クリナップは、ワークトップ(天板)に継ぎ目がなく、部材の組み合わせを選べるキッチンを「システムキッチン」と命名し、最初に国産化したメーカーである。最近は、家具メーカーの飛騨産業と組み、特製のダイニングテーブルとつなげて使える木製フレームのコンパクトキッチン「HIROMA」を開発し、話題を集めている。実はクリナップ、これまでにもさまざまな新しい試みを行い、キッチンを進化させてきた会社である。そこで今回は、クリナップの歴史を通して、キッチンの現代史を描いてみたい。
キッチンメーカー「クリナップ」の歴史は、 座卓から始まった
クリナップの本社は、東京・西日暮里にある。同社は1949(昭和24)年、日暮里で座卓メーカーとして産声を上げた。「ちゃぶ台」として親しまれてきた座卓は、明治時代に和洋折衷スタイルの暮らしが広がり始めた頃、日本で生まれている。畳に座る生活を変えずに使え、脚を折りたためる便利さから、初回に紹介した公団住宅への導入がきっかけでダイニングテーブルが普及するまで、一般的な食卓だった。
創業者の井上登は1920(大正9)年、福島県双葉郡広野村(現広野町)で5男3女の末っ子として生まれた。父の利作は炭鉱技師だったが事故で左脚を失い、その後は母のスエが農家の手伝いから行商までさまざまな仕事をして、家計を支えた。登は1939(昭和14)年、東京へ出て建具師になった兄2人を頼って上京し、座卓職人として修業する。その技術を生かし、従軍生活を経た戦後、「井上食卓」を創業するのである。
写真右/クリナップの前身である「井上食卓」を創業した井上登(写真手前中央)。
会社は全国に販売網を広げ、1958(昭和33)年には日本一の座卓メーカーになるが、同年にポリエチレンの量産化を始めた住友化学工業(現住友化学)が翌年、メラミン樹脂で表面の化粧板を加工し始める。耐久性に優れた安い座卓が大量に出回り、ケヤキの木目が美しい高級座卓を作る井上食卓の先行きに暗雲が垂れ込める。そこで井上が目をつけたのは、キッチン。1956年に公団団地の供給も始まり、量産化に成功したステンレスシンクを導入した、ダイニングキッチンが注目を集めていた。
井上は、田園調布の板金工場で働いていた内野三郎をスカウト。井上食卓の木工技術で作ったキャビネットに、内野が作ったステンレス製のシンクをつける。溶接機やプレス機などを導入し、1960年に社名を「井上工業」に変更、キッチンメーカーとしての一歩を踏み出したのである。「クリナップ」という名前は当初、大流行していた野球の用語であるクリーンアップと、シンク・調理台・コンロ台の3点セットという意味を兼ねたブランド名だった。社名になったのは、1983(昭和58)年である。既存メーカーと差別化するため、最初は「角形で他社より深さがある、水撥ねしにくい広めのシンクにしていました」と広報課の小泉恭子さんは語る。
今では当たり前の 「システムキッチン」が誕生するまで
その後、米びつを内蔵したキャビネット、水切りプレートつきのシンク、メインのシンクに小ぶりのシンクを並べた「親子シンク」など、オリジナルのアイデアを次々と実現していく。本体とデザインを統一した吊戸棚や食器棚を作り、一つのシリーズとしてセット販売し始めたのは1968年。高度経済成長も折り返し点を過ぎ、人々はキッチンに機能性だけでなくデザイン性も求めるようになっていた。
当時のキッチンは、シンク・調理台・コンロ台がそれぞれ独立したキャビネットで、コンロが別置きの「セクショナルキッチン」と呼ばれるものだ。統一されたデザインで見た目は美しくなったが、実は継ぎ目にゴミが入りやすいなどの問題を抱えていた。そんな折、ヨーロッパから驚きの情報が入る。
『台所から戦後が見える』(朝日新聞学芸部著、朝日新聞社、1995年)によると、1970(昭和45)年、取引先の新日本製鐵のドイツ駐在員から開発担当の岡本孝之へドイツのキッチンカタログが送られてきた。そこに載っていたのは、壁にピタリと納まり機能的で収納力があるキッチンだった。こんなキッチンが日本に輸入されたら、大変なことになる……。
