第2回【画期】
Bunkamuraのモーツァルト

カルチャー|2023.12.4
文=林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家)
PR:株式会社東急文化村

複合文化施設としてのBunkamuraは、音楽のみならず演劇、舞踊、美術、映画などさまざまなジャンルが共存し影響し合うエキサイティングな場所であり続けた。1989年のオープニング以来の歩みを振り返ってみると、ある事実がおのずと浮かび上がってくる――Bunkamuraは常に、国際的に最先端を行くモーツァルト作品上演の発信地でもあったのだ。
そもそもモーツァルトは、田舎の大司教の街ザルツブルクを抜け出して、神聖ローマ帝国の大都会ウィーンで成功を夢見る若者であった。若者の街・渋谷の象徴でもあるBunkamuraにとって、大衆性と革新性を兼ね備えたモーツァルトの作品は相性がいい。自らの才能によって時代を切り拓き、自由と愛を謳歌する音楽の王国を築こうとしたモーツァルトの作品が、Bunkamuraでどのように新しい生命を得て輝いたのかを検証してみよう。

あらゆる意味で原点だった、Bunkamuraオペラ劇場・日中合作『魔笛 まほうのふえ』

完成して間もない真新しいオーチャードホールにたくさんの人が詰めかけ、期待に胸を膨らませて幕が開くのを待っていたあの日のことを、今も鮮明に思い出す。
1989年12月9日土曜日。会場が暗くなり、オーケストラピットに指揮者が入ってくる。Bunkamuraにとって大切な、最初の本格的な自主制作オペラ公演を任されたのは、まだ29歳の大野和士だった。
本稿を書くために、貴重な記録映像を提供してもらい、改めて当時の上演を観て驚いた。東京フィルから紡ぎ出されるモーツァルトの響きの何と堂々として素晴らしいことだろう。第1幕のタミーノのアリア『何と美しい絵姿』からして、歌のあとに続く後奏の余韻まで考え抜かれた、見事な演奏。いま新国立劇場オペラ芸術監督として辣腕を振るう世界的指揮者・大野和士と基本的に全く変わらないのだ!
ああ、大野さんの音楽は最初からこうだったのか――。
改めて思う。当時のBunkamuraはよくぞ、こんなにも若い指揮者に重大な責任あるオペラを任せたものだと。むろん、大野の才能を信じることのできた先見の明があったからこそだろう。

物語の舞台をアジアとした斬新なコンセプトで新しく生まれ変わったBunkamuraオペラ劇場『魔笛 まほうのふえ』。

佐藤信の演出(周仲春との共同による)は、今観ても緻密で考え抜かれた、完成度の高いものであった。68/71黒色テント(当時)を率いる劇作家・演出家として、当時の佐藤は小劇場演劇のヒーローの一人であったが、架空の国を舞台にしたおとぎ話として書かれた民衆的な歌芝居のオペラ『魔笛』に、「アジア」というコンセプトを持ち込み日中合作とすることで、まったく新しいリアリティを獲得したのである。
タミーノは日本の狩衣を着た皇子だが、他のすべてのキャラクターは中国人。パパゲーノは頭に傘の帽子をかぶり、黄と青の衣装は南方系の庶民のようだ。
あとは全員、京劇風の派手なメイクをしている。夜の女王はトゥーランドットもかくやと思わせる華麗な女帝。夜の女王とタミーノが手を取り合うと、古代の中国と日本が友好関係を結んだように見えてくるから面白い。本来あるべきアジアの連帯の幻想が感じられてくるような舞台なのだ。
3人の少年は、頭におだんごを二つ作るように髪を結い、両側に長く垂らしている。パミーナは中国の絵に描かれたように美しい姫。ザラストロは仰々しい冠をかぶった賢い皇帝。側近たちは特権的知識階級。弁者は長いひげをたくわえた白髪の長老。その他大勢の家来たちは一糸乱れぬ隊列を作って無表情。刑罰を受けるモノスタトスとその一味は表情豊かで、ターバンを巻いた遊牧民族系。このあたり、多民族国家としての中国を思わせて、カラフルによくできていた。
初年度のキャストはドイツ語版と日本語版の二種。私が観た記録映像は日本語版だったが、シカネーダーの原作台本に忠実ながらもセリフに工夫が見られたのも面白かった。
「王子様が私のことを好きになったの? 好きって素敵な言葉ね。なんだか心が温かくなる」(パミーナ)
タミーノが笛を吹き始めると、さまざまな動物たちがその響きにつられて現れてくるシーンでは、この動物たちを京劇の役者たちが演じ、アクロバット的な踊りを披露する。装置の転換時に出てくる人々は、昔のヨーロッパ人のかつらと衣装で登場。最後の火と水の試練を潜り抜けた際、パミーナが気を失いかけてタミーノがそれを抱きとめるあたりも演技が細かい。

