車窓から見る足尾銅山の近代化産業遺産
前回に続き、わたらせ渓谷鉄道の車窓から土木を楽しむ旅を続けていこう。
後編は、桃源郷のような神戸(ごうど)から終点の間藤(まとう)に向けて、トロッコ列車が出発したところからスタートする(駅一覧)。
(記事内のわたらせ渓谷の写真は、2020年と2021年の4月に撮影したものです。)
本日の旅程
11:41
進行方向右手にダムを感じながらトンネルを行く トロッコ列車が神戸駅を出発すると、車両の照明を消灯するという車内アナウンスがあった。アナウンス後、列車は草木(くさき)トンネルに入る(map⑤)。すると突然、天井近くの壁に設置された約1万2000球のLED電球が七色に光りだした。公式キャラのわっしー君が深紅に浮かび上がる。
このアトラクションのようなイルミネーションが見られるのは、トロッコ車両のみなのでご注意いただきたい。
※mapは記事の一番下にあります
草木トンネルは、1973(昭和48)年に草木ダムが建設された際に、ルートを迂回するために造られた。全長が5242mあり、神戸側からみた入口(map⑤)と出口(map⑥)の高低差は約140mで、ちょうど草木ダムと同じ高さ(堤体高)を上っていくことになる。
トンネル内の勾配は最大23‰(パーミル)で、鉄道路線としてはかなりの急勾配なのである。(1‰は、水平に1000m進めば1mの高さに達することを表す単位)
トンネルを抜けると列車は渡良瀬川を渡り、すぐ短いトンネルに再突入し、ほどなく沢入(そうり)駅に到着する(map⑦)。
1912(大正元)年開業当初は「そおり」と呼ばれていたが、現在は「そうり」と読む。上り下りの両ホームにある待合室は国の登録有形文化財で、独特の趣がある。この時期はひっそりとしているが、駅構内にある2000株以上のアジサイが咲く時期になれば華やかな雰囲気に包まれる。
12:00
車窓を楽しむ坂東カーブ 沢入を出ると次の原向(はらむこう)までは、見どころの連続なので気が抜けない。この区間は、進行方向に向かって左側に渡良瀬川を見て列車は走る(渡良瀬川の左岸側)。
渡良瀬川の大きな蛇行に合わせるように急カーブが連続するこの一帯は、川全体に巨岩がごろごろとあり壮観だ。
沢入を出発して5分弱で、わたらせ渓谷鉄道一番の急カーブに差しかかる(map⑧)。列車は減速し、車内アナウンスが流れる。白い石は花崗岩(かこうがん)で、「沢入みかげ」とも呼ばれ、古くは都電の敷石にも使用されていたと聞く。
1両目のトロッコ車両には模擬運転台が設置されている。すぐ後ろのトロッコ席からは正面の景色がよくみえる。
もし状況が許すなら、坂東カーブを通過したらこの正面方向が見える位置に移動するといい。進行方向に吉ノ沢架樋(よしのざわかけひ)が見えてくるはずだ(map⑨)。
風化した花崗岩からの砂や大量の雨水を防ぐために1935(昭和10)年に設置された。樋部分のコンクリートはだいぶ劣化しているように見えるが、古いレールを再利用したオリーブ色の支柱に、がっしりと支えられている。
12:10
馬車鉄道の名残を見逃すな吉ノ沢懸樋をくぐり抜けると、すぐ前方に笠松トンネルの入口が見えてくる。次の原向までおよそ1.5kmの位置、群馬県と栃木県の県境に位置する通称「笠松」の地は、鉄道が通るはるか昔から、行き交うものを阻む断崖絶壁の難所だった。
笠松トンネルも国の登録有形文化財なのだが、今回はそれ以上に注目しているものがトンネルを抜けたところにある。正確には、トンネルを抜けてすぐ振り返った場所に見える……といったほうがいいだろうか。
トンネルを抜けた瞬間から、沢入駅側を振り返り、立て続けにシャッターを切る。もちろん、トロッコ車両から身を乗り出すわけにはいかないので、相当変な格好で写真を撮っていたと思う。
上の写真の赤丸部分を、別構図の撮影で拡大したものが次の写真だ。崖を削った道のようなものが見えないだろうか。
実はこの道、歴史は古い。明治20年代半ば、およそ130年も前に作られたものだ。現在残っているのは90mほどだが、今もこうして目にすることができる(map⑩)。
