山崎佳代子『ダダと詩人たち』

第1回 萩原恭次郎『死刑宣告』を読む①

連載|2023.9.15

最初に『死刑宣告』から「日比谷」を読もう。

 首都の心臓、日比谷を主題とするこの作品は、今もなお新鮮だ。活字の大きさを自由自在に変えて、視覚に訴える。高層ビルが空へ空へと伸びていき、人々が黙々と働く空間は、「智識使役人夫の墓地」と名付けられる。それは現在の東京都心の実景でもある。詩句は、強烈なイメージを生む短い名詞文からなる。「軍隊と貴金と勲章と名誉」「無限の陥没と埋没」、「刺激的な貨幣の踊り」……。この情景から遊離するように歩く「彼」に、詩人は焦点を定める。「彼は行く――」のフレーズは、1回目と2回目では「日 比 谷」よりやや小さい活字で組まれる。3回目の活字は「日 比 谷」と同じ大きさで、4回と5回目は再び小さくなり1回目と2回目の大きさと同じ活字で組まれる。あたかも遠くから来た「彼」が詩人の視覚に入り、再び遠ざかるかのように。「――」の代わりに、「一人!」が加えられ、集団から逸脱するアウトサイダーの「彼」が近づき、遠のいていく。
 この詩の詩句は、すべてが名詞文か単文であり、いずれも現在形で、リズムは力強い。頁の下には、黒く太い直線が描かれ、アスファルトで固められた都市の空間を連想させる。
 詩集は、1925年10月に東京の長隆舍から刊行された。関東大震災から、2年後の秋だ。この詩集によって日本の近代詩は終焉し、現代詩の時代が訪れたと言えるだろう。千葉宣一は、1925年を昭和詩史の基点だとして、萩原恭次郎の『死刑宣告』と堀口大学の翻訳詩集『月下の一群』の刊行の年であり、ヨーロッパ前衛文学の媒介者、西脇順三郎のロンドンからの帰国の年であると指摘する(千葉1978: 135-136)。
 『死刑宣告』は、すでに言及したリトルマガジンと深い繋がりを持っている。『赤と黒』(1923年1月-1924年6月)と『MAVO』(1924年7月-1925年8月)である。詩集には『赤と黒』に発表した詩作品が収められているほか、『MAVO』からは、リノカットなどの挿画や写真が転載されており、恭次郎自身の凸版もある。詩集の装丁をてがけた岡田龍夫は、『MAVO』のメンバーだった。
 箱入り、装丁はソフトカバーである。白い箱には、赤いリノカットが大胆にあしらわれている。構成主義的な作品には、高さの異なる直角三角形が二つ並び、左斜めに傾く辺が、緊張感を与えるが、模倣(ミメーシス)、つまり具象表現を放棄した抽象作品は、多層的な意味を内包する。「死」と「宣」の文字が大きく垂直に組まれて威圧的な印象を与え、「刑」と「告」の小さな文字は左に傾斜して組まれ、不安感を生む。縦22.5cm、横16cmのソフトカバー。

 詩集本体の表紙には、白地に黒の力強い線で、左右対称にマス目が描かれている。中央上部には、まず横書きで、緑の活字で萩原恭次郎と名を記した2cm幅の黄色の紙のテープを貼り、その下には4cm幅の赤褐色の紙のテープに大きな活字をゆがめて配置して『死刑宣告』とタイトルを記した。箱に置かれた文字と同じだが、こちらは黒い。文字はリノカットだろう。表紙の中央の白い空白に、灰緑の円が描かれ、小さな活字で東京、長隆舍刊と出版社名が記されている。その下に、小さなマス目が黒色で描かれ、いくつかのマスが黒く塗りつぶされ、ごく小さなローマ字で、T.oとある。画家、岡田龍夫のイニシアルである。シンメトリックな大きな黒いマス目は、写真のネガ・フイルムを思わせるが、冷酷な梯子を連想することもできる。あるいは、人の消えた都会のビルディングの窓なのか。いずれも写実的な表現は用いられず、多義的な連想を引き起こす。中央の円形は、国旗の日の丸が青ざめているようにも見える。むろん、別の意味を見出すことも可能だ。奇想天外な意匠から、岡田の手はもちろんのこと、印刷所や製本所の職人の手が重なって見える。
 本書の構成も個性がある。巻頭の詩人自身の「序」(11頁)、詩集例言(3頁)、目次(6頁)、9章からなる作品を収めた本文(161頁)、巻末の岡田龍夫のテキスト「印刷術の立体的断面 装幀・リノカツト・紙面構成其他」(5頁)から成り、奥付の裏には詩集の版元であり『MAVO』の出版社である長隆舍の出版物の広告が掲載されている。一冊はドイツ表現主義を代表する詩人エルンスト・トルラーの詩集『燕の書』(1923年)で、村山知義訳、岡田龍夫の挿画。もう一冊は村山知義の研究書『現在の芸術と未来の芸術』である。表紙から最後のページまでが、アバンギャルドな詩集だ。

