第10回 有職覚え書き

カルチャー|2021.12.6
八條忠基

●季節の有職ばなし

●浄衣(じょうえ)

「浄衣」という装束があります。現在では神社の神職さんが着る、白い狩衣のことを意味しますが、本来は狩衣とは異なる、一般人が神事に参加するときの白装束でした。特に山岳信仰の場で多く用いられました。

『西三條装束抄』
「浄衣 絹布両様ナリ。仙洞着御ハ諸社ノ遥拝、熊野御幸ノ神事ナドアリ。武家ノ例ハ八幡参詣、其外諸社参詣等ニ見エタリ。摂関、諸家、清花是ニ同ジ。(中略)摂家、正和三年(1314)十二月十九日、後福光園院摂政(二条良基)ノ記ニ云、神木六條殿ニ入御、仍テ浄衣ヲ着テ、中門ノ切妻ニ下リテ、六條殿ノ方ヲ拝ス、両段再拝ト云々。」

神木に対する拝礼をするに際して浄衣を着た、というのです。浄衣は、現在も神道・仏教それぞれで用いられている衣服です。「清浄な衣」という表現ですから、必ずしも一定の形式を示したものではなかったようです。古い時代の記録では、僧侶、仏事関係の衣類としての記述が多いです。

『延喜式』(主殿寮)
「正月最勝王経斎会料。(中略)調布二端<供奉官人一人。史生一人。殿部二人浄衣料>。」

『源氏物語』(夕霧)
「この君は、いとかしこう、さりげなくて聞こえ馴れたまひにためり。修法などせさせたまふと聞きて、僧の布施、浄衣などやうの、こまかなるものをさへたてまつれたまふ。」

『続古事談』(鎌倉初期)
「浄行の寺僧三人に浄衣をたびて、帳の中にいれて、からげたる布をときてみるに、厨子あへて破損なし。」

そして、こんな記述も。

『延喜式』(図書寮)
「凡写年料仁王経十九部。(中略)書手七人。日写七張。装潢手一人。校生一人<日校廿張。再校>。各給浄衣絁四丈<汗衫并褌料>。」

写経の職方さんたちに支給する「浄衣絁」ですが、汗取り下着とフンドシ用だというのです。こういうのも写経ならば「浄衣」と呼んだのでしょうねぇ。でも、くだんの二条良基の浄衣はフンドシではなく(笑)、狩衣形式の衣類です。

『装束雑事抄』(高倉永行・1399年)
「浄衣事 <布六丈。上下之分>。
白布こはごはと調ず。上は布衣に同じ。但両方の袂を前へ一寸づつぬひこす。はた袖のはしをば内へ折て縫なり。其外はひねり。前後のすそをひねらず。袖のくゝり白すゞしのまろぐみ。つゆばかり入也。十五歳までは白生平絹をさす。或は白糸くゝりも用之。此時ははた袖はしぬはず。ひねるなり。五だんに入。かり衣のごとし。」

現在、神社で見られる浄衣は「無文の白狩衣」に過ぎない形式ですが、古式の浄衣は「両方の袂を前へ一寸づつぬひこす」、つまり狩衣では割れている肩を、3センチほど前まで縫い合わせる、というのです。また、「袖のくゝり白すゞしのまろぐみ。つゆばかり入也」とあり、袖括りの紐は外には見せず、露先(先端の余り)だけ外に見せるのだ、というのです。

『連阿口伝抄』(高倉永綱・1366年)
「浄衣事。(中略)狩衣ヨリツゝシクスベシ。ハタ袖ハ一寸ヲトルナリ。」

狩衣より小さく仕立て、袖は3センチほど短くする、とあります。上皇も石清水八幡宮や金峯山詣でなどに際して、浄衣を着ました。

『後深草天皇御記』
「弘長三年(1263)正月十九日。上皇御幸石清水宮。七箇日可有御参籠也。朕参御共。辰刻沐浴了。着浄衣。」

『後伏見天皇御記』
「延慶三年(1310)十月六日。己酉。晴。今日余参八幡宮。故有存旨。今度遂此参詣也。前権中納言俊光所申沙汰也。凡当宮参。至今度三ケ度也。去今両年正月参。皆是奉相伴上皇臨幸。於今度一身参初度也。仍粗追寛元四年初度浄衣御幸例也。(中略)及微明着浄衣<布浄衣。白綾衣。不重単。経康、永忠等奉仕之>。」

それにしましても、清浄を好む白の衣類は汚れがち。

『徒然草』
「八幡の御幸に、供奉の人、浄衣を着て、手にて炭をさゝれければ、或有職の人、『白き物を着たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず』と申されけり。」

白い服の時は、炭を扱うのに素手ではなく火箸を使っても良い、と。こういう「可依便(びんによるべし)」を主張する人こそ、「有職の人」です。

画像は、『春日権現験記』(写本・国立国会図書館デジタルコレクション)における浄衣姿の公卿たち。肩が狩衣のように切れていないことがわかります。

『春日権現験記』(写本・国立国会図書館デジタルコレクション)

●朔旦冬至(さくたんとうじ)

