標高1000mを超える山々が幾重にも連なる紀伊山地。古来神々が鎮まる地として神聖視されてきたこの一帯は、都人にとって非日常の異界。空海はこの紀伊山地の北西に位置する山深い地で、自身の宗教思想を具現化させるべく大きな一歩を踏み出した。
唐から帰国して10年。その間空海は、胎蔵界・金剛界という二つの世界を持つ体系的な密教を広く知ってもらうため、多方面に働きかけてきた。弟子の養成に力を注ぎ、『弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)』などの著作をあらわして、他の仏教、つまり顕教と自身が請来した密教がどのように違い、どういう点で優れているかを理論立てて説明する一方、東国や筑紫など諸方に働きかけて密教経典の書写を依頼している。加えて、書を通して始まった嵯峨天皇との交流をはじめ、朝廷や貴族、さらに南都の仏教界とも良好な関係を築いてきた。それまで呪術的な要素ばかりがクローズアップされ、断片的にしか伝来されていなかった密教への認識を改め、公的に正しく知ってもらうという段階を経て、空海は弘仁7年(816)に、嵯峨天皇に高野山の下賜を願い出た。
国家の平安を祈り、多くの密教修行者の修禅の場となる寺院建立のため––––。
天皇に提出した上表文には、高野山下賜の目的についてそう書かれている。
空海はなぜ修禅の場として高野山を選んだのか。その理由に関しては有名な伝承が残されている。つまり、空海が唐から帰国する際、密教流布にふさわしい地があれば示したまえと日本に向けて三鈷杵(さんこしょ)を投げ、後年その三鈷杵を探して歩きまわっていると、黒白2頭の犬を連れた狩人と出会った。事情を説明すると、「少し南の山中で、夜な夜な光を放つ松がある」と教えられ、狩人が放った2匹の犬の後をついていくと、丹生(にう)明神、すなわち丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が現れた。狩人は丹生明神の御子である狩場明神、すなわち高野御子大神(たかのみこのおおかみ)が化身した姿だったのだ。丹生明神は自らを山の王と名乗り、自身の土地を空海に授けると託宣した。平安時代中期に成立したとされる『金剛峯寺建立修行縁起』では、高野山開創に至る過程をそう伝えている。
一見現実離れしたこの伝承から、一つの可能性が見えてくる。空海は山の民と交流があっただろう、ということだ。そもそも丹生明神、狩場明神とは? 素朴な疑問を抱き、紀伊山地へ向かった。
紀ノ川沿いの笠田(かせだ)から山中に入り、車を走らせ約15分。終始上り坂の主要道路を離れて左に曲がると、こぢんまりとした盆地が現れた。
標高約450m。空海が山の王である丹生明神と出会ったと伝わる地は、古くから天野(あまの)と呼ばれ、丹生明神をご祭神とする丹生都比売神社が鎮座している。
この神社の創建は1700年以上前。『日本書紀』には、この神社の宮司にあたる「天野祝(あまののはうり)」が登場し、『播磨国風土記』にも、同じ頃、応神天皇より紀伊山地北西部の山々を神領として寄進され、社殿が建てられたと記載されている。
「天野祝から丹生の一族が宮司をしていたと伝わります」。そう話すのは、丹生都比売神社の宮司、丹生晃市(こういち)さん。
そもそも丹生の丹は丹砂(たんしゃ)、つまり、硫化水銀から成る鉱物のこと。主に朱の顔料となり、神の声を聞くときに悪いものが入ってこないようにと、魔除けの意味で使われたという。丹砂がいちばん使われたのは国王の陵墓。東洋では、国王は死後も永遠の生命が与えられ、国民を守ると考えられており、丹砂を一緒に埋葬することで魔物にやられないとする信仰があったという。加えて、仏像の鍍金や不老長寿の薬にも用いられ、昔は金や銀に次いで高価で貴重な鉱物だった。
「丹生家は丹砂を採る技術と、拠点を全国に持っていた小豪族の一族で、その本拠地がこの地だったということなのでしょう」
ちなみに、全国に丹生の名が付く神社や地名は、中央構造帯沿いに多く、過去に硫化水銀が採れた、もしくは現在も採れているなど、なんらかの水銀との相関関係が認められるという。
空海は、唐で水銀の採掘と製造の新技術を学んだとされ、一説では、高野山を選んだ理由も水銀がらみではないかと言われている。だが、高野山で水銀が採取された記録は残っておらず、推論の域は出ていない。
晩秋の凍てついた空気の中、胎蔵界・金剛界に由来して命名されたという両部形式の外鳥居をくぐり、境内へ。
輪橋(りんきょう)と呼ばれる太鼓橋を渡り中鳥居をくぐると、檜皮葺の楼門が目に飛び込んできた。鄙びた里にあるとは思えない、壮麗な佇まいである。
