『大奥』に描かれた「春日局」の姿
三代将軍・徳川家光の乳母・春日局は、単なる将軍継嗣の乳母ではなく、「奥」の制度を確立した政治家である。もっとも、江戸時代初期の権力者であったのは間違いないが、「家光を溺愛し、私利私欲で権勢をふるった烈女」であったのか、それとも「高い政治力を持つ、誠実で献身的な女性」であったのか、歴史的評価はいまだ定まらない。よしながふみの『大奥』では、戦国時代を経て、平和な世を希求する「女傑」として描かれている。
作者のよしながふみは、春日局についてこう語っている。
――第3巻で、春日局が「戦のない平和な世」のためには徳川家の存続が必要と言います。それは、有能な人が出てきてトップを取ろうとしたら争いになる、ということなんですね。江戸時代は、平和のために、能力があろうとなかろうと子が家を継ぐということをしないとやっていけない時代だったのだとは思います。(P.102・「よしながふみ特別ロングインタビュー」より)
不遇の人だった春日局
春日局が乳母として江戸に来るまでの経歴は諸説あるが、おおよその経緯としては下記のように伝えられている。
春日局は、織田信長を本能寺の変で討った明智光秀に仕えた斎藤利三の娘で福といった。母は稲葉家の出身とされ、利三が山崎の合戦で敗死した後は、母方の親類である稲葉正成と婚姻し、正勝らを産んだ。江戸で家光が誕生した際に正成と離縁し、乳母の募集に応じ、江戸城へ入った。(P.28・竹村誠「七色飯から大奥が誕生!? 大奥の礎を築いた『春日局』」より)
江戸城に入るまでは不遇であり、戦国の世を生き抜いたことが、その後の人生に大きな影響を与えたことがうかがえる。
春日局と大奥の始まり
よしながふみの『大奥』では、春日局によって大奥が始まったとされている。
家光の娘で、身代わりを務める千恵が、「春日は朝飯を七種も用意したのだ」と有功に言う。そして、ご飯を食べない家光に七種類の七色飯を出せば、一つは食べるだろうと考えたのと同じように、「数多の女性(にょしょう)を集めれば、男色好みの父上にも一人くらいはお気に召す女がおられるはずと思ったから」と大奥の始まりを語るシーンが描かれているのだ。
春日局が家光に七色飯を出したという逸話は、江戸時代中頃に編纂された見聞集『明良洪範(めいりょうこうはん)』(*)に記されている。
しかし、そこから発想を得て、春日局が大奥を作ったのかどうかは、実は定かではなく、大奥の始まりについても明確にはなっていない。
ただ、実際に春日局は、子宝に恵まれず、男色にふける性癖もあったらしい家光のために、妻妾探しに尽力し、何人もの女性を大奥入りさせていたようである。
やがて側室たちは次々と子どもを産み、四代将軍・家綱、五代将軍・綱吉が誕生した。
春日局が将軍の胤を残すために制度化した「大奥」は、やがて奥女中の数が千人とも三千人ともいわれる巨大な「女の城」へと変貌していったのだ。
(*)千駄ヶ谷にある聖輪寺(しょうりんじ)の住持・増誉(ぞうよ)作。16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏、諸大名の言行、事跡等を集録する。
太陽の地図帖『よしながふみ 『大奥』を旅する』
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