空海 祈りの絶景 #3 幼少時代の空海、真魚(まお)を追って

連載|2023.4.14
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

#3 幼少の真魚(空海の幼名)を育んだ讃岐の地とは

 夜明け前のまだ薄暗い境内に、三々五々、お参りをする人たちが集まってくる。

 温かなろうそくの光。お香の香り。
 日々の暮らしに、祈りが自然な形で息づいている。

 香川県の総本山善通寺、西院にある御影堂(みえどう)。かつて空海の父、佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ。別名、善通〔よしみち〕)の邸宅があったとされる地に建つこのお堂は、空海の誕生地と伝わる場所の一つ。

 現在伽藍のある東院には、佐伯家の氏寺があったと言われている。

善通寺中門から見た東院。重文の五重塔や金堂のほか、龍王社や空海の両親を祀る佐伯祖廟などがある。

 空海の父方、佐伯一族は、一説では、5、6世紀ごろ大和朝廷の征服によって捕虜になり、この地に配置された集団的な蝦夷を管理する地方役人で、船を所有し、交易も行うなど、豊かな経済力を備えていたという。

 現在の善通寺のご本尊は、お薬師さんの名で親しまれている薬師如来。

金堂に安置されている薬師如来坐像。

 病を治すとされるこの医薬の仏様は、左手に法薬が入っているという薬壺を持っている。特にこの寺のご本尊が持つ薬壺は、全国でも珍しい十二角形。12という数字は、薬師如来が菩薩だったとき衆生を救おうと願って立てた12の誓い、十二大願を表しているという。

 善通寺の山号は、屏風ヶ浦五岳山(ごがくさん)。寺を守護するようにそびえる香色山(こうしきざん)、筆ノ山(ふでのやま)、我拝師山(がはいしさん)、中山(なかやま)、火上山(ひあげやま)の五つの山が、瀬戸内海から屏風のように連なって見えることから、屏風ヶ浦の名が付いたという。

香川県三豊市の紫雲出山(しうんでさん)から五岳山方面を望む。

 そんな空海ゆかりの地に建つ御影堂で、毎日行われる朝勤行に参列した。

 法主の菅智潤師の法話に続き、僧侶たちがフシの付いたお経、声明(しょうみょう)を唱える。その声は、外から聞こえる鳥の声と重なって、堂内で一つに融け合った。

 やがて、鳥の声が力強さを増し、朝一番の神々しい光が差し込んできた。

 外に出ると、昨日の霧雨から一変。清らかな光が楠の大木に降り注いでいた。

善通寺東院、五社明神を祀る鎮守社を守るように立つ楠の大木。樹齢は千数百年で香川県の天然記念物に指定されている。

 空海がこの地で生まれたとされる根拠の一つは、本籍地である「讃岐国多度(たど)郡方田郷(かただごう)」が、善通寺付近を指すからだという。

善通寺境内にある産湯井。空海が誕生したとき産湯に用いられたと伝わる井戸で、覆屋(おおいや)の中にある。
産湯井の近くには同じ水源の水が流れている。

 空海の著書『三教指帰(さんごうしいき)』にも、こんな一文がある。

「玉藻帰(たまもよ)る所の島 豫樟(よしょう)日を蔽(かく)すの浦に住す」。

 つまり、四国の讃岐(「玉藻帰る」は讃岐にかかる枕詞)の島、楠の大木が葉を茂らせて、太陽を覆い隠してしまうような海辺に住んでいる、というのだ。

善通寺から北西に5kmほど行った多度津にある屏風ヶ浦。空海の時代は、海岸線が今より内陸にあったという。瀬戸内海は遣唐使船も航行するなど、古来海上交通の盛んなところだった。

 もっとも、この「住す」という表現が、誕生所についてさまざまな説を生む要因になった。

 善通寺から北西に5kmほど行った多度津町白方地区にある仏母院(ぶつもいん)も、空海の誕生地と伝わる場所。現在玉依御前の俗称で知られる、空海の母親が住んでいたと伝わる屋敷跡に建てられたというこの小さな寺には、空海の臍の緒を納めたとされる胞衣(えな)塚があり、近くには、白方周辺の土地の神を祀る古社で、空海を身ごもった玉依御前が、安産を祈願して参拝したと伝わる熊手八幡宮も鎮座する。

仏母院。右が胞衣塚。
熊手八幡宮の拝殿。神功皇后が三韓征伐の帰途、風浪の難を避けて上陸したとの伝承に因む古社。境内の一角には、天御中主大神(あめのみなかのぬしのおおかみ)を祀る元祭(もとまつり)神社がある。

 ほかにも、やはり空海誕生時の産湯に使われたと伝わる井戸が残る海岸寺や、畿内誕生説も存在する。

海岸寺付近からの瀬戸内海の眺め。

 空海の生涯は、多くの伝説に彩られている。それは、史実に不明な点が多いからで、特に30歳で唐へ渡る以前のことは、ほとんどわかっていないという。

 なにせ、実在したとはいえ、1250年も前に生まれた人物である。しかも、長年「お大師様」として信仰を集めてきた、真言宗の宗祖である。

我拝師山を望む出釈迦寺にある大師像。

 それぞれの立場や思い、信仰などによって、余白の多い空海の生涯にさまざまな推察が加えられ、多くの伝説が生まれていったのは、ある意味自然なことだろう。それが、空海その人になかなか近づけない理由でもあるのだが、一方で、伝説の多さは、篤い信仰が長年受け継がれてきた証。一見まさかと思える伝説にも、それを生んだ背景や土壌、理由があるはずだ。