さまざまな衣装で登場する人物たちに民族を超えた日中合作らしい演出、アジアの連帯を想起させられる。

公演プログラム冊子での対談で、佐藤信は次のように述べている。
「ザラストロの国を、ずっとザラストロ自身が不完全であると思っているような感じにできれば、と思っているんです。(中略)それをタミーノによって越えてもらいたい、と思っていると。僕は火と水の試練をすごく重要だと思っているんですけど、要するにあそこを通過した人間というのはそうはいないのではないでしょうか。もしかしたらザラストロ自身さえ、あの試練を越えていないかもしれない」
かつて『魔笛』に関しては、シカネーダーの書いた台本は矛盾だらけなのにモーツァルトの音楽は美しい、だから音楽だけ目をつぶって聴いていればいい、などということがまことしやかに言われた時代があった。ある著名な日本の指揮者は、『魔笛』の聖なる天上の音楽に比肩できる演出など金輪際できるはずがないと断言していた。
しかしこのBunkamuraオペラ劇場『魔笛 まほうのふえ』は、アジアという舞台設定によってモーツァルトをぐっと自分たちのものとして近づけながら、テキストを面白いものとして素直に受け止め、人間味のある温かい視線で深く読み解こうとする点において、画期的な試みであった。
Bunkamuraオペラ劇場『魔笛 まほうのふえ』は、膨大な労力をかけて作り上げた舞台を使い捨てにしないで、3年間は育てていく方針のもと作られた。しかも中国の舞台芸術家との共同作業であった。それまでの日本のオペラ上演にはなかったことである。
1991年5月には日本の無償供与によって北京市に建設された「日中青年交流センター」の「世紀劇院」の落成記念公演として中国公演を果たし、同年11月にはオーチャードホールでの再演、さらに1992年10~11月には最終公演がおこなわれた。指揮はニール・バローン、上演スタイルは原語上演字幕付きに統一された。熟成を深めた舞台はいまもなお人々の記憶に残っている。

1991年『魔笛 まほうのふえ』中国公演の様子。

夏の終わりの新しい試みとして始まった「モーストリーモーツァルトフェスティバル」

1990年8月、Bunkamuraはニューヨークのリンカーン・センターと姉妹提携を結んだ。複合文化施設としてのコンセプトの共通性がその大きな理由である。
ニューヨークのマンハッタン北西部に建設されたリンカーン・センターは、メトロポリタン・オペラ、ニューヨーク・フィル、ジュリアード音楽院、ニューヨーク・シティ・バレエ、ニューヨーク・シティ・オペラ(当時)など11の構成団体から成り、いわばニューヨークの芸術文化の心臓部といえる。
そこで1966年以来毎夏開催されて市民や観光客にカジュアルな雰囲気で親しまれてきた「モーストリーモーツァルトフェスティバル」が、1991年から99年まで9回にわたってオーチャードホールでも開催されたのである。

モーツァルトの作品と関連する作曲家の作品を上演する「モーストリーモーツァルトフェスティバル」。1991年公演の様子。
©林喜代種
ジェラード・シュワルツ(指揮)とチェチーリア・バルトリ(メゾソプラノ)
©林喜代種

ほとんどモーツァルトの作品で占められながらも、関連する作曲家の作品も巧妙に組み合わせてプログラミングし、内外の一流演奏家たちが大勢参加して1週間前後、連日コンサートがおこなわれた。
今振り返ってみると、歴代の来日メンバーは大変な豪華さであった。
目についたところだけでも、チェチーリア・バルトリ(メゾソプラノ)、スミ・ジョー(ソプラノ)、ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)、ルドルフ・フィルクスニー(ピアノ)、イングリット・へブラー(ピアノ)、エレーヌ・グリモー(ピアノ)、ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ(ヴァイオリン)、バリー・タックウェル(ホルン)、リチャード・ストルツマン(クラリネット)、ジャン=ピエール・ランパル(フルート)など、錚々たる顔ぶれである。
オーケストラはニューヨークから祝祭管弦楽団が招聘され、才人として知られる指揮者ジェラード・シュワルツが現地と同じく音楽監督をつとめた。
曲目は、モーツァルトのコンサート・アリアを、ピアノ協奏曲や交響曲とセットにしたり、ハイドンやシューベルトをモーツァルトと交互に演奏したり、室内楽やソナタも大切にしたり、創意工夫にあふれた内容。毎年必ず声楽家がやってきて、オペラの要素が盛り込まれたのも特徴的であった。
1980年代までは、2月と8月はコンサートの少ない月になるというのが、日本のクラシック業界の常識であった。ゴールデンウィークや年末年始も同様。いまのように年がら年中コンサートがおこなわれるようになったのは、そんなに昔のことではない。そうした中で、夏の終わりという比較的オフの時期に、カジュアルなコンサートを連日やってみようというのは、当時としては斬新な試みであった。Bunkamura「モーストリーモーツァルトフェスティバル」の9年間の継続はある意味、2005年から東京国際フォーラムで始まった「ラ・フォル・ジュルネ」に先駆けていたかもしれない。