片側だけを掘りぬいたトンネルには、笠松片隧道と名前がついているが、通称「笠松片マンプ」と呼ばれている。「マンプ」とは聞きなれない単語だが、トンネルの方言だ(マンプの語源には諸説あり)。
関西地方に多く見られるねじりまんぽ(トンネル内の強度を高めるために煉瓦をねじったように積み上げた構造物)の「まんぽ」もトンネルのことを指す。遠く離れた地でも言葉というのは意外につながっている。
この笠松片マンプを通行する当時のモノクロ写真がある。足尾銅山の銅を搬出したり、必要な機材を運びこんだりするための馬車鉄道が敷かれていたのだ。高さ約3m、幅1.5~2mの片マンプは、馬車が通るにはいかにも狭い。そこで、川側に桟橋のように板をはり出し道幅を拡張し、線路上の台車を引く馬とそれを先導する人が通っていた。
足尾銅山は1890年前後には、日本の銅生産の40%を占めるまでになっていた。銅山が山間に位置していたため、大量の物資をやりとりできる輸送路を確保することが至上命題の一つだった。
そんな馬車鉄道も足尾鉄道(わたらせ渓谷鉄道の前身)が開通したことで役目を終えた。この笠松片マンプは、今も残る歴史の貴重な証人なのである。
12:17
圧倒的な廃墟群がいまも まもなく通洞駅というところで、進行方向左手に廃墟群が見えてくる。建物自体は大きく崩れてはいないが、屋根や側壁があちこち破損し、今はもう使われていない工場であることがわかる。
かつては銅山の坑内から掘り出した鉱物(粗鉱)を砕き、いくつかのプロセスを経て高品質な鉱物(精鉱)に仕上げていたのだ。
やがて列車は通洞駅に到着する(map⑪)。わたらせ渓谷鉄道では、通洞は数少ない有人駅。周辺には廃坑を見学できる「足尾銅山観光」や「古河足尾歴史館」などがあり、足尾観光の中核となる駅だ。
今回はスケジュールの関係で残念ながら通洞駅下車は見送る。そのまま列車は次の足尾に向かう。通洞と足尾の間は0.9kmしか離れていないので、あっという間である。
足尾駅内には、駅舎やプラットフォームのほかにもいくつかの国の登録有形文化財がある(map⑫)。なかでも、煉瓦造りの足尾駅危険品庫は機会があればぜひご覧いただきたい。
12:29
小雪のちらつく間藤に到着。そのあとは…… 神戸を出発しておよそ50分、間藤に到着した(map⑬)。始発の桐生と終点の間藤では標高差が約550mあるので、体感温度がだいぶ違う。
この日の間藤の気温は4度。ほんの少しだが小雪が舞っていて、少し前の春景色が夢のようだった。
駅の誰もいない待合室でお昼を食べながら、このあとの予定を考える。
わたらせ渓谷鉄道の終点は間藤だが、実はこの先も線路は続いている(列車が走行することはない)。
1914(大正3)年に貨物用の駅として足尾本山(あしおほんざん)駅が開業し、1973(昭和48)年に足尾銅山が閉山したのちも、貨物輸送路線として利用されていた。その後、1989(平成元)年、同駅は廃駅となっている。
現在でも、廃線跡周辺には鉄道・産業遺構が残されていて、時間の許す限り訪ね歩くのもありだ。
足を延ばして間藤発の15時9分の列車で帰るか、今日はこのまま14時前に出発するトロッコわっしー号で帰るか、どうしようかなぁと悩むのもまた旅の楽しみなのである。
牧村あきこ
高度経済成長期のさなか、東京都大田区に生まれる。フォトライター。千葉大学薬学部卒。ソフト開発を経てIT系ライターとして活動し、日経BP社IT系雑誌の連載ほか書籍執筆多数。2008年より新たなステージへ舵を切り、現在は古いインフラ系の土木撮影を中心に情報発信をしている。ビジネス系webメディアのJBpressに不定期で寄稿するほか、webサイト「Discover Doboku日本の土木再発見」に土木ウォッチャーとして第2・4土曜日に記事を配信。ひとり旅にフォーカスしたサイト「探検ウォークしてみない?」を運営中。https://soloppo.com/