失われつつある昭和の名ビル
2020年に予定されていた東京オリンピック前後、そしてコロナ禍となってからも都心の再開発の勢いは止まるところを知りません。これを東京の活力と見るべきなのか。しかしそこで失われていくのは昭和の街並みです。
1960-70年代の高度経済成長時代、日本の建築家やスーパーゼネコンは大いなる躍進を遂げ、世界的な名声を得ていきましたが、その時代に建設された築50年前後の建物が、今、続々と解体されています。
近年すでに解体されたものには、銀座のソニービル、虎ノ門のホテルオークラ旧本館・別館、黒川紀章設計のメタボリズム建築を代表する作品・中銀カプセルタワービル、丹下健三設計の旧電通本社ビル、浜松町の世界貿易センタービルなどがあります。
東京が都市として新陳代謝していくため再開発は仕方のないことと思いながら、私が子どもの頃から親しんできた建築や風景が失われていくことには悲しさと残念さを感じざるを得ません。
そんなことで、失われていく昭和戦後の建物を哀惜し、それらの建築史的価値、建物の味わい深さを解体前に多くの人たちに知っていただきたいと、この企画を思い立ちました。
連載第8回は、モダニズム建築の巨匠・前川國男が設計した世田谷区庁舎を取材しました。
世田谷区庁舎
住所 第一庁舎 東京都世田谷区世田谷4-21-27
第二庁舎 東京都世田谷区世田谷4-22-35
竣工 第一庁舎 1960年
第二庁舎 1969年
設計 第一庁舎、第二庁舎とも前川國男
施工 第一庁舎、第二庁舎とも大成建設
右・2階回廊の床。区民会館との間をつなぐピロティ横にあった階段(既に解体)から、第一庁舎の2階への入口があり、そこへとつながっていた部分
前川國男設計の建築群
東京・世田谷区の区庁舎は戦後モダニズム建築の巨匠・前川國男の作品。現在、その庁舎を解体・再開発して新庁舎の整備工事が進んでいます。
新しい庁舎の設計案は、2017年に行われたプロポーザルで選ばれた佐藤総合計画によるもので、前川國男設計の第一庁舎(1960年築)、第二庁舎(1969年築)などを解体して建て替え、隣接する、やはり前川の設計による世田谷区民会館(1959年築)を部分保存しながら全体として新庁舎を整備するという計画です。
その工事現場を見に行ってみると、現在、新庁舎の第1期工事と区民会館の部分保存の工事が進行中ですが、既存の前川建築である第一庁舎と第二庁舎などの建物は現存しています。区役所の業務はまだこれらの建物内で行われているので、今しばらくは存続するようです。
前川國男の作品として、私がまず思い浮かべるのは上野の東京文化会館(1961年築)。前川の師であるル・コルビュジエの作品である国立西洋美術館(1959年築)の向かいに建つ、東京の代表的な音楽ホールです。上野公園には、このほかにも西洋美術館の新館(1979年築)、東京都美術館(1975年築)と、計3件もの前川作品があります。したがって、私にとって前川國男とは、まずは、「文化・芸術の殿堂の作り手」というイメージの建築家なのです。また、新宿の紀伊國屋ビル、国立国会図書館といった作品もそのイメージを増幅するもので、施設そのものの文化性に加え、建築自体が持つ豊かな作品性、空間性がそれを裏付けていたのだと思います。
前川作品である世田谷区役所を初めて見に行ったのは2017年と、わりと最近のことでした。2016年に青森県の弘前を訪ねた際、初めて東京から遠く離れた土地で前川國男設計の建物を数多く見て、「やはり前川國男の建築っていいなあ」としみじみと感じ、改めて作品集を見たり評伝を読んだりという“前川國男マイブーム”状態になったところ、伝わってきたのが、世田谷区役所建て替えのニュースでした。そこで慌てて、未見だったこの建物を見に行かなければと思い立ったのです。
しかしその区役所のある場所は「世田谷区世田谷」という、同じ東京23区内に住んでいる者にとっても、「それって世田谷区内の一体どこなんですか?」と聞き返したくなるような住所。調べてみると、鉄道の最寄り駅は、2両編成の路面電車・東急世田谷線の松陰神社前駅か世田谷駅でした。家からは、山手線で新宿まで出て小田急線に乗り換え、豪徳寺駅で下車。その駅前の山下駅で東急世田谷線に乗り換えて松陰神社前で下車。つまり3本の電車を乗り継ぎ、そこから10分ほど歩いてようやく到達したのでした。