 たとえば五岳山の一つ、我拝師山にはこんな伝説が残っている。

 7歳の空海が、仏法によって人々を救うのが自分の道ならば助けたまえと誓願し、山から身を投じたところ、天人(お釈迦様)が現れて空海の身体を抱きとめたという。

我拝師山からの眺め。

 空海が身を投じた場所は、「捨身ヶ嶽」として今も残り、近くには護摩壇も設けられている。長年祈りの場として受け継がれてきたのだろう。

捨身ヶ嶽の風景。

 この伝説の背景には、四国で古くから行われていた辺路(へじ)修行が関係していると思われる。塵芥(ちりあくた)を離れた厳しい環境に身を置いて、自然と対峙しながら心身を浄め、功徳を得る「浄行」を行うこの辺路修行では、ときに巨岩の周囲など、危険なところを命がけで回る行道が行われていたという。途中で落ちても、永遠に生きる仏になるという信仰があり、まさに身を捨てる覚悟で行に臨んだと言われている。空海の伝説は、そんな行が我拝師山でも行われ、少年空海もそれに関する話を聞いたか、実際に行が行われる場面を見たことを表しているように、個人的に思える。
 いずれにせよ、空海は青年時代、そんな辺路修行者の一人となり、やがて、この辺路修行と空海の死後生まれた大師信仰が融合して、四国遍路が誕生したと考えられている。

 ちなみに、香川県にある四国八十八か所霊場の札所は、23ヶ所。第66番札所の雲辺寺(うんぺんじ)に始まり、結願となる第88番の大窪寺と、遍路の最後を締めくくる地となっている。

第66番札所雲辺寺近辺の眺め。
第69番札所の観音寺。
第81番札所白峯寺近辺からの眺め。
第88番札所大窪寺、奥の院付近からの眺め。
大窪寺

 さらに、空海が48歳のとき、修築の陣頭指揮を執った満濃池も香川県にある。

 思えば、現在空海ゆかりの地に足を運び、あれこれ想像できるのは、過去に先人たちが、莫大な時間を費やしてさまざまな資料に目を通し、そこから導き出した説を書物という形で世に遺してくれたから。そんなそれぞれの偉業を指針としつつ、空海ゆかりの地に積み重なる市井の人々の祈りの心も大切にしたいと、讃岐の地を巡りながら改めて思った。

 ともあれ少年空海、つまり真魚は、「屏風浦五岳山」という山号が示すとおり、海と山を身近に感じる環境で育ったのだ。

 帰り際、西院と駐車場をつなぐ橋を渡りながら、ふと、今朝の勤行で聞いた法話を思い出した。
 橋の下を流れる弘田川は、近くの大麻山を源とし、善通寺のある讃岐平野を通って瀬戸内海に流れ込む。かつては川幅も広く、運河の役割も果たしていたとされ、4、5000年前から川の周辺は水運で栄えていたという。東アジアとの交易も盛んで、飛鳥時代には、讃岐の地だけですでに22ケ寺の寺院があったと話されていた。
 少年空海は、思いのほか開かれた世界に身を置いていたのかもしれない。

 最後に、やはり空海ゆかりの弥谷寺(いやだにじ)へも寄ってみた。

弥谷寺の多宝塔。

 四国八十八ヶ所霊場第71番札所のこの寺で迎えてくれたのは、歩く姿のお大師様。

 弥谷寺のある剣五山は、古来、死者の霊が帰る霊地として信仰を集めてきた地。香川県西部の西讃地方では、初七日や四十九日などに死者の位牌や遺骨を寺に納める「イヤダニマイリ」の風習があるという。洞窟も多く、辺路修行者は、この山で洞窟に籠る窟(いわお)籠りをし、聖なる山の周囲を回る行道を行っていたと考えられている。
 本堂へ行く途中には、修行者が彫ったとされる磨崖仏や梵字の「阿」が刻まれた断崖も。

 少年空海も、現在は大師堂の奥にある「獅子之岩屋」と呼ばれる洞窟で学問を行ったと伝わっている。誰か師と仰ぐ人物がいたのだろうか。辺路修行者とも出会っただろう。

弥谷寺奥之院 獅子之岩屋。岩屋が獅子の咆哮に見えることから付けられた名前という。少年空海は、ここで学問をしたと伝わる。

 空海はのちに手紙などに署名する際、自らを「沙門(しゃもん)空海」と記したという。「沙門」の原義は、質素で禁欲の生活を探求する者。つまり、空海は真言宗の宗祖となってもなお、自分が山林修行を行う一修行者だと名乗っているのだ。

 空海の核にあるように思える山林修行。その源は、山が身近なこの讃岐の地で育まれていったと言えるだろう。

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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