#2 「お山」で行われる修行を追う
見渡す限り、山また山の風景が広がっている。
若き空海が山林修行をした金峯山(きんぷせん)、つまり吉野山から山上ヶ岳までの一帯を経て、南の熊野三山に至る山々は、大峰山脈と呼ばれている。
空海が金峯山での修行の際、拠点にしたと伝わる天河大辨財天社の奥宮は、この大峰山脈の中央部、弥山(みせん)に鎮座する。
「大峰山系を見渡すと、北の吉野側は起伏の激しい山で、人生の浮き沈みを象徴する世界観があります。逆に弥山を越えて熊野側になると、山が穏やかになってくる。つまりお母さんのお腹の中の世界観があります」。そう話すのは、この神社の宮司、柿坂匡孝さん。
中世の文献によれば、大峰山脈は金剛界曼荼羅(吉野側)と胎蔵界曼荼羅(熊野側)が一体となっている融合の地で、この神社も、吉野熊野中宮と呼ばれた時期があったという。
「だからこの地は、お腹の中から赤ちゃんが生まれる瞬間の場所。つまり誕生、出発、蘇りの地なんです」。
大峰山脈には、尾根づたいに一本の道が続いている。大峯奥駈道――。修験道の修行場として開かれた道である。
修験道とは、古くからの山岳信仰に、神道や仏教、道教、陰陽道などが入り混じって成立したとされる日本固有の民族宗教。山を道場とし、自然と向き合う実践が重んじられている。
かつてこの山で修行する修験者(山伏ともいう)は、山中に入る前に「御嶽精進(みたけそうじ)」と呼ばれる厳格な精進潔斎(肉や魚、酒などを断ち、心身を清めて行いを慎むこと)をしていたという。滝に打たれ、水中に身を沈める水垢離(みずごり)と呼ばれる行をするのも、心身を清めるため。山の神は、不浄や穢れを嫌うと考えられていたからだ。
水の神、弁財天を祀る天川村の天河大辨財天社も、
「大昔は本殿のある小高い丘の琵琶山を囲むように、大峰山系を源とする川が流れ、浮島のようになっていたそうです」と柿坂さん。琵琶山には巨大な磐座(いわくら)があり、その岩の中心には、御神体である真名井と呼ばれる井戸があるという。
かつて空海が修行の拠点とし、その後この地に7堂伽藍が建立され、真言密教の修行の場となった背景には、水の豊かな聖地であることも関係していたのだろう。
ちなみに、この地から西に24kmほどの距離には、のちに空海が開山することになる高野山がある。
「神道のお祭りも、祓いで始まり、祓いで終わります」。柿坂さんは言う。
「神事だけでなく、直会(なおらい)までがお祭りです。神様にお供えしたものには、神様のエネルギーが宿っています。それを食することで、その力をいただき、それによって自分が浄化され、神と一体となるという考え方です」。
神道でいう「神人合一」と、空海が真言密教の根本に据えた「即身成仏」。アプローチの方法は異なるものの、聖なるものと一体となりたいという願いは、古来日本という国土に生まれた人々が持ち続けてきたものなのだろう。
では、なぜ心身を清浄に保つことが必要なのだろう。
「神道には『浄明正直(じょうめいせいちょく)』という言葉あります。心身が清らかになれば、心が軽くなって明るくなり、正しい道に進むことができて、心も素直になれるということです」。
この地に生まれ、神職の家に育ちながら、神社の向かいの来迎院が幼稚園代わりの寺子屋のような存在だったことから、仏教は身近だったという柿坂さん。「般若心経」や「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」の文言も自然に耳から覚え、唱えていたという。
「神様も仏様も、祀ってあるというより、常にいらっしゃる。だから一体だと捉えています」。神仏習合の自然な姿が、大峰山脈一帯には存在する。
一方、「想像ですが、お大師さんは役行者(えんのぎょうじゃ)さんに憧れて、このお山に来られたのではないかと思います」と話すのは、吉野の金峯山寺執行長の五條永教さん。