区役所の建っている場所は、国士舘大学、松陰神社や公園などに囲まれた世田谷の文京地区、田園地帯という趣き。都内の他区の区役所の多くが主要駅の駅前や繁華街にあるのと対照的です。
区庁舎は、コンクリート打ち放しの建築群で構成され、広場を中心に第一庁舎と区民会館が向かい合い、その間は2階建ての建物とピロティでつながれていました(現在2階建て部分は解体済み)。また、それらと通りを隔てた場所に第二庁舎が建っていて、エリア全体が前川作品で構成されているという充実度。遠路はるばるこの建物を見るためだけにやってきた甲斐があると思いました。
これら建物の建設経緯を改めて調べてみると、設計者を決めるにあたり、1957年に指名コンペが行われ、日建設計、佐藤武夫、山下寿郎、前川國男の四者が参加。そこで入選したのが前川國男でした。このコンペでは区民会館の設計案と庁舎部分の構想案の提出を求められていたそうです。
そして1959年には区民会館が、翌60年には第一庁舎が竣工。9年後の69年には、道路を挟んだ敷地に第二庁舎が竣工しています。
また、その間の1964年には、この区役所からほど近い世田谷区世田谷1丁目にも、前川國男設計の世田谷区立郷土資料館が建設されています。つまり世田谷区は、1950年代後半から60年代にかけて、計4件もの前川建築が立地する前川建築の“聖地”と言ってもよい土地となっていたのです。
総力をあげたコンクリートの打設
私の30年来の友人、水野統夫(のぶお)さんは、なんと前川國男建築設計事務所のOB。今回その紹介で、水野さんの先輩にあたる、世田谷区庁舎の設計を担当した事務所OBの方にお話を伺うことができました。
区民会館の設計を担当した奥村珪一さん(1933年生まれ、90歳)と、第二庁舎の担当だった大宇根弘司さん(1941年生まれ、82歳)で、担当当時はお二人とも20代の若手所員だったということ。奥村さん、大宇根さん、水野さんたち前川事務所OBをはじめとする方々は、先頃再開発プロジェクトの立ち上がった前川氏の代表作の一つである、丸の内の東京海上日動ビルの保存運動を展開されていましたが、結果的に東京海上日動ビルは解体されて再開発されることに。しかしながら、その活動を活かして、建築に親しみ大切に思う市民を増やしていくための活動組織、「市民・建築NET」を立ち上げられています。
今年90歳には見えない若々しいお姿とお話しぶりの奥村さんは1956年に前川事務所に入所。早々にこのプロジェクトの担当者となったそうです。
まず、「コンペの勝因は何だったと思われますか」とお尋ねすると、「建物と広場のブロックプランの出来が一番大きいでしょうね。ピロティでつながった建物と広場との関係がよかったんでしょう」とのこと。
その区民会館と第一庁舎をつなげていたピロティのある建物は新庁舎整備のために既に解体されてしまいましたが、2階部分は区民のための結婚式場や図書室、集会室などになっていたということです。区役所に結婚式場が作られたとは意外に思いますが、この建物ができた当時の社会状況では必要とされた施設だったのでしょう。
「区民会館のコンペでは、その入選者が区庁舎の設計も担当する前提になっていたんですが、前川先生は、『設計料が安すぎるから区庁舎まで設計できない。区庁舎は“豆腐”でいい』とおっしゃって」。つまり、豆腐のような四角い直方体(立方体)のような外観の建物でよいということで、第一庁舎はあのようなシンプルな形の建物になったようです。
それと対照的なのは、ファサードのデザインがコンクリートの屏風のような折板構造の区民会館で、現在進んでいる新庁舎のプロジェクトでも、この折板構造のホール部分のみが保存再生されるそうです。奥村さんは、その区民会館の設計と現場監理の担当者でした。
