激動の近代を生き抜いた
ふたりの「浮世絵師」の継承と革新
1867年の大政奉還を機に「明治」として近代化の一歩を踏み出した日本。
徳川家を頂点とした幕藩体制の終了と、開国による世界へのデビューは、政治・経済のみならず、文化にも激変をもたらした。
西洋化推進のもと、前時代的として江戸期の文物は多くが否定される一方、国際社会へのアピールとして「日本的なるもの」が求められ、江戸時代よりも前の文化が見直されるようになる。
こうした風潮のなか、江戸庶民に支えられてきた浮世絵も苦境に立たされる。
西洋から写真や石版画など新しい技術や印刷機が導入され、新聞や雑誌というメディアが台頭して、大正期を過ぎると浮世絵の文化はすたれていくのだが、この逆境の時代に生き残りをかけて挑んだ者たちがいた。
幕末最大の画派として一世を風靡した歌川国芳一派。国芳の人柄にもよるのだろう、多くの弟子たちがいたが、なかでも落合芳幾(よしいく)と月岡芳年(よしとし)は、ともに切磋琢磨し、慶応2~3年(1866-67)には、幕末の不穏な空気を反映した残酷なシーンを描いて「血みどろ絵」と呼ばれた《英名二十八衆句》の共作で名を挙げ、師を継ぐ者として評価されていた。
明治維新により世の中が転換した時はともに30代。
彼らは国芳門下の2大ライバルとして、師からそれぞれ異なる面を受け継ぎつつ、己の画の道を模索し、歩んでいくことになる。
このふたりの画業の全貌にせまる展覧会「芳幾・芳年―国芳門下の2大ライバル」が三菱一号館美術館で開催中だ。
大阪で書店を営んだ浅井勇助が収集した幕末明治の浮世絵を網羅する「浅井コレクション」を中心に、芳年の屈指のコレクションで知られる「西井コレクション」、国芳研究で著名な「悳(いさお)コレクション」という、幕末浮世絵を代表する3大コレクションから作品が集結。また、錦絵新聞は、元大阪毎日新聞の記者であった新屋茂樹の「新屋文庫」から出品される。さらには貴重な肉筆画も含む豪華なラインナップで、ふたりのいきざまに激動の時代が浮かび上がる。
近年、国芳ブームにより、ようやく幕末の浮世絵が注目されるようになってきた。芳年は個展も開催されているのでご存知の方も多いかも知れないが、芳幾はこれまであまりまとまって紹介されていない。
しかし、彼らが活躍した時代には、兄弟子であった芳幾の方が評価は高かった。それは、国芳の「死絵(しにえ)」(追善絵)を描いたのが芳幾だったことにもうかがえる。著名人の死を報じる「死絵」は、絵師のあいだでは通常、師を継ぐ者(一番弟子)が担当したのだ。
その芳幾は、明治5年(1872)、東京で初めての日刊紙「東京日々新聞」の発刊に携わり、そこから庶民が興味を持ちそうな記事を錦絵にした《東京日々新聞》大錦を描いて人気を博す。その後も新聞や雑誌の挿絵を手がけて浮世絵師の活動領域を広げた。
一方の芳年は「浮世絵」にこだわり、他派の画風も吸収しつつ、国芳ゆずりの武者絵から、歴史上の人物を描く独自の主題や表現を獲得して人びとに支持される。晩年には優れた画力に静謐な世界観を確立し、浮世絵の表現領域に新しい風をもたらした。
展覧会は、プロローグとエピローグに、「二人の師、国芳」、「国芳からの継承」、「肉筆画」、「同時代の絵師たち」、「新聞錦絵」の5テーマで構成される。会場の建物の構造に合わせ一部の作品展示が前後するが、テーマに沿って、国芳、芳幾、芳年のそれぞれの表現を比較できる。
会場装飾も凝っている。この壁は左から見たときと右から見たときで現れる画が変化する。会場で実見して!
