まるで森の中にいるようだ。
高さ49mの巨大な塔の中に入った瞬間、まず思った。眼前には、本尊である胎蔵界の大日如来像。その像を中心に、四方に金剛界の四仏、つまり阿閦(あしゅく)如来、宝生(ほうしょう)如来、阿弥陀如来、不空成就如来の像が配置され、さらに、その四仏を囲むように、十六大菩薩が描かれた計16本の柱が聳えている。
標高約800m。山上の聖なる盆地、高野山の壇上伽藍にある根本大塔。
その内部に、まさに林立するように安置されている仏たちは、真言密教の根本思想である金剛界と胎蔵界の、いわゆる金胎(こんたい)両部が一体となった世界を具現化しているという。
もっと言えば、壇上伽藍の堂塔の配置も、真言密教の思想を目に見える形で表現するべく、空海独自の発想で創案されている。
そもそも密教寺院では、塔は宇宙の真理を具現化する建造物とされ、本堂である金堂と等しく重視されているという。宇宙の真理に通じる空間で森を連想したことは、まったくの見当はずれではないのかもしれない。
空海は高野山の伽藍建立にあたり、金剛界と胎蔵界という両部の曼荼羅を象徴する2基の塔を、東西に配置する計画を立てている。もっとも、国の支援を受けず、勧進(寄付)によってすべての造営が進められたため、作業は遅れ、空海が両塔の完成を見届けることはなかった。だが、その遺志は弟子の真然(しんぜん)に引き継がれ、創建時は、東にある現在の根本大塔が「大日経」に基づく胎蔵界、西塔は「金剛頂経」に基づく金剛界の世界を象徴し、両塔が対となって金胎(こんたい)両部の曼荼羅世界が表現されていたという。
その後、財政面の事情などで、先に取りかかった根本大塔が、のちに建立された西塔より結果的に大きくなり、壇上伽藍の中心的な存在とみなされるようになったことや、両塔ともに落雷による焼失と再建を繰り返し、西塔が長らく存在しない時代があったことなどが関係しているのだろう。現在は、根本大塔に胎蔵界の大日如来と金剛界四仏、西塔には金剛界の大日如来と胎蔵界四仏と、それぞれが金胎両部の一体となった世界を表現しつつ、両塔が対の存在にもなっている。
そもそも空海が高野山開創の勅許を得たのは、弘仁7年(816)、43歳のとき。すぐに先遣隊として、十大弟子の実恵(じちえ)や泰範(たいはん)を高野山に派遣し、自身は弘仁9年(818)11月に、勅許後はじめて山に登ったという。翌年、ようやく整地が終わったこの地で、空海は7日間にわたって結界の修法、つまり、修行をする土地に障害が起こらないよう、区域を限って災いを払い除ける祈禱の儀礼を行った。この修法で、空海は諸仏、諸尊や国中の神々を勧請(神仏の来臨を請うこと)し、これから真言密教によって、金剛界、胎蔵界の両部の大曼荼羅を建立することを宣言。それゆえ一切の悪鬼神は、東西南北、四維(しい=天地の四隅)、上下などあらゆる方角の七里(約28km)の外へ去れ、ときっぱり告げている。
その上で、まず御社(みやしろ)を建て、自身をこの地に導いた丹生(にう)明神と狩場明神(#19を参照)を勧請し、土地の鎮守神として祀ったという。他の空海ゆかりの地と同様に、高野山でも堂塔に先駆けて、神々を祀るお社──たとえそれが祠のような簡素なものだったとしても──がつくられたのだ。
右は御社の近くにある、山内の修行僧が納めた奉納札。
以来鎮守神と山内僧侶たちとの、いわゆる「守り守られる」という関係は脈々と受け継がれ、のちに御社の拝殿として山王(さんのう)院も建立された。
現在も山王院では、鎮守神への神法楽(しんぽうらく=神に捧げる法会)として、真言密教の教学について夜を徹して問答、論議をする「竪精(りっせい)」の儀式などが行われている。
金堂、根本大塔と西塔、御社、そして、空海の御影(肖像画)を本尊とする御影堂……。