「区民会館の建物は、壁面が折板構造で、屋根はラーメン構造。その当時、パリのユネスコ本部(マルセル・ブロイヤー設計、1958年築)の折板構造の建物ができたばかりで、日本の建築家もみな注目していましたが、それを参考にしながら、日本は地震国だから世田谷では折板とラーメン構造の三交接にしたんです」とのこと。
50年代後半の日本で、コンクリート打ち放しの折板構造の建物は相当革新的だったはずで、これもコンペの勝因だったのではないでしょうか。
前川建築の特色となっているコンクリート打ち放しですが、この時代はコンクリートの品質も打設技術も、工業化・機械化が進んでいなかった時代。そうした状況でこの大きな壁面を作るのは、大変な仕事でした。また、打ち放しコンクリートがそのまま外壁になるため、コンクリートの型枠にどんな木材を用いるかによってその建物の風合いが変わってくるわけですが、この折板部分のコンクリートの型枠には、木製のみかん箱のくず材を貼ったようなパネルを使ったのだそうです。
「あの頃の建築界では“縄文論争(伝統論争)”ということがあり、その縄文の荒々しい力強さを狙って僕の独断でその型枠でやっちゃった。材料費はタダ同然になったんで、建設会社の人には感謝されましたよ(笑)」
奥村さんが現場を担当していた区民会館の建設時は、現場でセメントと骨材を混ぜてコンクリート作っていた時代で、それをリフトで打設現場まで上げて、猫車(一輪車の手押し車)で打つ場所まで運び、猫車から型枠の中にコンクリートをジャッと入れたら、その後はひたすら“突き”と“叩き”。
「竹竿で型枠の中のコンクリートを突いて、型を叩いて型枠の中にコンクリートが均等に行き渡るようにする。それがうまくいかないと“ジャンカ”といってコンクリートの詰まっていない部分ができてしまうんですよ」と、奥村さんより9年後輩の大宇根さんは当時のマンパワーを駆使した職人的な打設のプロセスを解説してくださいました。
その約9年後、大宇根さんが第二庁舎の現場を担当された時は、コンクリートはプラントで作った“生コン”が使われるようになっていて、現場の打設場所にコンクリートを上げるにはポンプ車が、型枠の中にコンクリートを満遍なく行き渡らせるためにはバイブレーターが使われるようになっていました。
「でも前川事務所の先輩たちは、そんなものは信頼できないからと使いたがらない。バイブレーターも振動が強すぎるから骨材とセメントが分離してしまう、やはり叩きと突きが中心だと。その第二庁舎の現場で、まだ新米だった僕がコンクリートの打ち方を教わったのは、前川事務所の構造設計を担当されている横山建築構造設計事務所の小川さんというベテランの方なんですが、その方は、プラントで作ったコンクリートをポンプ車で上げたら分離しているかもしれないと。そのコンクリートを舐めたりして『これはおかしいぞ』なんて骨材の具合をチェックするわけですよ」
現場での監理は当然体力的にも過酷な仕事でした。区民会館を担当した奥村さんは当時25歳。
「建設現場の仕事は8時から始まるんだけれど、職人は7時頃から来ているので、僕はそれより前に行っていなければならない。職人は自分の担当分を打ち終わると帰ってしまうけれど、こちらはその後でその日に打ったところすべてを検査して回らなければならない。そうした作業が連日になり、当時は若かったけれど、体力的にはかなり堪えましたね」
第二庁舎の施工時、大宇根さんは28歳。
「コンクリート打設の前の日には、型枠の精度を±1ミリまで検査して直し、縦揺れ検査を終えて、打つ直前に型枠を水で濡らすんですよ。そうすると寸法が狂っちゃう。それでまたやり直したりしていると真夜中の午前1時、2時ですよ。それでどんなにその日遅くなっても、次の日がプラントからコンクリートを持ってきて打設する日として予定されているから、現場で朝まで待つんです。当然お腹が空くんだけど、当時はあのあたりには食堂も店もなくて。建設会社の担当の人がどこかからおにぎりなんか調達してくれることもあったけれど、大抵飲まず食わずになる。そうしたら、『腹減ったでしょう、食いませんか』なんて、近所の家の庭になってた柿を取って持ってきた人がいたりね(笑)」