プロローグは、ふたりの肖像が描かれた浮世絵と、実質的なデビュー作《英名二十八衆句》に肉筆画の一部が紹介される、象徴的なはじまりだ。
あらかじめ決められたテーマを見立てや連想、言葉遊びなどで別のイメージに読み替える出来栄えを競う「興画合(きょうがあわせ)」に制作されたもの。江戸の好事家たちによる知的遊戯の一冊は柴田是真が口絵を、芳幾が画を担当した。当時流行していた影絵に描かれた芳幾は売り出し中の35歳。世才に長け洒落好きながら手堅い彼の性格が語られている。
右:金木年景《大蘇芳年像》明治25(1892)年 西井コレクション
兄弟子の芳幾に先立って没した芳年の死絵(追善絵)。描いたのは芳年の早い時期からの弟子で、上野戦争の取材にもついていった人物という。人気役者や著名人などの「死亡報道の号外」ともいえる死絵は、絵師のものはそれほど多くない。ましてや浮世絵が凋落の一途をたどるこの時期の刊行は、それでも衰えぬ芳年の人気を感じさせる。
赤坂の氷川神社に奉納された芳年の絵馬。このエリアを担当していた町火消しの「ま組」の面々が描かれている。明治5年には消防組改組により新たな編成となり、幟の意匠も変わっていたが、芳年は「火消し」往時の姿を偲んで描いたと思われる。背景もない姿絵ながら、威勢のよい声が聞こえてきそうな勢いが楽しくなる一作。会場ではプロローグとともに見られる。
右は芳幾と四代鳥居清忠のふたりによる看板絵を屏風仕立てにしたもの。
《英名二十八衆句》では、同じような主題を扱いながらも、すでにその表現にはそれぞれの特徴の差異を見いだすことができるだろう。
右:月岡芳年《英名二十八衆句 高倉屋助七》慶応3(1867)年 西井コレクション
主に江戸後期に上演された歌舞伎や講談などから刃傷沙汰や殺戮のシーンを集め、28枚の揃物として刊行された本作は、芳幾と芳年がそれぞれ14枚ずつ担当した。激動の時代や人びとの心理を反映してか、「血みどろ絵」、「無惨絵」と呼ばれて人気を博し、ふたりの名を一躍世に知らしめた出世作となる。
左は伊達藩のお家騒動を元にした「加賀騒動」の登場人物。奸臣に騙されて藩主を水中に暗殺するシーン。右は歌舞伎『助六』の主人公の大立ち回り後の姿。一見涼やかに見えるも生首を咥えた姿に気づいてゾッとする芳幾の作、刀はもとより血の手形もはっきりと、体のあちこちを血に染めた姿がセンセーショナルな芳年の作品、“無惨”の表現の違いを楽しみたい。
芳幾は17~18歳頃、芳年は1年遅れて12歳で国芳に入門した。国芳は50代前半。武者絵で人気を博した国芳は、歌川派では遅まきの台頭ながら、役者絵・美人画に戯画や風俗画など、幅広く活躍していた。江戸っ子気質で面倒見がよく、大の猫好きの彼のもとには、猫とともに胡散臭い人物も含めて多くの門人が集った。この師に学んだふたりは、幕末から明治初年の浮世絵師番付で早くも高いランキングを獲得し、頭角を現している。
「二人の師、国芳」では、超えるべき大きな存在としての国芳の画力と、時の為政者の規制もくぐりぬける反骨精神と発想力を確認できるだろう。
中世の絵巻にも描かれる頼光の土蜘蛛退治は、国芳が得意とした画題。こちらは、病に伏せる頼光と囲碁などに興じている四天王の姿が見えるが、圧倒的なのは、3枚続きの大きな画面いっぱいに描かれる、頼光の背後で病を操る土蜘蛛とそれに従う妖怪たちだ。刊行されたのは、天保の改革のさなか。老中水野忠邦のご政道を批判した「判じ物」として享受され、版元が慌てて絵を回収し、版木を削ったという作品。
師・国芳は、ふたりについて次のような言葉を残している。
「……芳幾は器用に任せて筆を走らせば、画に覇気なく熱血なし、芳年は覇気に富めども不器用なり、芳幾にして芳年の半分覇気あらんか、今の浮世絵師中その右に出る者なからんと、」(霞軒生「落合芳幾《明治の錦絵》」より)
国芳は弟子の気質を的確に見抜いていた。それは、のちの彼らの生き方そのものをすら予見していたともいえる。
「武者絵の国芳」と評された師に倣い、ふたりのスタートもそこからだった。