そこで、社長率いる視察団を組んで翌年ヨーロッパ・アメリカへ行く。統一されたデザインの部材を作り、受注生産方式で組み合わせる部材を選ぶそのキッチンは、ヨーロッパで広がっていたが、まだ決まった名前がなかった。そこで岡本が、当時、経営論として「システム論」が話題だったことから、「システムキッチン」と命名。1971年夏のカタログで「夢のキッチンといわれるシステムキッチンなども積極的に開発中です」と予告した。
1972年に試作品を完成させ、1973年の10月に全国の販売店を東京・紀尾井町のホテルニューオータニへ招いて発表会を行う。残念ながら、ほぼオーダーメイドの試作品は200万円もしたため、売れなかった。しかし、その頃から海外メーカーもシステムキッチンの市場に参入。1973年にまず、西ドイツ(現ドイツ)のティルザ、その後コンテッサ、ジーマティック、ユニクラフトなどが入ってきた。日本からも1975年に伊那製陶(INAXを経て、現在はLIXIL)、翌年に日本楽器製造(ヤマハを経て、現在はトクラス)、フランスベッド、岩谷産業、1977年には松下電工(現パナソニック)が参入した。
1980年代には、「システムキッチンは、見た目がきれいなだけでおいしい料理を作れるわけではない」「扉で隠されて家族は何がどこに入っているかわからない」と、食文化の研究者などから批判の対象にされてしまうほど注目され、人気が高まる。1998年には完成品の出荷台数がセクショナルキッチンを抜き、キッチンの主流になっていく。
システムキッチンが普及したのは、参入メーカーが増えたことに加え、価格が下がったためである。クリナップは「100万円を切るシステムキッチンを」と、1983年に最低価格49万8000円という画期的な簡易施工型システムキッチン「クリンレディ」の開発に成功。当時は、セクショナルキッチンのセット価格が20~30万円で、一般的なシステムキッチンが100~200万円だったから驚くほど安い。実は同社が当初開発したシステムキッチンは、ほぼオーダーキッチンと言えるほど自由度が高かったが、その分価格も高くなった。価格を下げるために部材の規格化を進めた結果、現在ではクリンレディのような簡易施工型が、システムキッチンとして一般化している。
右/低価格を追求した「クリンレディ」の売り文句は、「買えちゃうシステムキッチン」。
さらなる使い勝手と収納力を求めて 進化を続けるシステムキッチン
次に同社が行った画期的な開発が、1999年に販売を始めたシステムキッチンのフロアコンテナである。システムキッチンの魅力の一つは、空間をすき間なく使うことによる高い収納力だ。高度経済成長期に洋食や中華が流行り、1970年代の終わりに始まったグルメブーム以降、世界各国の料理が流行して食事のバリエーションが増えたことで、キッチンに置く道具や食器、調味料も多彩になり、モノがあふれかえる問題が起こっていたのだ。この頃は既婚女性の多くが専業主婦で、料理に凝る女性も多かったので、多彩な道具や食材を効率的に収納するスペースはいくらあっても足りなかった。
クリナップはまず、1998年に下部収納を開き戸から引き出しに替えた「オールスライド」を開発。ここで、当時の開発サブリーダーだった舟生美幸さんにも取材に加わっていただく。本来なら、女性初のリーダーになっていてもおかしくなかったが、子育て中だった舟生さんが残業しないで済むよう、サブリーダーになったという事情があるそうだ。何しろ新商品の開発は、激務だったのだ。