洗練の極みだった、エクサンプロヴァンス国際音楽祭『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』

オペラは音楽だけでなく、真の演劇として高められたものでなければならない。どちらが優先ということではなく、両者が融合してさらに次元の高い芸術的表現をめざすべきである――この考えは国際的潮流となっている。
そうした中で、Bunkamuraが南仏のエクサンプロヴァンス国際音楽祭のモーツァルトの二つのオペラ、『ドン・ジョヴァンニ』(ピーター・ブルック演出[マリ=エレーヌ・エチエンヌとの共同による]、ダニエル・ハーディング指揮)を1999年1月に、『フィガロの結婚』(リチャード・エア演出、マルク・ミンコフスキ指揮)を2002年9月に招聘したのは画期的なことであった。
有名なスター歌手の名前に頼ることなく、ヨーロッパのオペラシーンの最先端として知る人ぞ知る存在だったこの音楽祭のプロダクションを呼んだのは、いかにもBunkamuraらしい慧眼と実行力の賜物である。

初来日のダニエル・ハーディングが指揮をした1999年『ドン・ジョヴァンニ』。のちにハーディングは新日本フィルと密接な関係を結ぶこととなる。
©谷古宇正彦

『ドン・ジョヴァンニ』の指揮者は初来日のダニエル・ハーディング。サイモン・ラトルとクラウディオ・アバドの秘蔵っ子であり、弱冠21歳でベルリン・フィルを指揮したこの若者の天才ぶりは、かねて知られてはいた。だが実際にオーチャードホールで彼が棒を振り下ろしたときの驚きは今も忘れがたい。あれほどダイナミックに思い切った速いテンポで駆け抜けるモーツァルト。強引さはまったくなく、竹を割ったような思い切りの良さが快い。音楽が進んでいくにつれてじわじわと伝わってくる深い説得力。マーラー・チェンバー・オーケストラの古楽を思わせるフレッシュな響きともども、この若者の実力が並大抵でないことは明白だった。のちにハーディングは新日本フィルと密接な関係を結ぶようになるが、彼の日本との最初の縁はここにあった。
何よりも演劇界の大御所ピーター・ブルックの演出の見事さ! 簡素な舞台は『マハーバーラタ』や『テンペスト』で知られるこれまでの作品と同じ。まるでリハーサルのようにベンチと板と長い棒だけで、衣装も普段着の延長線上にあるようなシンプルさ。だが、人物同士の関係性と動きに着目するならば、そこから何と無限の意味を読み取ることができただろう。
筆者の目に焼き付いているシーンは、第2幕の有名なドンナ・アンナの大アリア。その前は墓場のシーンで舞台中央には騎士長の石像が建っていたのだが、娘のドンナ・アンナが登場すると、彼は背景にひっそりと下がってゆく。歌が始まり、上手へ退場していくと思いきや、騎士長はアリアの途中で歩みを静かに正面に向かって変えたのだ! すでにあの世へと旅立っているはずの父が、娘のことをまだ思いやっているのではないか? 父は静かに舞台前面に出てくると、歌っている娘の前をゆっくりと横切る。あのアリアを歌っている間、ドンナ・アンナの心にあるのはドン・ジョヴァンニによって悲しい最期を遂げた優しいお父さんのことだった――。亡父はアリアの終わりになると静かに再び去っていく。次の人生へと歩み出しなさい、と娘に言ってくれているかのように。あの世とこの世を結び付けるあの演出は、オペラのト書きにはないものだったが、あたかも日本の能のように最小限の動きでドラマに最大限のダイナミズムを与える、洗練の極みだった。