前川事務所では、事務所内で検討してコンクリート打設の仕様書を作成し、それに沿って現場工事を監理していたそうですが、建設会社がそれに対応していたのも、巨匠・前川國男という存在あってのことのようです。前川事務所から独立した所員が、自分が設計した建物で大手ゼネコンにその通りにやってくれと説明したところ「こんなことできるわけないじゃないですか」と直ちに却下されたのだとか。
前川國男作品の特徴である重厚感のある風合いの打ち放しコンクリートは、こうした大変な知力、体力の積み重ねで作りあげられたものだったのです。“コンクリートの鬼”となった所員や建設会社の人々が総力をあげて取り組んだもので、改めてその事実を念頭に置いた上でで前川作品に対峙しなければと思い直しました。
期限までに眺めておいてほしい打ち放しコンクリート
現在新しい世田谷区区庁舎の建設が進められていますが、そこで唯一保存される前川作品が区民会館のホール部分です。耐震補強工事、音響の改善、ユニバーサルデザインに対応した改修が施されるということで、折板構造の外壁は新築のようにツルツルになっていました。ここには奥村さんが型枠に用いたミカン箱の端材の風合いは残されているのでしょうか。
また、7月中旬の発表によると、新庁舎の建設工事が全体として2年近く遅れることが判明し、第一庁舎、第二庁舎は存続している期間も延長されるようです。
それまでに、この戦後モダニズム建築を作った人々の魂のこもった打ち放しコンクリートを間近で眺めておくことをおすすめします。
■撮影後記 都築響一
東京23区でいちばん人口が多いのは世田谷区だそうで、23区のほぼ10人にひとりが世田谷区民なのだそう(9.6%、2022年調べ)。なので区役所も広大と言えるほどの敷地に広がっている。コンクリートのカタマリの無骨な押し出しには好き嫌いあろうが、日本有数の区民を管轄する役所にして背があんまり高くないというだけで僕はうれしい。
地方を旅していると、その街でいちばん背の高い建築が役所、ということがよくある。だれよりも役所の背が高いのは、役人の頭も高い気がして苦々しい。
世田谷区役所は今回初めて内部をじっくり拝見したが、壁面の装飾など、コンクリートやタイルでありながら温かみがあるデザインに、個人的には外観よりも惹かれるものがあった。
とはいえそこはお役所なので、せっかくの壁面装飾の前に掲示板やら自販機やらが無造作に置かれまくって、デザインの完成度が損なわれているところも少なくない。それを意識高い建築ファンは嘆くのだろうが、僕には意外に好ましく見えもした。古の伽藍が雑草に覆い隠されていくように、高尚な美学が些末な日常に圧倒されていくというような・・・・・・。だって役所って、本来は日常の集積場であるべきなのだから。
鈴木伸子(すずき・のぶこ)
1964年東京都生まれ。文筆家。東京女子大学卒業後、都市出版「東京人」編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『山手線をゆく、大人の町歩き』『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』など。東京のまち歩きツアー「まいまい東京」で、シブいビル巡りツアーの講師も務める。東京街角のシブいビルを、Instagram @nobunobu1999で発信中。
都築響一(つづき・きょういち)
1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。上智大学在学中から現代美術などの分野でライター活動を開始。「POPEYE」「BRUTUS」誌などで雑誌編集者として活動。1998年、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。2012年から会員制メールマガジン「ROADSIDERS' weekly」(www.roadsiders.com)を配信中。『TOKYO STYLE』『ヒップホップの詩人たち』など著書多数。