役行者とは、空海より100年ほど前の飛鳥時代に、スーパーマンのような活躍をしたと伝わる修験道の開祖で、金峯山で修行した際、山上ヶ岳で金剛蔵王権現を感得。その姿を吉野の山桜の木に彫刻し、山上ヶ岳と吉野山にお堂を建てたのが、金峯山寺のはじまりとされている。
「お山は、一言で言えば神様仏様。お山の上を歩かせていただくというイメージです」。
五條さんは、大峰の山々のことを、「お山」と慈しむように発音する。
普段は柔らかな物腰の五條さん。だが、平成21年(2009)、金峯山寺から山上ヶ岳までの約24kmの道のりを、単独で100日間休まず歩く、大峯百日回峯行を満行。その後も毎年、一般募集した人たちと熊野までの奥駈道を歩く、大峯奥駈修行を続けている。
特に大峯百日回峯行は、ある意味、役行者や空海が置かれた状況に近づく修行。前半の50日間は、山上ヶ岳で1泊して1日で片道を、後半の50日間は1日で往復、つまり前半の倍の距離を歩くという。
「行中はどこで拝んで、どんなお経を上げ、どんなご真言を唱えて、どんな作法をするか、代々伝わる次第があり、拝む場所もたくさんあるので、ゆっくり立ち止まることはありません」。
唱える真言やお経も、拝む対象によって変わるという。
「真言はインドのサンスクリット語を起源とする、大切な真理が凝縮されている言葉です。でも、要は神仏が喜ばれる言葉。唱えることによって、神様仏様が心地良くなられて、心が通じ合える、そんなイメージでしょうか」。
では、歩きながらどんなことを考えていたのだろう。
「一歩一歩、一瞬一瞬のことしか考えられないです。一歩失敗して転んだら、頭を打って死んでしまうかもしれないし、風に吹かれて崖の下に飛ばされるかもしれない。そんな生命の危険を感じながら歩きますから。ただそういう状況に置かれると、本来誰もが持っている、普段発揮されていない生きるための防御機能が、フル回転してくるんです」。
自然との一体感を感じることはあっただろうか。
「私の場合は、ときどき飛んでいるのかと思うくらい体が軽くなり、何も考えないで調子よく歩ける瞬間がありました。といっても、すぐ元に戻るのですが、突然そうなる瞬間が訪れるんです。おそらくその瞬間は、空気のように周囲の自然の中に紛れているのでしょう。
自然との一体感を持つときは、細胞の一つひとつが同じ方向を向いている気がします。耳に入ってくる水や風の音、鳥の声、さらに気温や湿度の変化など、さまざまなことを、頭だけではなく細胞も感じて、その一つひとつが意志を持って、それぞれの役割を果たそうと頑張ってくれている。そんな不思議な気持ちになりますし、大いなる力に生かされているというありがたい気持ちになります。だからまた頑張れる。ですから人間は、本来底知れない力を持っていると思います」。
私的な感想で恐縮だが、自然との一体感と「即身成仏」、両者は似た境地のように思える。修験道には密教の要素がさまざま入っていると聞く。五條さんは「即身成仏」についてどうお考えなのだろう。
「生きたままみんなが仏様になれるということですよね。仏教は、誰もが仏様になる可能性をすでに持っているけれども、それが表に出ていないだけのことで、誰でもみんな仏様になれるという教えなんです」。
とはいえ、真言密教では「即身成仏」という言葉が、際立って強い印象を与えている。
「それは、そうなるための術(すべ)をはっきり伝えているからだと思います。たとえば法華経などにも、誰もが仏様になれる仏性を持っていることを、喩えなどを使って工夫して書かれています。でも、その術までは書かれていません。その点密教は、たとえば仏様それぞれのはたらきや功徳(くどく)などを、手の指を使ってさまざまな形にして表現する印(いん)を結び、それに伴うご真言を唱え、その仏様のお姿を心の中でイメージしなさい、それをすると仏様になりますからと、方法が明確なんです。ただ、文字には表さず、認めた人しか面授(めんじゅ)してはいけないというルールがありますから、よけい印象に残るのかもしれません」。