芳幾は《太平記英勇伝》において、同名の師のシリーズの作風をかなり忠実に引き継ぎながらもその後、《東京日々新聞》でジャーナリズムの世界に転身し、以後は錦絵よりも挿絵や役者の肖像画へと、その活動を移していく。
芳年は、芳幾との共作後に、上野戦争の凄惨な情景に取材した《魁題百撰相》などを手がけるが、スランプのため一時精神を病み制作を中断している。恢復後は大蘇芳年と名を改め、《芳年武者无類(ぶるい)》で武者絵のシリーズを刊行するが、画風は師を離れて独自の発展を遂げていく。錦絵へのこだわりを捨てず、描く対象を武者から歴史上の人物へと拡げながら、自身の表現を極めていく。
「国芳からの継承」では、3者の「武者絵」、「芳幾の洒落」、「芳幾の役者絵」、「芳年の歴史画」から、それぞれに師の何を継ぎ、何を革新していったのかを追う。
ここでの注目は、芳幾の《太平記英勇伝》のシリーズ全100点の展示(前後期で展示替えあり)と、芳年の《芳年武者无類》の33点の揃いの展覧会初の一堂展示だ。
豊臣秀吉の立身出世を描いた『絵本太閤記』が人気を博し、それを受けて浮世絵も多く制作されたが、幕府批判に通じることを恐れたお上によって歌麿や豊国が罰せられ、以後「武者絵」が禁じられる。この規制をかいくぐって刊行されたのが国芳のこのシリーズだ。『絵本太閤記』に登場する武将から50人を選び、時代や名前を変えて描き出す。彼らの姿は、『絵本太閤記』の挿絵を流用して描かれたという。江戸ならではの見立画、国芳ならではの反骨精神は、江戸っ子を熱狂させたことだろう。
右:落合芳幾《太平記英勇伝 明智日向守光秀》慶応3(1867)年 浅井コレクション ※展示替えあり
庶民の根強い支持に押されたか、安政6年(1859)には、絶版とされていた『絵本太閤記』の復刊が許される。浮世絵もふたたび武者絵を企画するようになり、芳幾のこのシリーズが刊行された。師の作品と同じ瓢形でタイトルも踏襲して、サイズは小さいながら100図が描かれた。会場では前後期で全点が公開され、リストもパネルで掲示されている。色も美しく残り、それぞれの武将の特徴も細やかに描かれていて、本展の見どころのひとつだ。ちなみに略伝は鏑木清方の父・山々亭有人(さんさんていありんど・條野採菊)らによる。
芳幾の《太平記英雄伝》(前期展示)。
右:月岡芳年《芳年武者旡類 源牛若丸 熊坂長範》明治16(1883)年頃 浅井コレクション
芳年は明治に入ってから4年をかけて33枚の武者絵のシリーズを刊行した。神話の代から戦国時代までの武者をセレクトしたもので、タイトルは読み通り“武者震い”を掛けている。いずれも、躍動感や緊張感に満ちた構成と感情の吐露を抑えた主人公たちの表情がみごとな対比を成し、ドラマティックでかっこいい。孤高すら感じさせるヒーローたちの姿には、現代にも通じる新しさがある。こちらは平安時代の伝説上の大盗賊と若き源義経(牛若丸)との対決シーン。
芳年の《武者无類》。
また、戯画などにも長けた国芳の洒落っ気を継ぎつつも、新しい時代の新しい表現で役者絵をものした芳幾の機転と、師のダイナミックさを踏襲しつつも、画題、表現に独自性を見いだしていく芳年の探求も対比的に浮かび上がる。
猫の顔で描かれるのは、猫の首輪のなかに書かれた歌舞伎の演目に出演する役者たち。天保の改革以降、役者を描くことも禁止された浮世絵界で、国芳は自身の好きもあってか、猫をはじめとする動物の顔にしてこの規制を逃れる意趣返しをしてのける。こちらはその師の手法を忠実に学んだ芳幾の作。
芳幾が流行りの影絵で横顔を描いた役者36名に、目録と四代目市村家橘が口上を述べている図を含めた38枚の揃物。座敷に置かれた蠟燭で障子に映った人影を、紙をあててなぞり描きしたのだそうだ。実際の影を写すという、これまでにない描き方も近代を感じさせる。
天賦の画才に、浮世絵にとどまらない当時の日本画を吸収した芳年は、独自の歴史画の世界を獲得する。こちらはそのなかでも屈指の名品。月下に奏笛を楽しむ平安貴族で笛の名手、保昌。それを大盗賊・袴垂がつけ狙うが、その隙のないたたずまいに襲撃しかねている。抑えた色調に、最小限の要素でみごとな静寂と緊張感を描き出した傑作は、明治15年の絵画共進会に出品した肉筆画を版画にしたもの。とうとう館までついていってしまった袴垂は、保昌の屋敷に招き入れられ、衣類などを渡されて、今後は追い剥ぎなどしないよう諭されたという。