この神社のご祭神、丹生都比売大神は、天照大御神の妹で、機織りの女神である稚日女命(わかひるめのみこと)とされている。
「和銅3年(710)に書かれたとされる『丹生大明神告門(のりと)』には、最初に紀ノ川沿いの、現在丹生酒殿(さかどの)神社が鎮座する場所近くに降臨し、紀伊大和をめぐられた後、この天野の地にお鎮まりになり農耕を伝えたとされています」
この神社が大正13年(1924)に、全国で60数社しかない最高社格の官幣大社に指定されたのも、丹生都比売大神が天皇家と繋がりのある稚日女命だということが、学説として認められたからだった。
本殿は春日造で、この建築様式としては日本でも最大規模だという。
ちなみに、日本で2番目に大きな春日造の社殿は、高野山の大伽藍にある明神社。空海は高野山の開創にあたり、真っ先に丹生明神と狩場明神を守護神として祀ったとされている。もっとも、現在の社殿は文禄3年(1594)の再建で、当初は簡素な祠に祀られた可能性が高いという。だが、寺所有の社が現在これだけ大きいという事実は、この二神が、空海の入定後も大事にされ続けてきたことを暗黙のうちに伝えている。
空海は高野山の下賜を願う上表文を提出する際、天皇との仲介役を務めたと思われる宮内省の役人、布勢海(ふせのあま)なる人物に、その背景となる想いを手紙で吐露している。
──唐から帰る海上で嵐に遭った際、無事に帰国した暁には、諸法善神の威光を増益し、国の擁護と衆生の救済のため、静かに瞑想する寺院を建てるという願いを立てた。その願いを未だに果たしていないのは、天の神、地の神を騙すことになるのではと恐れている──と。
神々を畏れ敬う空海の人間性が伝わる一文である。
「仏教が伝来し、神社の隣にお寺が建てられ共存して、日本の祈りのかたちとして完全に定着するのは密教からでしょう」と丹生さんは言う。
空海が生きた時代、仏教は天皇や貴族など、教養や財力のある一部の人々のみが触れることのできる教えで、庶民は日本古来の自然信仰を基盤とする祈りとともに暮らしていた。
「自然の中に神々の姿を見出し、敬い大切にすることにより、自然に守られる。一方で、先祖を大切にすることによって先祖に守られる。そんな自然と先祖に対する『守り守られる』という関係が大切にされていたのです」
そんな信仰の中に生きる庶民に仏教を広めるにあたり、空海は日本人が古来持ち続けてきた信仰観に近い教えとして、密教に目をつけた。丹生さんは、「あくまで神主としての見解ですが」と前置きをし、そう分析する。
「空海さんは唐からの帰国後、神々が鎮まる山で、密教を日本人のアイデンティティに沿った教えにしていくことを徹底して行われたのでしょう。そして、その教えを広めた。これは日本の宗教史から見て、神仏習合から一歩進んだ神仏融合のかたちだと思います」
長い歴史を振り返れば、この神社は明治初年まで、神職だけでなく高野山の僧侶も合わせた56人体制で維持されていたという。火事で高野山が荒廃したときも、僧侶たちがこの地に住んで復興を目指した。その一方、この神社の19軒の社家は、江戸期に至る国家仏教の時代に各地の社家が疲弊したときも、高野山からの厚い信仰のおかげで高額な扶持米(ふちい)が出され、存続することができたという。まさに持ちつ持たれつの関係を続けてきたのだ。
「高野山の地主は丹生明神で、神様からいただいたお山だという開創当初の空海さんの想いが、ずっと受け継がれているのです。また、修行の場として山王社(さんのうしゃ)がある。常に神様に守っていただいている。そういう意識があるのでしょう」
今も高野山では、得度した僧侶が「四度加行(しどけぎょう)」という修行を終えた際、丹生都比売神社に拝礼し、感謝の御札を納める習わしがあるという。
「空海さんは神道だ、仏教だと区別することなく神様を大事にし、その精神が、1200年という時を超えて残されている。紀伊山地一帯が世界遺産に登録されたのは、日本人の信仰の源泉があるからです。登録の理由として、ユネスコは第一に〈神道と仏教の融合した文化的景観〉を挙げています。ユニークでもあるとも評しています。
日本人は自分たちの昔からのアイデンティティを大事にし、絶対に崩しません。そのためには神道であっても、仏教であってもいい。そういう発想を体系的につくったのが空海さんだと思います。
神道は、ある意味ローカルなアニミズムで、日本の気候風土に合ったものです。経典や教義がないものをどのように表現していくか、そういう恐れもあるなかで、仏教の力を借り、自分たちのアイデンティティである祈りのかたちを形成して残してきた。神道の精神を、世界に、宇宙に拡張すると、弘法大師の考え方になると思うのです」