アバンギャルド美術と詩が出会う書物

 前衛的な美術作品は、本文の中にも数多く挿入されている。村山知義、岡田龍夫、タトリンら7人の芸術写真、恭次郎自身の凸版、岡田、恭次郎をはじめとする11人によるリノカットの作品が所収されているが、いずれも構成主義的な傾向を示している。詩作品と挿画の内容上の関係は稀薄で曖昧であり、補完関係もない。だが言葉と挿絵の繋がりが明白でないからこそ、ダダ的な意味の破壊の空気がたちのぼり、無意味から多義性が生まれる。理性が否定され、感覚と直感が活性化する。コラージュにはドイツ語やロシア語の新聞が用いられ、無国籍的な雰囲気が漂う。動植物や天体など自然や物体を模倣したものはなく、直線や曲線、円や三角形、立方体など幾何学的な図形を組み合わせた作品が中心を占める。歯車、胎児、魚もみられるが、単純にデフォルメされ、児童画やプリミティブアートを思わせるものもある。いずれもヨーロッパ・アバンギャルド美術に共通の詩学だ。
 美術的な要素は、詩作品の中にも組み込まれる。活字の大きさや配列、ページの向きまで、自由自在に変化する。「○●」(萩原 1925: 50-51)や「ラスコリーニコフ」(萩原 1925: 130-131)のように、詩の一部として図形や線などが用いられている作品もあり、視覚的な要素が詩作品に組み込まれている実験的な詩も少なくない。読む人は、本を手で動かして読むことになり、身体行動を促す作りになっている。私たちが無意識に行う読書の行為を意識させる、いわば「非自動化の手法」だ。

 グラフィカルな手法はヨーロッパ・アバンギャルドの詩集にも特徴的で、セルビアではヴェー・ポリャンスキー(Ве Пољански, 1897-?)の詩集ТУМБЕ (Београд, 1927:『ちぐはぐ』)の組版も『死刑宣告』に似ている。いずれ、お目にかけるが、藤田嗣治の挿絵をほどこした詩集は、本文にはグラフィカルな手法が用いられ、恭次郎の詩集に似た雰囲気がある。

注 文中の引用は、以下の書物による。旧漢字を新字に改めた。
萩原恭次郎『死刑宣告』長隆舍 東京1925年
(名著復刻詩歌文学館 石楠花セット 日本近代文学館 東京 1981年)
千葉宣一 『現代文学の比較文学的研究』 八木書店 東京 1978年
なおセルビア語の自著を参照している。
Japanska avangardna poezija: u poređenju sa srpskom, Filip Višnjić, Beograd, 2004.

山崎佳代子 (やまさき・かよこ)
詩人、翻訳家。1956年生まれ、静岡市に育つ。北海道大学文学部露文科卒業。サラエボ大学文学部、リュブリャナ民謡研究所留学を経て、1981年よりセルビア共和国ベオグラード市在住。ベオグラード大学文学部にて博士号取得(比較文学)。著書に『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』(左右社)、『パンと野いちご』(勁草書房)、『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『戦争と子ども』(西田書店)、『そこから青い闇がささやき ベオグラード、戦争と言葉』(ちくま文庫)など、詩集に『黙然をりて』『みをはやみ』(書肆山田)、『海にいったらいい』(思潮社)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』『死者の百科事典』(創元ライブラリ)など。 

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