壇上伽藍に並ぶさまざまな堂塔を巡りながら、改めて、仏や神々の多様さを実感した。と同時に、素朴な疑問も浮かんできた。仏や神々、さまざまな信仰の対象をどう捉えたらいいのだろうと。
そんな問いへの答えとして、曼荼羅の説明をしてくださったのは、高野山蓮華定院のご住職で、高野山大学の学長でもある添田隆昭(りゅうしょう)さんである。
「お大師様が中国から持ち帰った金胎両部の曼荼羅のうち、胎蔵曼荼羅には、中心に大日如来様がいらっしゃいます。
そのうちの胎蔵曼荼羅の一番外側を見ると、風神(風の神)や火天(かてん=火の神)、地天(大地の神)、そして、太陽や月を神格化した日天、月天、さらに牛やサソリ、水瓶など星座の神々が描かれています。と同時に、地獄の住人が人間の足を食べ、血の入ったグラスを手に持っている姿や閻魔様も描かれています。実は、胎蔵曼荼羅の正式名称は、大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう=大きな慈悲の胎から生じた世界)曼荼羅で、胎蔵は女性の子宮です。つまり大日如来様は宇宙的な母親で、曼荼羅に描かれている神仏は、みなそのお腹から生まれた子どもだということです。ですから、今風に言えば、みな母である大日如来様の遺伝子を持っている。これを仏性と言いますが、それをビジュアルで表現したのが胎蔵曼荼羅なのです」
たしかに胎蔵曼荼羅には、密教の教主である大日如来を囲むように、仏や菩薩、明王など、400尊以上もの神仏が描かれている。だが、閻魔様や地獄の住人まで描かれているとは……。しかも、みな大日如来の子どもだという。なかなか受け入れ難い世界である。
「密教では、たとえば天国と地獄のように相反するものはなく、すべて同列です。つまり自分の外に、自分と対立するものを置かない。真の普遍性とはそういうことでしょう」
加えて、石や水、火などのいわゆる物質も、大日如来の子どもで、みな仏性を宿していると曼荼羅は伝えている。
「ですから、自然界の地、水、火、風、空という、宇宙を構成する元素が発するものも、仏様の声なのです」
──五大に皆響きあり──。
空海の著書『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』の中の言葉を思い出した。宇宙の絶対性を表すシンボルである地、水、火、風、空の五大は、互いに響き合っている、そんな意味だという。さらに言葉は続く。
──十界(じっかい)に言語を具(ぐ)す。六塵(ろくじん)悉(ことごと)く文字なり。法身(ほっしん)は是れ実相(じっそう)なり──。
つまり、地獄から仏界に至るすべての世界にはそれぞれ言葉があり、眼、耳、鼻、舌、身、意が認識する6つの対象、すなわち色、声、香、味、触、法も、それぞれ音を発している。この世の一切の音の響きは、大日如来の説法の声である。
空海の言葉の中で、もっとも有名なものの一つに数えられるこの一節を改めて読み、密教に、そして空海に興味を抱くようになったきっかけを思い出した。
長年西洋音楽に親しみ、人の心に届く音楽とはどういうものかを考え続けてきた自分にとって、空海に通じる最初の扉は、法要で唱えられる声明(しょうみょう=フシの付いたお経)、つまり音だった。
心のありようが最も表れると思われる音を通して、仏を讃嘆し、真言を通して仏とつながる。そんな捉えどころのない音を中心に据え、自ら持ち帰った密教の教えに真言宗と名づけた空海は、人一倍音への鋭敏な感覚を持ち、その微妙な違いを聞き分けて豊かに語れる人だった、という確信にも近い強い想いが、ときに挫けそうになるこの長旅を、根底で支え続けてきたように思う。
とはいえ、法身とは、真理そのものを仏格化した存在という。真理が説法するとは、どういうことだろう?