リチャード・エアが演出した『フィガロの結婚』は、伯爵の館でのおしゃれな恋模様がエレガントに表現され、官能的な雰囲気に満ちていた。
©木之下晃

『フィガロの結婚』はフランス・バロックを中心とする活躍で頭角をあらわしていた気鋭の指揮者マルク・ミンコフスキの初来日公演でもあった。いまでこそ古楽という枠を超えて高い人気と実力を誇るミンコフスキだが、彼をいち早く日本に呼んだのはやはりBunkamuraであった。
2002年年末に、ある音楽雑誌の年間ベスト・コンサートを問うアンケートに答えて、筆者は断固としてミンコフスキの初来日としてのエクサンプロヴァンス国際音楽祭『フィガロの結婚』を挙げた。それくらい、このときマーラー・チェンバー・オーケストラを率いたミンコフスキは素晴らしかった。退屈とは無縁なみずみずしさ。生き生きとしたダイナミックな力、革命の国フランスを思わせる自由な実験と遊びの精神。いまでは東京都交響楽団やオーケストラ・アンサンブル金沢と密接な関係を持つミンコフスキと日本との出会いはここに始まっている。
この『フィガロの結婚』は、イギリスの演劇界で実績を誇る演出家リチャード・エアのオペラ演出第2作でもあった。
時代設定は1930年代のヨーロッパ。黒を基調としたモダンで古きよき時代の香りを感じさせるあの舞台は、エレガントで官能的な雰囲気に満ちていた。オペラがあれほどまでにセクシーでおしゃれなものになったことはかつてなかったと言っていいくらい。
第4幕の冒頭、庭師の娘バルバリーナが歌うカヴァティーナ『なくしてしまった』の背景には満天の星が輝いていたのは今も忘れられない。誰しもが息を呑んだことだろう。いったい彼女は何をなくしたのか? 心の中の一番大切なもの? 星空の中に浮かぶ一人の少女のイメージ。涙に濡れたようなモーツァルトの短調の響きにあれほど似つかわしい、詩のような瞬間を視覚化した舞台があっただろうか。

常識を覆す現代的な上演だった、シュトゥットガルト歌劇場「魔笛」

シュトゥットガルト歌劇場来日公演、当時のチラシ。刺激的な演出の『魔笛』は賛否両論、大きな話題となった。

もう一つ、Bunkamuraが日本に紹介してくれた最先端のモーツァルトとして挙げておきたいのが、2006年2月におこなわれた、シュトゥットガルト歌劇場来日公演の『魔笛』(ペーター・コンヴィチュニー演出、ローター・ツァグロゼク指揮)。
海外のオペラ事情に詳しい人たちの間で、シュトゥットガルト歌劇場の充実ぶりはかねて話題となっていた。ドイツにおける「年間最優秀歌劇場」に何度も選ばれてきた彼らのプロダクションをBunkamuraが招聘してくれたのは、ありがたいことだった。
当時音楽総監督の座にあったツァグロゼクと、現代のドイツを代表する鬼才演出家コンヴィチュニーは、オペラに対して極めて知的で大胆な取り組みをおこなってきたコンビ。その後コンヴィチュニーは何度も日本を訪れて、二期会のオペラでも見事な舞台を制作しているが、その前哨戦となったのがこの『魔笛』だった。
あのときの衝撃と愉快さ! 何割かの人々は憤慨していた。ザラストロは新興宗教の教祖、夜の女王は飲んだくれ、タミーノは頼りない普通の青年、パパゲーノは下品なオヤジ、パミーナは不良娘、こんな滅茶苦茶な、夢もメルヘンもない『魔笛』は、刺激的ではあっても「初心者には勧められない」という評論家も多かった。しかし、筆者はこの『魔笛』を音楽的にも何の不自然さもない、むしろ誠実に作られたものだと思った。
第1幕の終わりで、ザラストロが「女とは愚かなものだから男が導いてやらなければならない」と説教じみて歌うところで、通常の上演ではしおらしくしているパミーナが、けたたましく笑って「ペッ」と唾を吐いたシーン。あのとき、心の中で快哉を叫びたくなった人はきっといたはずだ。
黒い革のミニスカートを穿いた、尖った不良な感じのファッションのパミーナだったが、心の清純な娘を描くときに、外見をわざとそのようにする演出には共感できた。現代人にとってモーツァルトをより真実味のあるドラマとして描こうとしたときに、そのようなやり方があってもいい。これもまたオペラの魅力の一つだし、それが渋谷の街にあるBunkamuraで上演されたからこそ、いっそうふさわしいものであった。
コンヴィチュニーは公演プログラム冊子の中でこう語っている。
「世界はモーツァルトの時代から変わり、さまざまな対立がさらに先鋭化している。(中略)今や、我々の人生を本来よりよきものにする、ありとあらゆる人間的な衝動が、制度のなかに取りこまれることで、失われてゆく危険にさらされていると思う」
そう、あの『魔笛』は、モーツァルトのオペラのなかに存在する、そうした「人間的な衝動」の表れを可視化させてくれる舞台だった。

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