左:芳幾の作品
右:芳年の作品
芳幾、芳年も浮世絵師として多色摺木版のほかに少なからぬ肉筆画を遺している。ただし、制作の事情が判っているものは少ないそうだ。
「肉筆画」では、数十年ぶりに出品される作品や、芳幾最晩年の貴重な作品を含めて、これまであまり紹介されることのなかったふたりの肉筆画が多く紹介される。
彫師、摺師の手を経た版画とは異なり、絵師の息づかいをダイレクトに感じられるこれらの作品では、ふたりの画技をより感じられるだろう。
芳幾には役者絵や美人画など、浮世絵らしい平面的で華やかなものが多く、裕福な注文主の存在を感じさせる。
芳年は、水墨の濃淡を活かし、画の周囲に空気を感じさせる奥行きのある渋い画風に、歴史的な画題のほか幽霊など、自身の興味に引き寄せている作品が多いようだ。
五節句を美人の姿に描いた風俗画。師匠ゆずりのやや吊り目のきりっとした美女たちは、武家の姫君に奥方、商家の娘に町人の母子、旅芸人と、さまざまな階層、年齢の姿で描かれる。この一枚にあらゆる美人と一年の行事を楽しめる、贅沢で楽しい一作。
哀しさを漂わせる女郎の幽霊を描いた作品は、芳年が甲州を旅した折、女郎部屋に泊まった際に実際に目にしたものだという。夜、階段を上がってくる音が聞こえるも、途中で途絶えることが続くので気になって覗くと、痩せさらばえた女が階段から手招きをしていた。この世のものと思えなかった芳年は布団をかぶって寝てしまうが、後日その部屋は、産後の肥立ちの悪かった娼妓が死んだ部屋で、その夜が一周忌だったとか。芳年の才を感じる秀作は、三遊亭円朝の幽霊画のコレクションで知られる全生庵の1点。
そもそもその始まりから、時事や時の流行を伝えるメディアとしての役割も担っていた浮世絵が、幕末の激変する社会をとらえるのは必然だっただろう。
開港して海外の人びとや文化が流入するようになった横浜は、異国情緒あふれる街として発展し、その情景が好奇と憧れを込めて「横浜絵」として描かれた。明治に入ると、東京には西洋建築や鉄道が建設され、人びとは洋装を取り入れるようになり、その風景は「開化絵」として新しいテーマとなった。また、江戸から東京へと移り変わるその変化をノスタルジックに描き出した「光線画」も新しい名所絵として愛される。美人画も当世風の衣装や容貌を反映しつつ、新時代の女性たちを描いていく。
「同時代の絵師たち」では、芳幾・芳年と世代的に近い絵師や、こうした報道の分野で活躍した絵師たちの作品に、時代の空気を感じる。
横浜絵・開化絵(上)、美人画(下左)、時事(下右)の作品(前期展示)。
独自の歴史画で人気を博した芳年は、新しい時代の美人画でも活躍し、多くのシリーズを生み出している。こちらも江戸改め東京となった12カ月の風物や名物と、当時名を知られた芸者や遊女の姿を合わせた揃物の1点。2月の梅は梅屋敷と新橋の芸者・ていを描く。前景に大きく梅樹を配し、その向こうにほっそりして鼻筋の通った女性が描かれる。浮世絵の構図を踏襲しつつも「東京」にふさわしい近代的な雰囲気をまとう。
明治に入ると、文明開化の名のもとにさまざまな新聞が刊行された。
デビュー当時から江戸の好事家たちと交流していた芳幾は、その人脈のなかで新たな事業として「東京日々新聞」の発刊が企画され、それに参画する。
さらに新聞から、美談や奇譚、あるいは煽情的、猟奇的な事件を選び、振り仮名付きのテキストとともに芳幾が錦絵を描く《東京日々新聞》大錦を刊行する。ゴシップ的な内容と読みやすい仕掛けは、一般大衆に喜ばれ、大当たりする。知識層とは異なる大衆に新聞を身近なものにしたこのアイデアは浮世絵師ならではといえ、芳幾のビジネス感覚が感じられる。
右:展示風景
自身も経営に参画した「東京日日新聞」で、芳幾は記事の内容を錦絵にして人気を博す。政治や社会的な内容というよりは、珍奇な事件を扱い、ゴシップ誌的な要素が強い。こちらは興行中の力士が火事の消火を手伝い、文明開化の象徴である電柱を守ったという美談が、リズム感のある文章とともに表される。怪異に刃傷沙汰に大捕り物まで。明治という時代を象徴する文物がちりばめられ、文章にはルビもふられ、現代のわたしたちでも読めるので、色も鮮やかな芳幾の画とともにぜひそれぞれの事件を楽しんで。