よく「新暦は太陽暦で旧暦は太陰暦」という方がおいでですが、それは間違い。旧暦は「太陰太陽暦」で、太陽の周年運行と月の満ち欠けを基準とした日付を組み合わせて暦を編んだ、非常に複雑な暦です。

太陽の運行は365日/1年ですが、月の満ち欠け周期をもって1か月を計算して12倍すると354日。その差11日。放っておくと毎年11日ずつ日付と季節がずれていってしまいます。そこで暦学者が計算した結果、19年に7回「閏月」を入れてその年を13か月にすることで、調整していたのです。ここで19年周期ということが大切になってくるわけです。この1周期19年を「1章」という単位で表します。

そうなりますと、1章の始まりは19年に一度の大イベントということになって、こりゃぁ御祝いしないわけにはいかないじゃないですか(笑)。そして計算上、11月1日(朔日)に冬至が来る年を1章の始まりと位置づけ、その冬至、つまり「朔旦冬至」を盛大に祝いました。当然宴会(節会)つきです。

『世諺問答』(一條兼良・室町後期)
「問て云、此月とうじと申事の侍るは、何のゆへに侍ぞや。
答、白虎通に、周の世には、十一月を正月とす。これを暦家に天正月といふ。殷の世には、十二月を正月とす。(中略)人正月といへり。十一月は陽はじめて生る月なれば、冬至の日より、日かげのながくなると申也。陰陽道の暦数をかんがへて、十一月に奉るなり。朔旦冬至と申は、十一月一日の冬至に、廿年に一度づゝまはるを申なり。いとめでたき祥瑞なれば、異国にも我朝にも、御門賀辞をうけ給なり。誠に目出度事にて侍る也。」

『続日本紀』
「延暦三年(784)十一月戊戌朔、勅曰。十一月朔旦冬至者、是歴代之希遇、而王者之休祥也。朕之不徳、得値於今、思行慶賞、共悦嘉辰、公卿已下宜加賞賜、京畿当年田租、並免之。」

さて装束のお話。

『世俗浅深秘抄』(後鳥羽上皇・鎌倉初期)
「朔旦冬至節会。着小忌如弁少納言。立叙列事不同也。如小野右府記。改着位袍事不可然由注之歟。内弁外諸役着小忌奉仕無妨。」

係官の少納言は小忌衣(おみごろも)ですから「神事」の扱いです。「朔旦冬至」を考えた方は中国由来のものですが、新嘗祭は冬至から新年を祝う祭ではないかという説があります。これら冬至関連の行事は、中国文明・仏教伝来以前の上古大和民族の習俗として、神事の位置づけであったように思えます。

冬至の夜は柚子湯に入ります。柚子湯は江戸時代後期、銭湯から始まった風習で、「冬至」と「湯治」を掛けた、とも言われます。

『東都歳事記』(斎藤月岑・1838年)
「冬至(中略)今夜太神楽来る。今日諸人餅を製し、家人奴僕にも与へて、陽復を賀す。又来年の略暦を封じて守とす。今日銭湯風呂屋にて、柚湯を焚く。」

柚子は一陽来復のお天道様を表しているからとも、「金融通」に通じるなど諸説あり。

柚子

●窠(か)の幕

宮内庁楽部を始め、雅楽の演奏会に参りますと背景に「楽所幕(がくそまく)」と呼ばれる幕が張られています。正式に言えば「幕」ではなく「幔(まん)」ですが、黒と朱を縦方向に繋ぎ、白で木瓜(もっこう)文を摺りだしたものです。木瓜文は「窠(か)」が正式名称なので、楽部では「窠の幕」と呼ばれているそうです。

木瓜文は古くからある代表的な有職文様の一つですが、織田信長の用いた紋章としても有名。そこで楽所幕も織田信長由来であるという説があります。夏目漱石の小説『行人』(1913年)に、この織田信長由来説が紹介されています。主人公・長野二郎が友人・三沢に誘われて「富士見町の雅楽稽古所」に行ったときのことです。

「自分から一席置いて隣の二人連は、舞台の正面にかかっている幕の話をしていた。それには雅楽に何の縁故もなさそうに見える変な紋が、竪に何行も染め出されていた。
『あれが織田信長の紋ですよ。信長が王室の式微を慨いて、あの幕を献上したというのが始まりで、それから以後は必ずあの木瓜の紋の付いた幕を張る事になってるんだそうです』
 幕の上下は紫地に金の唐草の模様を置いた縁で包んであった。」

この話は一人歩きして定説にすらなろうとしていますが、どうでしょう。文献的な根拠はなにもありません。織田信長が経済的に疲弊した皇室を援助したことは史実です。雅楽の復興に尽力したかどうかわかりませんが、なんとなくありうる話だと思ってしまいます。

しかし。
木瓜文は有職文様で、古くからありました。延慶二(1309)年、西園寺公衡が春日大社に奉納した『春日権現験記絵巻』の雅楽・舞楽の場面において、すでに木瓜文のある楽所幕が張られているのが見て取れます。鎌倉時代に描かれた絵にすでに登場しているという一事をもってしても、「織田信長から始まった」説が眉唾モノであることがおわかりになるでしょう。

次回配信日は、12月20日です。

『春日権現験記』(写本・国立国会図書館デジタルコレクション)

八條忠基

綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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