第3回 パラケルススを中心として(2)
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さて改めて錬金術とは何か、を医学との関係で問うてみよう。錬金術とは、鉛や錫などの卑金属から、金銀という貴金属を得るものであって、これは言いかえれば病者が治療を受けて健康を取り戻すことでもあり、両者を総じてまとめると、「不完全」から「完全」なるものへの移行となろう。そこに触媒である、錬金術では「賢者の石」が、医学では「医薬品」が介在している。
パラケルススは錬金術と医学の2つの流れに新たな経路を開いた人物であろうか。彼の錬金術重視の理由は、金の製造のためでなく金属の分離と化学薬品の調合のためであった。彼は多くの造語をつくり、なかでも錬金術を、spagiria としたが、この単語は「抽出する」と「集める」を意味するギリシア語に由来している。パラケルススにとって錬金術とは「自然それ自体では完全へと至らしめ得ないものをあまねく完全へと導く術」であるとともに、「医学の調教師にして、医学を清浄無垢、完全無欠ならしめ、医師の知を完成せしめるもの」だった。
しかしながら自然観からすると、自然の裡の「隠された力」を利用して「不完全さ」に「完全さ」を快復しようとする力と知識を指すと思われ、あくまでオカルトの自然観に立脚している。
これはガリレオ・ガリレイ(1564―1642年)の主張した「自然=もうひとつの聖書」説とは軌を一している(村上陽一郎)。即ち、神の書いた書は、「聖書」と「自然」の2つであるという点で同意見だった。だがそれ以外の点では多少の齟齬がある。錬金術師たちの自然観は自然魔術師のように、上に記したオカルト的なものに固執して、自然のみならず他のものの「不完全さ」に「完全さ」の復活を希求した。これを「治療」と彼らが考えたのは至極当然であった。
錬金術の視点から内科的面に目を向けたが、これでは近代内科学の入り口にはほど遠いことがみえてくる。パラケルススに衆目の関心が集まるのは、その曖昧さや、転換期を生きたことによるもので、ラテン語を用いずドイツ語で大学では講義をしたという近代性は認め得るが、自然観という点では、ガリレイの数学的自然観(「自然は……数学の言葉で書かれている」)とは一線を画することになる。それだけガリレイの思考力・判断力は合理的で、ニッコロ・マキァヴェッリ(1469―1527年)が「政(治宗)教分離」(『君主論』第十五章)を公言したように、ガリレイは「宗教と科学の分離」を成し遂げた。彼は神を顕彰し信仰の対象とはするが、分析研究などはしない、という立場だ。ここに近代世界の黎明が訪れる。
ちなみに近代外科学の祖の出現は、内科学より早かった。フランスの従軍医師アンブロワーズ・パレ(1510?―90年)の尽力による。平時は臨床医(国王からパリの一般市民まで)。フランス語による論文・著書を遺した。ラテン語を使用せず、大学も卒(で)ていない。戦時は従軍医師。当時外科医は内科医より身分が低く、散髪屋が兼ねていた(理髪外科医)。火砲による負傷者も多くいて、パレは結紮(けっさつ/しばること)の方法を案出した。画期的な治療方法だった。国王等の外科医でもあり、『外科学十巻』(1563年)を著わした。
閑話休題。
外科的発想と錬金術の曖昧模糊とした思念の世界は比較に値する。外科の方がよほどすっきりする。
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紙幅に限りがあるので、第4回にパラケルスス以後の「列伝」を託して、ここでは分析心理学者カール・グスタフ・ユング(1875―1961年)の錬金術に関する見解に耳を傾けてみたい。代表作『心理学と錬金術』に明らかである。
ユングは当初、フロイト(1856―1939年)の学説の熱心な支持者、つまり個人的無意識の領域に関心を寄せていたが、その後リビドー(人間のすべての行動の基底となる根本的エネルギー)および無意識の領域に研究を進めて、集合的無意識の分野に向かった。これはフロイトとの訣別の前兆であった『リビドーの変容と象徴』(1929年)まで遡る。
ユングにとって集合的無意識とは、明と暗、善と悪といった対立物を内包し、常に2つの顔を有している、「対立物の一致」を宿す意識のあり方である。そこには錬金術を、キリスト教文明と意識・自我万能の西洋合理主義の蔭なる存在として、無意識の問題と等しくみなすユングの考えが反映されており、ユングが錬金術に着目した理由が理解できよう。
『心理学と錬金術』を貫く根本理念はなによりも個人の持つ経験の尊重と、錬金術的経験を促す要因として、反キリスト教の姿勢を基調としている点にある。
西欧社会を支配したキリスト教という客観世界に対して、キリスト教では汲み尽くせ得ない主観世界に没入する一群のひとたちの心的有様である。客観世界に反発して自己に閉じこもることによって生じる、「公理」から「隠れた『私理』(きわめて主観的な世界)」、神秘的な世界も当然生じてくる。術師のひとりひとりが公の世界に背を向けて自己に没入し、自己の内的体験を踏まえ、体験によってしか掌握できないものがあると認識したとき、その種の過程は「術」のひとつとなって映る。ユングもやはり錬金術を、化学史的側面(実践面)と精神的側面(思弁的面)の2つに分けて、精神的側面として哲学・宗教・心理学との関わりに目を注いでいる。彼の関心はもっぱら精神面で、わけても無意識の心理学を提言した人物らしく、「夢(無意識)」と意識の関係を、錬金術とキリスト教の関係になぞらえている。
ユングがいうには、キリスト教と錬金術の関係は相互補完的で、地上と地下、昼と夜、現実と夢のようなものである。総じて錬金術はキリスト教のもたらす緊張による精神的裂け目を埋める役を担っている。
錬金術はキリスト教ではおおい切れない無数の分裂面を補完する役目を負っている。これはキリスト教対錬金術という安易な図式では割り切れない表裏の補完、浸食関係を顕わしている。さらに錬金術は占星術とともに、自然(無意識)への橋渡しの役目を果たしてきており、キリスト教の拡張過程において排除された諸「元型」に投影の機会を与えた。
第3回〈了〉
参考文献
カール・グスタフ・ユング著 池田紘一 鎌田道生訳『心理学と錬金術』Ⅰ・Ⅱ巻 人文書院,1976年
澤井繁男監修『アニメ・コミックから読み解く錬金術』宝島社,2004年
澤井繁男著『ルネサンス再入門』平凡社新書,2017年
澤井繁男著『自然魔術師たちの饗宴』春秋社,2018年
パラケルスス著 大槻真一郎 澤元亙訳『奇蹟の医の糧』工作舎,2004年
知の革命史 6 村上陽一郎編『医学思想と人間』朝倉書店,1979年
澤井繁男
1954年、札幌市に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
作家・イタリアルネサンス文学・文化研究家。東京外国語大学論文博士(学術)。
元関西大学文学部教授。著者に、『ルネサンス文化と科学』(山川出版社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『自然魔術師たちの饗宴』(春秋社)、『カンパネッラの企て』(新曜社)など多数。訳書にカンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会・特別賞受賞)などがある。