この成功は多くの追随者を生み、ライバルと目されていた芳年の起用で「郵便報知新聞」の新聞錦絵も刊行された。
「東京日日新聞」の大当たりをみて、後追いでいくつかの新聞が発行されたうち、人気を得たのがこの「郵便報知新聞」。芳年が画を担当したことも大きいのだろう。2大ライバルの人気ぶりをうかがわせる。
「新聞錦絵」は、まさにライバル対決。ふたつの新聞錦絵を、その内容とともに楽しむ。
いずれも文章は講談調のリズムのよい文体で、わたしたちでも読めるので、ぜひ気になるものは音読を意識しつつ読んでほしい。あるいはそれぞれの記事に見出しを考えるのも一興。
エピローグでは、芳年の最晩年の大作《月百姿(つきひゃくし)》に、改めて浮世絵のたどってきた道を想う。
実在、架空を問わず歴史に登場する有名無名の人物を、月にちなんだ情景に描き出した大判錦絵100枚の揃物は、芳年が8年の歳月をかけた傑作だ。完成を前に本人は没するが、死後、目録と序文を添えて画帖として刊行された。
国芳からダイナミックな武者絵を学び、無惨絵でスタートした芳年が、格闘と試行錯誤の末にたどり着いた「錦絵」の集大成ともいえる本作は、極端な西洋化の反動として起こった江戸回帰の風潮に重なる。
みごとな構図と静謐な画面に描かれる多様な人物からは、どこか諦念とも追憶ともいえるアンニュイな空気が感じられるかもしれない。
《月百姿》は、その名の通り「月」をテーマにした100枚の揃物で、明治18(1885)年から8年もの歳月をかけて取り組んだ芳年の画業の集大成といえる傑作。内容は和漢の物語、謡曲、漢詩など多岐にわたり、造詣の深さとともに選び取ったシーン、構図、要素、それぞれに芳年のセンスが光る。この女性は、鎌倉時代の武士・安達泰盛の娘・千代能。執権北条貞時の時代に一族が滅ぼされ、千代能は禅宗の高僧・無学祖元の弟子、無着と号したという。彼女が悟りを開くきっかけとなった出来事を詠む歌とともに月下にその姿が描かれる。
性格も画風も開拓した世界も、ある意味で対照的といえる芳幾と芳年。
浮世絵凋落の予兆のなか、各々の才覚で挑んだ成果は、最後のきらめきとともに激動の時代を浮かび上がらせて、時代を取り込み展開してきた「浮世絵」の力を改めて感じさせてくれるだろう。
本展は、『モーニング』(講談社)で連載中のマンガ『警視庁草紙 —風太郎明治劇場—』とコラボレーションしている。江戸から明治へ、激動の世に、治安維持のために創設された警視庁の存在を巡り、刀を捨てた剣士たちが各々過去を背負い、それぞれの想いを抱えつつ生きていく歴史ロマン。山田風太郎の原作を核に東直輝が人物を生き生きと描きだす。当時の新聞になぞらえた「講談新聞」で、背景やこの時代のトピックスが解説されて、なかなかに情報も充実している。なんと2月22日発売号から3週連続で「異聞・浮世絵草子」として、芳幾・芳年の物語が掲載され、そのキャラクターデザインとゲラの一部が展示されている。なお、この物語は現在は単行本の最新刊8巻で読める。
ショップも2大ライバル対決風。さて、あなたの軍配はどちら?
展覧会概要
「芳幾・芳年―国芳門下の2大ライバル」 三菱一号館美術館
新型コロナウイルス感染症の状況により会期、開館時間等が
変更になる場合がありますので、必ず事前に展覧会公式サイトでご確認ください。
三菱一号館美術館
会 期: 2023年2月25日(土)~ 4月9日(日)
※会期中展示替えあり
開館時間:10:00‐18:00(金曜と会期最終平日は21:00まで) 入館は閉館の30分前まで
休 館 日:会期終了までなし
観 覧 料:一般1,900円、高校・大学生1,000円、小・中学生 無料
問 合 せ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
展覧会公式サイト https://mimt.jp/ex/yoshiyoshi/