「大日如来は、サンスクリットではマハーヴァイローチャナです。一方、華厳経の経典には毘盧遮那仏、つまりヴァイローチャナという仏様が出てきます。両者はマハーがついているかいないかの違いはありますが、基本的には同じです」と添田さん。
では何が違うのか。
「これは伝統的な説ですが、お釈迦様は悟りを開かれた後、その内容を誰に伝えてもわからないだろうから、自分だけで楽しもうと思っていらした時期があったとされています。ところが、梵天さんというインドの最高神で、宇宙創造の神様が、そんなに苦労して悟りを開いたのだから、自分だけのものにせず、他の人にも教えてあげなさいと諭された。そこではじめて、お釈迦様は説法をされたという有名な話があります。実は華厳経は、お釈迦様が悟りを開いてから説法を始めるまでの沈黙の期間に、心中に浮かんできた内容を文字化したという設定のもとで書かれた経典で、その教主である毘盧遮那仏は、お釈迦様が悟りを開かれて宇宙的な存在に変身した仏様です。つまり、沈黙されていた期間の心理的な状況を擬人化した存在なのです。ですから説法はしません。
では、なぜ華厳経として伝わったかというと、お釈迦様を取り囲むいろいろな菩薩たちが、毘盧遮那仏の力を得て、悟りの内容をテレパシーで受け取り、それをお釈迦様に代わって話しているからです。ですから、毘盧遮那仏は説法をしないということから華厳経は始まった。ところがお大師様は、そんなことはない。密教の教主である大日如来は、真理そのものでありながら説法をすると断言したのです。当時の日本の仏教界では、そんな馬鹿なと言われたでしょう」
真理そのものである法身、つまり大日如来が説法をすると空海が言い切った背景には、青年時代に修法した虚空蔵求聞持法での強烈な体験が原点にある。添田さんはそう考えている。
空海は、四国の大瀧嶽(たいりゅうだけ=#6、#7を参照)や室戸岬(#9を参照)で求聞持法を修法したときの体験を、『三教指帰』に次のように書き記している。
──谷 響きを惜しまず 明星 来影(らいえい)す──
この2文のうち、添田さんは「谷 響きを惜しまず」に、特に着目していると言う。当初は記憶力を増すという世俗的な目的で始められた求聞持法は、結果として、自分の唱える真言が谷々にこだまし、宇宙が自分の声で満たされるという、想像もしなかった宗教的覚醒(悟り)へと導いたというのだ。
「当時の日本では、お大師様のように、何度も突き詰めて求聞持法を修法した人はいませんでした。ですから『谷 響きを惜しまず』という、人生を揺るがすような貴重な体験をしても、それが何を意味しているのか、説明できる人が日本にはいなかったのです。しかし、それほどの体験をした以上、それが何だったのか、お大師様は命に代えても知りたいと思った。だから中国へ渡られたのでしょう」
そして、唐で恵果阿闍梨(けいかあじゃり)と出会った。
「おそらく恵果阿闍梨は、お大師様と会った瞬間に、この青年は自分と同じように悟れていると見抜いたのでしょう。唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)。仏は仏のみが知るというわけです。ですから恵果阿闍梨は、お大師様に修行しなさいと一言も言わず、すぐに灌頂を受ける準備をしなさいと言われた。そして、実際にお大師様が灌頂の儀式で、曼荼羅の仏たちに華を投げると、その華が胎蔵界、金剛界、ともに中央の大日如来に落ちたのです。恵果阿闍梨は驚くと同時に、自分の最初の見立てが間違っていなかったことを確信され、お大師様も、恵果阿闍梨からお前は悟ったと認めてもらい、圧倒的な自信を得たのです」
帰国後、空海は求聞持法での体験を書き残すために、すでに書き上げていた『聾瞽指帰(ろうこしいき)』に「谷 響きを惜しまず 明星 来影す」の言葉を含む序文を加えた。添田さんは、空海が求聞持法によって人生を揺るがす体験をしたのは、『聾瞽指帰』を書いた24歳から入唐する32歳までの間だと捉えているのだ。
「お大師様が書かれた言葉は、どれも自信に満ちています。それは自分の体験が原点にあるからです。大日如来が説法すると断言したのも、自分が求聞持法を修法したときに実際に聞いたからです。それは決して幻覚ではなく、まさに『谷 響きを惜しまず』という体験で、恵果阿闍梨もそれを悟りだと認めてくれた。当時日本の奈良仏教では、悟りはお釈迦様のような特別な方が、長い輪廻の中で何度も生まれ変わり、ようやく現世で叶えられるもので、我々凡夫が悟りを得るのは、無限の彼方の話だというのが常識でした。
