第15回 有職覚え書き

カルチャー|2022.2.21
八條忠基

季節の有職植物

●紅梅

紅梅白梅とありますが、まず紅梅から花開くようです。そこで今日ご紹介する重ね色目は「莟紅梅(つぼみこうばい)」、表紅梅色、裏蘇芳色です。

今日、「バラ色」と言えばバラの花びらの色。「すみれ色」と言えばスミレの花びらの色を指すのが普通でしょう。しかし有職文化の美意識、色彩感覚では、花びらの色だけでなく、茎や葉、萼(がく)までも、すべてをひっくるめて表現します。自然のすべてを大切にする、いかにも日本的な美意識ですね。

『女官飾抄』(一條兼良/室町中期)
「春冬の衣、いろいろ。(中略)
つぼみ紅梅。おもて紅梅、うらすはう、あをきひとへ、もえぎのうはぎ、ゑびぞめの小褂。」

『西三條装束抄』(三條西実隆/室町後期)
「衣色。
 梅。<面白。裏蘇芳。十一月至二月>。 莟紅梅。<面紅梅。裏蘇芳。>」

莟紅梅という重ね色目は、遅くとも鎌倉時代には生まれています。

『とはずがたり』(後深草院二條)
「(文永八[1271]年新春)呉竹の一夜に春の立つ霞、今朝しも待ち出で顔に花を折り、匂ひを争ひてなみゐたれば、われも人なみなみにさし出でたり。莟紅梅にやあらん七つに、紅の袿、萌黄の表着、赤色の唐衣などにてありしやらん。梅唐草を浮き織りたる二つ小袖に、唐垣に梅を縫ひて侍りしをぞ着たりし。」

『北山院御入内記』(一條経嗣/1407年)
「三條殿。<弁の入道すけもちの御むすめ>。
 つぼみこうばいの五絹。あをきひとへ。もえぎのうはぎ。からぎぬ。も。うちぎぬ。はかま。さきにおなじ。」

「つぼみ紅梅」は、花の色と萼の色。百聞は一見にしかず。写真を御覧あれ。

つぼみ紅梅

●椿

ツバキ(椿、海石榴、学名:Camellia japonica)は学名に「ヤポニカ」とあるように日本原産。遣隋使が隋の煬帝にツバキを献上したところ大いにお気に召し、「海外から来たザクロ(石榴)」ということで、ツバキに「海石榴」という漢字を当てたという「伝説」があります。中国には「椿」という植物がありましたが、これはセンダン科の植物チャンチン(香椿、学名:Toona sinensis)で、ツバキとは関係ありません。

たしかにツバキの果実は、見ようによっては、ザクロっぽく見えないことはないですが、サイズがまるで違います。また生食用の果実ではありません。ツバキの果実の用途は「ツバキ油」の原料です。

『続日本紀』
「宝亀八年(777)五月癸酉《廿三》。渤海使史都蒙等帰蕃。以大学少允正六位上高麗朝臣殿継為送使。(中略)故造舟差使。送至本郷。并附絹五十疋。(中略)加附黄金小一百両。水銀大一百両。金漆一缶。漆一缶。海石榴油一缶。水精念珠四貫。檳榔扇十枝。至宜領之。夏景炎熱。」

渤海国からの使者が帰国するに際して、さまざまなお土産が贈られていますが、日本の特産品が列挙されています。その中に「海石榴油」がありますね。このツバキ油は、主に中国地方や九州から「中男作物」という租税として収められました。たとえば……。

『延喜式』(主計)
「周防国<行程上十九日。下十日。> 調。短席六百卅枚。自余輸綿。塩。 庸。輸綿。米。 中男作物。紙。茜。黄蘗皮。海石榴油。胡麻油。煮塩年魚。鯖。比志古鰯。 (中略) 筑後国<行程一日> 調。綿紬十八疋。貲布卅二端。自余輸絹。糸。綿。布。 庸。輸綿。米。 中男作物。穀皮。席。防壁。苫。薦。蒲薦。簀。漆。胡麻油。海石榴油。荏油。槾椒油。醤鮒。雑魚楚割。雑腊。押年魚。煮塩年魚。鮨年魚。漬塩年魚。鮨鮒。」