舟生さんは、「システムキッチンの前に、1997年にセットアップキッチンの『ラセッタ』という商品を開発し、オールスライドを導入しました。キッチンの下部収納はそれまで開き戸でしたが、引き出しにしたら奥のモノもかがまないで取り出せると好評で、翌年にシステムキッチンにも導入されました。しかもレールがすばらしかった」と話す。当時の同僚で開発担当課長の齊藤隆一さんが、「この頃は、頻繁に開発部門が海外視察へ行って情報を得ていたこともあり、オーストリアのブルム社のレールを採用しました」と話すと、舟生さんが「その前に、ある商社からドイツのメーカーのレールの売り込みがあったんです」と付け加える。日本製のレールは、引き出しの奥の方まで引き出せないタイプしか当時はなかったが、ブルム社のレールは奥まで引き出せるフルオープンタイプで、耐荷重の性能も非常に高く、画期的だったという。
そしてキッチンの台輪(蹴込み)の部分まで引き出しにしたのが、フロアコンテナ。「それまでは、土間に台所があった時代のイメージで、床から湿気が入り込む、と台輪部分を収納にすることはタブー視されていました。今となっては何と言われたか思い出せないのが残念ですが、設計課長がきっかけになる何かを言ったときに、みんながすごい集中して『蹴込み部分をスライドにすればいいじゃないか』と、ワーッと開発に向かったんです。その前に、排水管をセットバックさせて奥に配置すれば、シンク下も引き出し収納にできるという発想があったと思います」と舟生さん。当時のシンク下は排水管が真ん中にあることから、収納が使いづらかった。同社がシンクを凸型にする板金技術を開発し、排水管を奥にして手前の空間を広く使えるようにしたのは、1997年のクリンレディからだ。
フロアコンテナについては、必要なのは発想の転換だけだったことから、翌年には、他社も一斉に導入した商品を出してきたという。
現在の消費者の暮らしや生活に合わせて、 これからのキッチンのあり方を問う
バブル崩壊後の1990年代、実はクリナップも経営が厳しく、立て直しに取り組んでいた。消費者に近い販売店・工務店と交流し商品の魅力を伝えるセミナーを開催する、設計と営業がチームを組むなど、関係各者のコミュニケーションを活発化させる。主婦モニターを集めてグループインタビューをするなど、消費者の声も直接集めるようになっている。また、自然な動作を研究する人間工学の考え方も導入。重くてふだん使わない土鍋などはフロアコンテナに、よく使う調味料やカトラリーは上の引き出しに、と使い勝手を考えたゾーンコンセプトも考案した。
そうした消費者の生活に合わせて開発していった努力の先に、2019年12月からテスト販売、2021年10月から本格販売を始めた「HIROMA」がある。これは、収納力を増しつつ、吊戸棚を止めて開放感を出す対面型キッチンが人気になったことが影響している。吊戸棚をなくすと収納力が減るため、より大きな食器棚もしくはパントリーが必要になる。しかしその結果、キッチン自体の面積が大きくなる。そこで限られたスペースを有効に使いつつ、作業もシェアするなどコミュニケーションが活発になりやすい、ダイニングテーブルをキッチンにつなげるレイアウトが人気になっていた。キッチンは長らく、台所の担い手の孤独な作業の場であったが、料理するのが主婦とは限らなくなった今、多様なスタイルが求められている。そうした未来のキッチンも鋭意開発中とのことである。
阿古真理 あこ・まり
作家・生活史研究家。食を中心にした暮らしの歴史やジェンダー関連の本を執筆。食への関心から台所の歴史についてもリサーチ中。主な著書に『昭和育ちのおいしい記憶』『うちのご飯の60年』(筑摩書房)、『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』(幻冬舎)、『昭和の洋食 平成のカフェ飯』(ちくま文庫)、『小林カツ代と栗原はるみ』『料理は女の義務ですか』(共に新潮新書)、『日本外食全史』(亜紀書房)、『ラクしておいしい令和のごはん革命』(主婦の友社)、近刊に『家事は大変って気づきましたか?』『大胆推理!ケンミン食のなぜ』(亜紀書房)がある。
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