密教の要素は、山伏(修験者)の装束にも入っているという。
「鈴懸(すずかけ)と呼ばれる衣は、実は曼荼羅を表していて、一つひとつに全部意味があります。たとえば頭巾(ときん)は、大日如来様の宝冠を表していると同時に、仏教の基本的な考えの一つである12因縁の中の煩悩の根源、迷いの中にいる無明(むみょう)を表している、というように、仏様の聖なる意味合いと、その逆の、煩悩という俗の意味合いをすべてに持たせているのです。
つまり聖と俗が一体となった鈴懸を着て修行することで、仏様になっていないあなたも仏様になれますよと、装束で表している。そういう前提のもとに、お山に入っていくわけです」。
さらに、話題は真言密教の根本理論である「六大(ろくだい)」にまで広がった。「六大」とは、森羅万象を成り立たせている「地水火風空」、つまり大地のように堅固な性質を表す「地」、清涼な性質の「水」、熱烈な性質の「火」、流動的な性質の「風」、漠として無限の広がりを持つ「空」という五大の物質的な要素に、精神的な要素を表す「識」を加えたもので、宇宙本体、ひいては密教の本尊である大日如来を表しているという。
「人間も、たとえば骨が『地』だとして、『水』分、そして、熱を持つので『火』があり、呼吸という『風』がある。『空』は大気、空間でしょうか。つまり五大があり、精神という『識』があるので、大日如来様と同じ要素から成り立っているといえます。同じように、言葉を話さない細胞それぞれにも、私は意志があると思っているので六大があり、仏性がある。そう考えると、動植物や鉱物にも仏性があることになる。そんなことを、お山の修行で、ほんの一部ではありますが、感じさせていただいたと思います」。
ともあれ、「あなたも仏様になれる」とは、こんな私でも? と思いつつ、勇気が出る言葉である。
「そのことにしっかり気づいて生きるのと、気づかずに生きるのでは大きく違うと思います。ただ、頭の中で気づいてもダメなんです。ですから一歩一歩精一杯という状況の中で、100日間休まず歩くことを繰り返し、それによって細胞一つひとつが気づき、納得して、ととのっていくのでしょう」。
「ととのう」とは、具体的に言うと?
「お山に入って、大自然に細胞のベクトルを向けていくと、それまでバラバラな方向を向いていた細胞一つひとつが同じ方向に向くようになって、細胞全体がととのうということです。バランスがとれて、うまくいくようになる。ひょっとしたら魂という表現も、細胞全体のことを言っているのかもしれません。
日本には古来ハレとケという言葉があります。ハレは非日常、ケは日常を表し、ケガレは気が枯れること。だからハレのことをするわけですが、お山に入る修行というのは、ハレなんです。神仏に近づかせてもらって、枯れていた気が戻る。お祭りも神仏に近づきますから、ハレです。神仏は大自然や宇宙、大いなる力とも言い換えられると思います」。
五條さんは現在、金峯山寺の塔頭(たっちゅう)、脳天大神龍王院で護摩祈禱を定期的に行っている。
「私たち人間はそれぞれ願いを持っていますが、実は自分の都合でこうなってほしい、これが正しいと考えてしまっています。たとえば病気の人は治してほしいと願いますが、もしかしたら、本人や家族にとっては、病気によって気づかなければならないことがあって、今は治らない方がいいのかもしれない。何が正しいかは、神様仏様にしかわかりません。最終的には神様仏様が判断して、うまくととえのてくださる。ですから私は、護摩を通してそれぞれの願いを神仏にお届けする繋ぎ役だと思っています」。
「ととのう」という言葉がキーワードとなった五條さんのお話。
「真言は、本来あるべきように、ものごとがととのっていく言葉」などとともに、多くの言葉を心に残す、密度の濃い時間となった。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。