一方、空海が狩場明神と出会ったと伝わる地には、弘法大師をご本尊とする真言宗の寺院が建っている。
奈良県五條市犬飼町にある轉法輪寺(てんぽうりんじ)。
この寺は、住所こそ奈良県だが、和歌山との県境まで2kmほど、丹生都比売神社も30kmとは離れていない距離にある。紀ノ川は、この五條市を境に吉野川という名称に変わる。
境内に入り、まず目を引くのは明神社。
本殿はやはり春日造で、狩場明神と丹生明神が祀られている。本殿前には空海を先導したと伝えられる、黒と白の犬の像。
毎朝ご住職の桑山慈紹(じしょう)さんが、ご本尊より先に二神にお供えを差し上げ、手を合わせているという。
寺伝によれば、この寺は高野山の開創と同じ年に、空海が創建したとされている。もっとも、「実際はもともとこの地に宿屋のようなものがあり、その主人がお大師様を慕って弟子になり、宿屋を寺にして初代住職になった、という話のようです」。そう話すのは、副住職の桑山聖淳(しょうじゅん)さん。
だが、空海はこの地を大事に思っていたのだろう。2代目住職として、自身の弟子の一人である杲隣(ごうりん)を遣わしたと伝えられている。現在のご住職は、創建から数えて72代目にあたるという。
この寺の本堂は、明神社の隣にある。いわば神と仏が隣り合わせ。伝承がそのまま寺という生きた形になって残され、根底にある精神を今に伝えている。
本堂の一角では、星供(ほしく)が行われていた。
星供、もしくは星まつりについては、愛媛県の石鎚山を遥拝する星ヶ森で、かつて空海が星供を修法したという伝承を知ってから興味を抱いていた。
星供は、もともと中国で冬至に行われていた道教の祭儀で、のちに密教に採り入れられ、仏教的に脚色された歴史がある。密教では、個人の災いだけでなく、天下国家に起こる各種の災害を除くためにも修法されていたようだ。
人はそれぞれ生まれた年や月日、時間によって宿命づけられた星、つまり本命星(ほんみょうじょう)があり、一方で、1年ごとに運命を左右する当年星(とうねんじょう)と呼ばれる星が巡ってくる。
「その星々を供養することで自分の運気を好転させる、つまり、星を祀る修法が星供です。もともとは星を拝むことが主体だったと思いますが、徐々にわかりやすい厄除けにつながっていったのでしょう」
星を祀るにあたっては、真言が重要な役割を担う。密教の経典である『宿曜経(すくようきょう)』には、さまざまな星を司る仏や神格が登場し、それぞれに真言が存在する。その真言を唱えることによって、凶運の年は悪事災難を免れるように星を供養し、好運の年は、やはり真言を唱えて星に祈願をする。
加えて、丁寧な次第では、当年星の真言を千遍、本命星を百遍唱えると書かれているという。おそらく天皇や貴族など、特別な個人のために星供を修法する場合は、そのようにすることもあったのだろう。
星供のご本尊、金輪聖王(きんりんじょうおう。一字金輪仏頂とも呼ばれる)は、深い瞑想の境地にある如来が説いた一字の真言、ボロンを神格化した存在という。祭壇の前には、そのボロンを表す梵字を中央に据えた星曼荼羅が掛けられていた。
修法は静寂の中、粛々と進んでいく。星々を勧請し、供物を捧げ、ご本尊をはじめ北斗七星などの星々の真言を、聖淳さんが微音(びおん)というほとんど聞こえない音で唱えていく。
「星供のような行法では、真言は仏様とつながるツールという感じです。自分の口から出た真言が、仏様の足元から入って頭の上から出てくる。それを自分がまたいただくという、鎖のようなイメージで唱えています」
この日の天候は雨。日中にもかかわらず本堂は薄暗く、それが不思議と心を落ち着かせた。黙々と数珠を繰り、真言が唱えられ、それに呼応するように雨が激しくなる。静かだが濃密な空気がお堂を満たした。
その後祈禱者の名前が、住所や年齢とともに読み上げられていく。
「星と人は繋がっているので、本来はお星様だけを拝めばいいのですが、やはりご祈禱される人たちのことも拝みます。拝ませていただくことによって、プラスのエネルギーをその人に届けるという感じです。90代の方が、弱々しい字で親族一同、3、4歳の子どもの名前まで書いてあるものを見ると、感慨深い気持ちになります」
人間は星と、そして宇宙とつながっている。そう感じさせてくれる修法だった。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。