猫を通して日本を知る、「ゆかし日本、猫めぐり」。
第41回は、人と動物が付かず離れず共存する場所へ。
車を降りると、どこからか猫が現れた。
目が合って数秒……にもかかわらず、迷いなく寄ってきて、
お尻であいさつ。
いきなりの歓待にうろたえつつも頬が緩み、突き出されたお尻を撫でていると、別の猫も現れた。
この子も近くに? と思いきや、素通りして道の端に。
近寄ると……、
かわいい!
……のは一瞬。すぐに表情は破壊され(あまりの急変ぶりに、カメラの視線認識機能が猫の目を見失う)、
そっぽを向く。
そしておもむろに爪研ぎへ。
なんと気まぐれ! 見ていて飽きない。ずっとこのまま遊んでいたいが、それではお参りできずに終わってしまう。気を取り直して境内に向かった。
伊勢市二見町にある太江寺(たいこうじ)は、奈良時代に活躍した僧、行基(ぎょうき)が開創したと伝わる古刹。近くには、かつて伊勢詣りの前に、参拝者が立ち寄って禊(みそぎ)をしたという霊場、二見浦(ふたみがうら)がある。
潮音山(ちょうおんざん)という美しい響きの寺の山号は、そんな立地に由来するのだろうか。ご住職の永田密山さんに尋ねると、「本当はここが二見浦なんです」と言う。聞けば、江戸時代後期に起きた安政の大地震で土地が隆起する前は、参道の麓付近、つまり、2匹の猫たちと出会った辺りまで水が迫り、浦になっていたらしい。参拝者はこの参道の麓で船を降り、急坂を登って寺を目指したのだ。
仁王門をくぐって階段を上ると、こぢんまりとした本堂が現れた。
早速猫も発見!
さっきと同じ黒猫だが、別の猫だろう。そそくさと逃げる。
どうやら寺の背後に聳える音無山一帯が猫たちの縄張りで、日中は自由に歩き回っているらしい。先に御本尊を拝ませていただいた。
国の重要文化財に指定されているこの千手観世音菩薩坐像は、鎌倉時代の作。榧(かや)の木でできている。
奥にはこの寺で護摩行をしたと伝わる、弘法大師像も祀られていた。
本堂の隣には、興玉神(おきたまのかみ)が鎮座する元興玉社という名前のお社も。
そもそも興玉神は、古い土着の神。伝説によれば、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする地を求めて二見浦を訪れた際、海上の巨石に出現したのがこの興玉神で、一行が五十鈴川を遡り、現在の伊勢神宮内宮に鎮座地を定めるにあたって守護をしたという。
「つまり、この伊勢の地には、古くから興玉神を祀る人々が暮らしていたということでしょう」とご住職。
現在、この興玉神は内宮の御垣内に守護神として鎮まり、神宮で月次祭(つきなみさい)や神嘗祭(かんなめさい)が行われる際は、まず奉仕員一同が興玉神の御前で、真心をこめて大祭に奉仕することを祈念しているという。
ちなみに、元興玉社の「元」の由来は、現在二見浦にある二見興玉神社の御神霊が、明治時代にこの社から分霊されたことによる。かつては夫婦岩の先に、興玉神が出現した興玉神石(しんせき)と呼ばれる巨石が見えていたが、前述の安政の大地震を含む2度の地震で巨石は海中に沈み、今は鳥居の役目をしていた夫婦岩のみが見えている状態なのだ。
かつて、天平年間(729〜749)にこの地を訪れた行基は、興玉神石を参拝した際に金色の千手観音菩薩を感得。その像を彫り、祀るために寺を創建し、鎮守として興玉神を境内に祀ったことが、太江寺の神仏習合の歴史のはじまりとなった。
「猫、いますよ」
ご住職が指差す方に向かうと……。
ひっそりと猫がいた。太江寺にはペット専門のお堂があり、多くの動物たちが供養されて眠っている。「馥(ふく)」という名のこの猫は、さまざまなペットの卒塔婆(そとば)が並ぶ霊園でくつろいでいた。
近づいても逃げず、すぐに自分の世界へ。のどかな春の陽を全身で受け止めている。
ほどなく、別の猫も現れた。
「銀(ぎん)」と呼ばれているこの猫は、警戒心が強く、常に一定の距離を保ってこちらの様子をうかがっている。
だが、ある女性が姿を見せると、態度が一変。尻尾をピンと立てて、女性から片時も離れようとしない。
この女性は、、ともに暮らした代々の猫や犬たちの供養のために、月に2、3度お参りに来ているという。寺は、人と猫が心を通わせる場でもあるようだ。
翌朝、猫たちのご飯の時間に合わせて再び境内へ。猫たちはすでにお待ちかねのよう。もはや風景の一部と化していた。
猫たちの食事は、朝と夕の2回。
毎回餌やり表に印をつけ、職員全員で猫たちの動向を見守っている。
「今日はクロの姿が見えないなあ」とご住職。昨日、山に姿を消した黒猫のことらしい。自然豊かな環境は、危険との隣り合わせでもある。結局クロが姿を見せたのは、寺を去る直前のことだった。
よかった。これで一安心。
参道を下ると、再び2匹の猫と出会った。さやさやと吹き抜ける風、遠くで聞こえるケキョケキョと鳴くウグイスの声。ようやく訪れた春を、全身で満喫しているよう。
ゆるゆるとした時間をともに過ごし、すっかり日常を忘れ去った。
帰りたくないなあ。
神仏習合の長い歴史を持つ寺は、さまざまな人や動物を付かず離れず見守る、懐深い場所だった。
潮音山 太江寺
〒519-0602
三重県伊勢市二見町江1659
Tel:0596-43-2283
(ご本尊は通常秘仏。事前予約すれば9時から17時まで拝観できる。拝観料500円)
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。