分譲広告(識名霊園付近)
辻原と上の毛
東シナ海に面した旧那覇の海岸部には、1950年代初頭まで墓地が広がっていた。辻遊廓の先の断崖上にあった「辻原(チージバル)」の墓地、若狭町の先の断崖上にあった「上の毛(ウィーヌモー)」の墓地がそれである。那覇港に入港直前の船から旅客が最初に目にするのが、これらの墓地だったという。
墓地の所有者の多くは、旧那覇の住民たちだった。写真4を見るとわかるように、大きな亀甲墓がたくさんあったが、これらは琉球国時代の那覇在住士族の墓である(明治になるまでは士族にしか亀甲墓の建造が許されていなかった)。
門中と清明祭
沖縄では、門中(ムンチュー)と呼ばれる親族集団ごとに一つの大きな墓(「門中墓」)をつくることが多い(ただし、近年では家族単位でつくられる「家族墓」も増えている)。春分の日から15日後、旧暦3月の「清明(シーミー/せいめい)」の日には、門中の人たちが墓前に集まり、祖先祭祀を行なうとともに、墓の前に設けられているスペースで宴を行なう。春のピクニックという感じだ。その光景は「辻原」「上の毛」でも見られた。琉球の歴史研究で大きな業績を残した東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん。1882-1963)という学者は、子どもの頃を回想して次のように書いている。
三月の清明祭は子供等に取っては楽しい待遠しい行事の一つであった。門中が集って墓前祭を営むのであるが、梯梧(でいご)の花咲きこぼれ、押す風も涼しく、紺絣(こんがすり)の匂(におい)床(ゆか)しいお清明の比(ころ)とて、その実は一種の遊山であった。墓庭の広い芝生にうすべり(薄縁。布で縁を付けた茣蓙)を敷き詰め幕を張り渡して、男も女も居流れる。餅やら煮〆やら菓子やら果物やら握飯やら、処狭きまで竝(なら)べ立てゝ祭りを行ひ、そのお流れを皆が戴く、男達は酒を呑む、女達は茶を呑む。親類門中が此の日だけは生活の屈託を離れて睦みあふ。子供等は浜に下りて貝拾ひをしたり、岡に上って草摘みをしたりする。(東恩納寛惇『童景集』興南社、1952年)
墓で遊ぶ子どもたち
辻町や若狭町周辺の子どもたちにとっては、墓地はふだんから格好の遊び場だった。大きな墓を城に見立ててチャンバラごっこをしたり、墓を囲ってある石垣に上り、隣の墓の石垣まで飛べるかどうかの競争をしたりした。墓に置かれたままになっている旗竿(はたざお。葬列の先頭で使われたもの)は、石垣飛びの道具になった。ただし、初七日を過ぎていないものは使わなかった。それが「死者への礼儀」であり、何より祟(たた)りが怖かったからだ(船越義彰『なはわらべ行状記』沖縄タイムス社、1981年)。
墓での逢い引き
墓地はまた、若い男女の逢い引きの場所にもなっていた。戦時中、風紀紊乱だとしてあからさまな男女交際がはばかられていたとき、そこは格好の密会場所だった。辻で育った沖縄の作家、船越義彰は、青年時代の体験を次のように述べている。
(前略)ぼくは、おとなしい、なんの特徴もない青二才だった。そのぼくが、仲間の誰よりも早く恋人らしい女性をつくった。T兄(近所の先輩―引用者注)の家の向いの娼楼のおどり子が、ぼくが地上で、はじめて好きになった少女であった。
その少女は、おどりや琴のけい古をさぼって、ぼくとあいびきを重ねた。あいびきの場所は辻原墓地であった。いったい、なにを話したか、おぼえていない、ただ、「空襲があったらどうしよう」と彼女は心配し、ぼくは「空襲なんてあるものか。あったとしても、みんな死ぬのだからいいではないか」と答えたことや、灯火管制で真の闇になった街の上に、青く染まっていた月光のすごいほどの美しさが記憶に残っているだけだ。(船越義彰「わが追憶の那覇」『那覇の今昔』沖縄風土記刊行会編、沖縄図書教材、1969年)
戦後、船越はおどり子だった少女の友人と出会い、消息を聞いた。少女は、沖縄戦で亡くなっていた。沖縄本島南部のどこかというだけで、最期の場所はわからないとのことだった。
避難先としての墓
戦争末期、墓地は避難先としても使われた。那覇で少年時代を過ごし、のちにアメリカに渡って琉球史の研究者となった山口栄鉄は、次のように語る。
(1944年10月10日の那覇大空襲から―引用者注)わずか数時間後の那覇の街は一面の焼け野原、逃げまどう那覇の人達が申し合わせたようにめざしたのが広大な亀甲墓を擁する上の毛。祖先の眠る館(やかた)、その中から手を差し伸べるご先祖様達の腕の中へと、吸い込まれるように消えていったのだった。(中略)先祖のたましいの納められた「じいしがあみ」(厨子甕。陶製の骨壺―引用者注)の数々と同居した、その晩の僕の記憶は、たった一つ――それは父の灯してくれたローソクの火に映し出された、亀甲墓の天井にへばりついたまま動こうともしない大ムカデの姿だった。(山口栄鉄『琉球弧からの飛翔』榕樹書林、2001年)
戦後の墓地移転
第二次世界大戦末期、沖縄に侵攻した米軍は、那覇を占領し、旧市街地は全面立ち入り禁止となった。その後、1945年11月から段階的に立ち入りが許可されるようになり、1951年には辻原や上の毛が位置する辻町と若狭町が開放された。那覇市では旧市街地の開放に合わせて区画整理事業が行なわれたが、その中には辻町・若狭町の墓地群の撤去も含まれていた。
撤去は次のように行なわれた。まず、1951年5月から8月まで、遺族の協力で遺骨を墓から取り出し、各墓地内に設けられた臨時火葬場で遺骨を火葬した。火葬後の遺骨は、新たに墓地の用意がある場合はそこへ、そうでない場合は奥武山公園に設けられた仮安置場に納めたが、このとき、新たな墓は識名周辺でつくられることが多かった。また、仮安置された遺骨の移転先として、那覇市では面積約10万坪の市営識名霊園の建設を計画し、1956年に工事が始まった。こうして、市営霊園とその周囲の民間墓地からなる一大墓地群――「お墓のニュータウン」――が識名台地に形成されたのである(加藤正春「戦後沖縄の火葬―那覇若狭町・辻町の墓地整理をめぐって」『宗教研究』83(4)、2010年、岡本啓介「那覇市識名霊園周辺における《墓地スプロール地域》の形成過程」『立命館地理学』25、2013年)。
現在の辻原・上の毛
遺骨を運び出した後の墓は、ブルドーザーで次々と撤去された。また、墓地が立地していた丘そのものも削られて平坦な土地となった。そこで出た土砂は、泊港(那覇にある港の一つ)周辺の埋め立てや護岸工事に用いられた。
現在、辻原の墓地跡は歓楽街に、上の毛の墓地跡は公園などになっているが、そこがかつて丘であり、墓地であったことを知る人は少なくなっている。
島村恭則(しまむら・たかのり) 1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。