季節の有職ばなし
●立春の若水
立春の日には、「春水」「若水」を汲むという風習がありました。
『年中行事障子』
「立春日。主水司献立春水事。」
『平知信朝臣記』(平知信)
「天承元(1131)年十二月廿三日、立春正月節也。主水女官献立春水。居折敷高坏、女官率采女、昼御座間簀子敷小筵一枚為下敷供之。庁給禄云々〈匹絹〉。」
具体的には……。
『公事根源』(一條兼良/室町後期)
「供若水 立春日
若水といふ事は、去年御生気の方の井を点じて、蓋をして人に汲ませず、春立つ日、主水司内裏に奉れば、朝餉にて是れをきこしめすなり。あら玉の春立つ日これを奉れば、若水とは申すにや。年中の邪気をのぞくといふ本文あれば、殊更是れを供ずるなり。江帥匡房卿の次第には、若水をのむ時。咒を唱ふる事ありと見えたり。」
立春の日に汲んだ「若水」を飲むと、一年の邪気を払う、とあります。いま「若水」というと、元日の朝に最初に汲む水、ということになっていますが、本来は立春の日の水であったわけです。
『本朝食鑑』(人見必大/1697年)
「節気水、本邦上下、通俗正月元日平旦新汲井華水、謂之若水。或曰弱水、若者少也。如少壮之少、以老衰変作少弱之義歟。所謂今暁先汲若水、盥漱沐浴及用茶酒朝炊。則変老作少、送旧迎新也。古者主氷司献立春新汲水、号曰若水。以供天子之朝餉、言辟一歳之邪気。此擬神水乎。近世元日亦用之。下俗不用立春水也。」
江戸時代初期にはもう元日の水だったみたいですね。
ところで、いわゆる「養老の滝」伝説はご存じでしょう。今は孝行息子のために滝の水が酒になった、というお話になっていますが、本来はアンチエイジング効果がある霊泉発見ということで、時の帝、元正天皇(女帝)が大変気に入ったと記録があります。
『続日本紀』
「養老元年(717)十一月癸丑《十七》。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃国不破行宮。留連数日。因覧当耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛処。無不除愈。在朕之躬。甚有其験。又就而飲浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自余痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飲之者。痼疾平愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。(中略)改霊亀三年。為養老元年。」
おお、「飲浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自余痼疾。咸皆平愈。」ですって。年号を「養老」に変えるほどの効果があったのでしょうね~。その霊水を立春の日に汲んで、酒を造ったら本当に不老長寿に効きそうです。はい、ちゃんとやってます。
「養老元年十二月丁亥、令美濃国。立春暁挹醴泉、而貢於京都、為醴酒也。」
いま、各地の日本酒の酒蔵ではこの風習を元にして、「立春朝搾り酒」を作っておいでです。立春の日の朝に搾りあがったばかりのお酒をその日のうちにお届け。立春朝搾りに参加した日本名門酒会加盟の酒販店で限定販売される、という貴重品。
画像は養老神社境内の「菊水霊泉」。元正天皇が気に入った泉はこれと言われています。
●富士山
2月23日は「2、2、3」で「富士山の日」だそうです。
本当に富士山というのは、他の山とは比較にならない素晴らしさがありますね。
『更級日記』(菅原孝標女/平安中期)
「これよりは駿河なり。よこばしりの関の傍に岩壺といふ所あり。えもいはず大なる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清くつめたき事かぎりなし。
富士山はこの国なり。わが生ひ出でし国にては、西面に見えし山なり。その山の様、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山のすがたの、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなく積りたれば、色濃き衣に白き衵(あこめ)着たらむやうに見えて、山の頂のすこし平ぎたるより煙は立ちのぼる。夕暮は火の燃え立つも見ゆ。 」
『更級日記』の作者である「菅原孝標女」の父、菅原孝標は、上総や常陸の国司を歴任しました。『更級日記』の当該場面は、寛仁四年(1020)に菅原孝標が任期を終えて京に帰る道中を描いたもの。作者は関東で育ったので、「わが生ひ出でし国にては、西面に見えし山」となるわけです。千年前も、「その山の様、いと世に見えぬさまなり」と、今の世、新幹線に乗って眺める私と同じ感慨というのも素敵なことです。「色濃き衣に白き衵着たらむやう」なんていう描写も、今と全く同じですね。そして「衣(きぬ)」は裾長、「衵(あこめ)」は裾短であることも、こんなことからわかります。
ただ異なる点が「煙は立ちのぼる。夕暮は火の燃え立つ」というところ。噴火していたのですね。それから250年経過した鎌倉時代になると……。
『十六夜日記』(阿仏尼/1283年)
「富士の山を見れば煙たゝず。むかし、父の朝臣にさそはれて、いかになるみの浦なればなど詠みし頃、遠江の国までは見しかば、富士の煙の末も、朝夕、たしかに見えしものを、いつの年よりか、絶えしと問へば、定かに答ふる人だになし。」
作者が若い頃は煙を立てていたが、最近は見えない、とあります。富士山はこうして平安時代を通して、何度も噴火活動を繰り返しました。
『日本後紀』
「延暦十九年(800)六月癸酉《六》。駿河国言。自去三月十四日、迄四月十八日、富士山巓自焼。昼即烟気暗瞑、夜即火光照天。其声若雷、灰下如雨。山下川水、皆紅色也。」
この延暦噴火の64年後、また大きな噴火が起きました。それが、東日本大震災の三陸津波と酷似しているといわれる、貞観十一年(869)の貞観地震の5年前、貞観六年(864)の貞観噴火です。
『日本三代実録』
「五月廿五日庚戌。駿河国言。富士郡正三位浅間大神大山火。其勢甚熾。焼山方一二許里。光炎高廿許丈。大有声如雷。地震三度。歴十余日。火猶不滅。焦巌崩嶺。沙石如雨。煙雲鬱蒸。人不得近。大山西北。有本栖水海。所焼岩石。流埋海中。遠卅許里。広三四許里。高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。」
「七月十七日辛丑。甲斐国言。駿河国富士大山。忽有暴火。焼砕崗巒。草木焦熱。土鑠石流。埋八代郡本栖并剗両水海。水熱如湯。魚鼈皆死。百姓居宅。与海共埋。或有宅無人。其数難記。両海以東。亦有水海。名曰河口海。火焔赴向河口海。本栖剗等海。未焼埋之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難弁。然後有此災異焉。」
この大噴火の溶岩流により、富士山北部に大きく広がっていた「剗(せ)の海」が埋没し、現在の西湖と精進湖が生まれました。また青木ヶ原樹海は、その溶岩台地の上に生えた森です。その噴火規模の大きさが判ろうというものです。
記録を見ますと、貞観地震の前後に、阪神や上越の大地震と類似した地震が発生しています。かなり当時の状況をなぞっている現状を考えますと、富士山がいつ噴火してもおかしくはなく、むしろ近日中に噴火するもの、と考えておかなければなりません。被害もさることながら、富士山が今のままの美しい姿を保っていてほしいと、木花咲耶姫に祈るばかりでございます。
次回配信は、2月21日予定です。
八條忠基
綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。