ちなみに、行程は輸送にかかる標準日数です。周防国(山口県)から京都まで、上り19日、下り10日かかるのに、さらに遠い筑後国(福岡県南部)が「行程一日」とは、これいかに。……それは九州諸国については、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれた太宰府に貢納することになっており、太宰府までの日数ということなのです。

ツバキには油の他にも様々な利用法がありましたが、重要なものとしては染色に使う媒染剤。ツバキの灰を用いました。アルミニウム成分を含んでおり、きれいな発色をするそうです。

『延喜式』(図書)
「凡年料染造紙花二百六十八筥。(中略)紅花大四斤<三斤染紙二百張料。一斤支子下染料>。黄蘗大五斤<三斤染紙二百張料。二斤藍下染料>。(中略)酢六升五合。綿小三両。藁三囲。椿灰一斗三升。(後略)」

これは様々な色用紙を染めるときの材料表。「図書寮」は文房具の製造・配布が重要な仕事でしたし、用途に応じて紙の色が決まっていたのです。たとえば除目(官職任命書)に用いる紙はブルーの藍染めの紙でした。ツバキが媒染剤になることに関連しての、有名な歌があります。

『万葉集』
「紫は 灰さすものそ椿市の
  八十の衢に 逢へる児や誰」

奈良県桜井市三輪付近に「つばいち」と呼ばれる場所があり、市が立って非常に賑わっていました。「紫は灰さすものそ」は、媒染剤としてのツバキと「つばいち」を引っかけた歌、というもの。引っかけた言葉で女の子を引っかけようとする歌です(笑)。

「椿市の 八十の衢に立ち平し
  結びし紐を 解かまく惜しも」

このように、椿市は「八十の衢(やそのちまた)」とも称される交通の要衝、全国一の大繁華街。今で言うと銀座四丁目か渋谷スクランブル交差点か。ともあれ「出会いの場」として重要なポイントだったのです。 もちろん「出会いの場」と言っても男女の出会いだけでなく、こんな公式なものも。

『日本書紀』
「推古天皇十六年(608)八月癸卯《三》。秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告礼辞焉。」

『扶桑略記』
「推古天皇十六年。秋八月、大隋使客入京。詔遣餝騎七十五疋、迎椿市之街。太子微服而看。」

大和川から遡ってきた隋国からの使者を椿市で出迎えており、聖徳太子がお忍び姿でそれを見ています。そんな場所でもあったのですね。ともあれ「出会いの場といえば椿市」というのがお約束だったようです。

『源氏物語』(玉鬘)
「椿市といふ所に、四日といふ巳の時ばかりに、生ける心地もせで、行き着きたまへり。」

玉鬘が、長谷寺参詣の折に、椿市で右近(元夕顔の侍女。現在は源氏に仕える)と再会するシーンです。この「つばいち」についての解説。

『河海抄』(四辻善成/南北朝時代)
「つはいちといふ所に 椿市 大和国名所也。つはきのいちよもつはいちともいふ。能因哥枕にみえたり。日本紀に海石榴市といへるは別所也。つはきのいちにて土蜘蛛をうちころしたりし所也」

あらら。『日本書紀』などに書かれる「つばいち」とは別の場所だそうです。土蜘蛛云々については謎が多く、不詳。古来様々な説があるようです。ともあれ、賑わいと言えば椿市(海石榴市)。長谷寺の参詣客が多く集まりました。

『蜻蛉日記』(968年)
「けふも寺めく所に泊りて、又の日は椿市といふ所に泊る。又の日、霜のいと白きに、詣でもし帰りもするなめり、脛を布の端して引きめぐらかしたる者ども、ありき違ひ騒ぐめり。蔀さし上げたる所に、宿りて、湯沸かしなどする程に、見れば、さまざまなる人の行き違ふ、おのがじしは思ふことこそはあらめと見ゆ。」

『枕草子』
「海石榴市、大和にあまたあるなかに、長谷にまうづる人のかならずそこに泊るは、観音の縁のあるにやと、心異なり。」

『小右記』(藤原実資)
「正暦元年(990)九月八日 寅剋許従此寺歩行参長谷寺、於途中朝食、午終到椿市、令交易御明灯心器等。」

様々な品を売るショッピングセンターだったようです。

次回の配信は、3月7日予定です。

椿

八條忠基

綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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