ところがお大師様は、そんなことはない。この身この世で成仏できるという、即身成仏を主張したのです。
すべては自分が体験したことで、それを当時の人々が信用し、理解できるように、いろいろな経典を引用して多くの著書で説明された。もっとも、その文章を何度読んでも、なんとなく納得できない部分が残るのです。もちろん、理論的に辻褄は合っているのですが……。それは、お大師様の出発点である『谷 響きを惜しまず』という原体験を共有できていないからなのでしょう。我々にはそれほどの体験はできませんから。お大師様の人生を俯瞰的に見ると、その原体験を験を言語化することを、生涯を通して課題とされていたように思うのです」
空海の原体験に不可欠だった真言についても聞いてみた。
「真言は訳さないことが前提です。もちろん一つひとつの単語には意味がありますから、訳すことはできます。でも、あえて訳さないことになっています。その理由は、真言は仏様からいただいた聖なる言葉だからです。たとえば、火事の場合は119、強盗は110に電話しますが、それは向こうが決めた番号で、意味もありませんが、消防署や警察など答える相手がいるという前提があるから、その番号を押すわけです。真言も一緒です。意味はなくても、仏様からいただいた言葉であり、それを使えばコミュニケーションができるということです」
大切なのは真言の意味ではなく、音そのもの。そして、音を発するときの心のありようなのかもしれない。
一つ、また一つと扉を開けるごとに、さまざまな面が見えてくる空海という人物。高野山には、そんな空海の名代、つまり代理となる法印職がある。
2023年の2月、添田さんはその法印に就任した。法印は、正式には寺務検校執行法印(じむけんぎょうしぎょうほういん)という名称で、山内最高位の役職という。任期は1年。その間、山を降りることは許されず、山内の重要な法要で導師を務める。
「現在法印は名誉職になり、年功序列で順番に回ってきますが、そもそものはじまりは、お大師様が遺された『三十帖冊子』にあります。お大師様が中国で経典などを書き写された30冊にも及ぶこの冊子は、もともと東寺の長者になると読むことができるとされていました。ところが、高野山を託された真然が東寺の長者だったとき、冊子を高野山に持ち帰り、その死後、これを巡って紛争がありました。このことから高野山が一時衰微し、東寺の長者が、高野山の座主を兼ねることになったのです。
その状態は1000年近く続くことになりますが、その間、高野山でも自立するべく、座主と執行長を兼務するような検校という役職をつくったのが、法印職のスタートです。
その後、明治時代に座主職が戻ってきたので、仕事の棲み分けをし、座主がオールジャパンの高野山真言宗の代表で管長職、法印職は高野山内でのすべての法要の執行者になるという割り振りができました。ただ、大永元年(1521)に、高野山で約4000の寺が焼失する大火があったときは、こんなことが起きたのは法印が修行していないからだと、『検校を入定せしむ』と当時の記録に書かれています。「せしむ」、つまり、お大師様と同じような永遠の瞑想に入ることを強制的にさせられたということで、石子詰み(地面に穴を掘って座らせ、上から石を詰める)にされたのです。それぐらい検校職は権威があり、同時に責任の重い役職だったのです。今も山火事があったら、『法印さん、ちゃんとやっているんか』と言われます。いずれにせよ、山内の住職にとって、法印を務めることは、自分の人生の総決算。表舞台の最後であり、総仕上げでもあります。名代という仰々しいものではなく、人生最後の試験をお大師様からされている感じです」
この日は奥之院で法要が行われ、添田さんが導師を務めた。空海が今なお生きて瞑想を続けている場所、御廟と対峙しながらの法要である。どんなお気持ちだったのだろう。
「その他大勢の職衆(しきしゅう)として座っているのと、導師として座っているのとでは見える景色が違うんです。
高いところに座ると、お大師様が正面になりますから、急にお大師様に睨まれるというリアリティがあります。本当にコラーっと言われている感じなのです」
気がつけば、空海を追う旅も高野山が最終地。自分たち夫婦にとっても旅の総決算となるこの聖なる地での時間を、今少し楽しみもうと思う。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。