瀧山の墓がある、埼玉県川口市の錫杖寺。(提供=錫杖寺)

『大奥』で描かれた、“最後の大奥総取締” 瀧山と大奥の最後

カルチャー|2023.12.1
文=太陽の地図帖編集部

太陽の地図帖『よしながふみ『大奥』を旅する』からの引用を交え、SF時代劇『大奥』の作品世界を紹介する。

 瀧山は旗本の娘とされる。14歳で大奥に入り、13代将軍・家定、14代将軍・家茂の「将軍付き御年寄」として活躍した。なお、ドラマなどでよく使用される「大奥総取締」という役職は架空のもので、正式には「御年寄」と呼ばれた。

 幕末の大奥では1000人もの女中が働いていた。瀧山は、その実務上のトップとして君臨した。その瀧山の権勢は、瀧山が残した日記からうかがうことができる。
 その日記『大奥御年寄瀧山日記』が書かれたのは幕末の10年間(1859~68年)。「実成院(家茂の実母)」「天璋院(家定の御台所)」「和宮(家茂の御台所)」といった名前が頻繁に登場し、彼女たちとのやりとりが記されている。また、「戴物控」(いただきものひかえ)には、大名をはじめとする幕府の要人から献上された品々が細かく記載されており、「奥」だけでなく、「表向き」にも影響力を持っていたことが見てとれる。

『大奥』第18巻P138より ©よしながふみ/白泉社

 瀧山の生きた時代は幕末の激動期。家茂が死ぬと、慶喜が15代将軍に就任するも、京都で政務を執り、江戸城は城主不在となった。さらに、本来ならば大奥の主となるべき慶喜の御台所・省子(のちに美賀子に改名)は、慶喜の不在を理由に江戸城に入らなかった。将軍も御台所もいない大奥の運営を瀧山は一手に担ったとされる。

 慶応3(1867)年、慶喜は大政奉還を奏上し、朝廷に政権を返す。そして、その翌年、江戸城無血開城により、大奥は最後の日を迎える。


 慶応4(1868)年4月11日の江戸開城に先立ち、4月9日に静寛院宮(和宮)は清水邸、翌10日に天璋院は一橋邸へと、江戸城大奥から退去した。この時、諸道具は封印して帳記した上で引き渡したとされ、一方で城内には大砲・小銃が夥(おびただ)しく置かれていた(*1)。大奥の諸部屋は壁に狩野探幽筆の三幅対の掛け軸を掛け、床に金銀製の鶴亀などの飾り物を置き、違い棚には硯箱・香道具一式などを据え、美麗に装飾したとある(*2)。
(P76・野本禎司「江戸城無血開城と大奥の最後」より)

(*1)「江城請取顚末」(明治6[1873]年、水野忠雄筆。徳川美術館編集・発行『天璋院篤姫と皇女和宮』所収)
(*2)永島今四郎・太田贇雄編『新装版 定本江戸城大奥』(新人物往来社)

『大奥』第19巻P188より ©よしながふみ/白泉社

 よしながふみの『大奥』では、江戸開城の折、瀧山が指揮を執り、大奥が見事な幕引きをしたのちに、自刃しようとする。

『大奥』第19巻P181より ©よしながふみ/白泉社

 しかしながら、史実では、瀧山は自殺未遂をしていないし、江戸開城を仕切ってもいない。
 瀧山は、慶喜の将軍就任に反対の立場を取り、家茂の死を機に暇を願い出ていたという。その願いは聞き入れられず、長らく引き留められていたものの、慶応3年には奉公を辞め、江戸城を出ていることが判明しているのだ(*3)。

(*3)津山藩江戸屋敷で記録された『七宝御祐筆間御日記』には、瀧山は慶応3年10~12月の間に、暇を認められ、大奥を出たとある。

 大奥を出た瀧山は、部屋方女中・仲野の実家を頼り、川口に移り住んだ。そして、仲野の実家から養女を迎え、「瀧山家」を興した。
 明治9(1876)年、71歳で死去。日光御成道沿いに建つ、徳川とゆかりの深い錫杖寺(しゃくじょうじ)に葬られ、墓は今もそこにある。左に仲野と養子夫婦、右に叔母の染島の墓を従え、静かに日本の行く末を見守っている。

太陽の地図帖『よしながふみ 『大奥』を旅する』
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