季節の有職ばなし
●洋服の日
11月12日は「洋服の日」です。明治五年(1872)、官員の礼服を和装から洋装に改める布告が出た日を記念して、全日本洋服協同組合連合会が、百周年に当たる1972年に制定したものです。
『明治5年11月12日 太政官布告第339号』
「今般、勅奏判官員及非役有位大礼服、並上下一般通常ノ礼服、別冊服章図式ノ通被相定、従前ノ衣冠ヲ以テ祭服ト為シ、直垂狩衣上下等ハ総テ廃止被 仰出候事。
但、新製ノ礼服所持無之内ハ、礼服着用ノ節、当分是迄ノ通、直垂上下相用不苦候事。」
明治維新にあたり、欧米列強に対抗するために日本の文化風俗を一新することが考えられました。しかし服装は二次的なこととされ、「ゆっくり考える」とされました。
『慶応3年12月24日 太政官布告』
「冠以下官服類、追々制度可被立候得共、先夫マテノ所、従来ノママ着用可有之旨、被仰出候事。」
この間に、服制に関する様々な珍奇な提案がなされています。しかし当面用いられたのが「直垂(ひたたれ)」でした。
『明治2年1月2日 太政官達』
「五官ヘ達
来ル四日政始 七日白馬節会 十六日踏歌節会
右三ケ日、徴士参朝ノ輩、三等官以上衣冠或直垂、四等五等官直垂、六等以下麻上下着用候事。」
けれども最終的には、こうした古い装束は一新されることになります。まず明治天皇自身が「朕今断然其服制ヲ更メ其風俗ヲ一新シ祖宗以来尚武ノ国体ヲ立テント欲ス」との勅諭を出され、断髪・洋装をされたのが明治4年9月4日。そして翌年の11月12日、すべての官員(国家公務員)および有位者の礼服が、洋式の大礼服になったのです。とはいえ……。
「但、新製ノ礼服所持無之内ハ、礼服着用ノ節、当分是迄ノ通直垂上下相用不苦候事。」
大礼服は調製にお金が掛かるので、持っていない者は当分の間、今までの直垂で良いよ、としています。また祭服とされた衣冠も持っていない者には……。
『明治6年2月7日 太政官布告第41号』
「従前ノ衣冠ヲ以テ祭服ト可致旨、被仰出候処、衣冠所持無之輩ハ、狩衣直垂浄衣等、相用候儀不苦候事。」
狩衣や直垂でも構いません、ということです。
こうした急激な文明開化についていけない老人たちも当然いました。特に千年以上も装束に馴染んできた公家たちは、いきなり洋服というのには抵抗があったようです。維新の功労者の一人、大原重徳さん(72歳)は、膝が痛くてズボンでは参内できない、今まで通りの装束で参内させてほしいと願い出、これが認められました。
『明治6年12月31日 太政官達』
「従二位大原重徳ヘ特典ヲ以テ旧礼服ヲ著スルヲ許ス
東京府伺
別紙願大老ノ儀ニモ候間御聞済可被下候願書差出相伺候也
別紙願ノ趣無余儀次第ニ付特別ノ訳ヲ以被聞食届候旨可相達事
従二位大原重徳願
当十月限迄礼服被廃ニ付テハ、製服著用勿論ノ所、近頃足痛ノ症ヲ発シ、屈伸自由ヲ不得ヨリ、何分身体ニ相通セス困苦仕候ニ付、来春朝拝并宴会等ノ節、不参ノ外無之。且今後御祝日等参内ノ儀難相成次第。重徳年既ニ七秩ニ余リ居候儀ニ付、実以残念ノ至ニ存候。依之、何卒格別ノ御詮議ヲ以テ、痛所本快迄ノ所、従来ノ礼服著用御免被仰付候様、伏シテ懇願仕候。此段宜御取成ノ程、偏奉希上候。以上。」
しかし、これが認められたことで、公家や旧大名たちはこぞって同じような請願をします。面白いのは願書がほとんど同じような文章であること。みんなで回覧して作文していたことが想像され、なにか微笑ましいくらいです。
けれど、こうしてなし崩しのように新しい服制が復古してしまうのを危惧した太政官は、「もう認めない」と宣言します。
『明治8年3月30日 太政官達』(抜粋)
「抑大小礼服制度アル以上ハ、老年病気等ヲ以テ漫ニ之ヲ換用セシムルノ理アルコトナシ。若シ大小礼服ハ、身体ノ屈伸ニ便ナラストスルカ。従前ハ大礼ニ束帯ノ制アリ。是亦当時屈伸ニ便ナラサルヲ以テ、請願ニ任セ換用被差許候コトアルヲ聞カス。況ンヤ今日ノ大小礼服之ヲ従前ノ束帯ニ比スレハ幾分ノ簡便ニシテ、屈伸ニモ自在ナルニ於テヲヤ。且夫レ衣冠直垂ハ当今祭式ノ為メ被立置候服制ニシテ、老病者ノ為ニ旧制ヲ存シ置カルゝトノ御旨意ニ無之。夫ノミナラス、服章ヲ定メ人ニ栄誉ヲ与フルハ君主特権ノ一部ニシテ、人臣タル者ノ請求ニ任セ之ヲ変換セシムヘキ者ニアラス。」
「洋服は屈伸に不便と言うが、今までの束帯より洋服のほうが屈伸に便利じゃないか。そもそも服制は天皇陛下が定めたもので、一般人が勝手に請願して変えるようなものじゃないぞ」
ということです。ま、時代背景を考えれば仕方がなかったでしょうね~~。
画像は、勅任文官大礼服(明治19年制式)と奏任宮内官大礼服(明治44年制式)。誰がデザインしたものか、金モール刺繍は桐唐草や菊折枝など、伝統の有職文様に配慮したものが採用されました。
右:奏任宮内官大礼服
●珍味
11月23日は「珍味の日」だそうです。11月に行われる「新嘗祭(にいなめさい)」で山海の珍味が供えられることと、「い(1)い(1)つ(2)まみ(3)」の語呂合わせなのだそうです。「珍味」という言葉は、大昔から「美味しい御馳走」という意味で使われてきた単語です。
『古事記』
「将来其玉置於床辺、即化美麗嬢子、仍婚為嫡妻。爾其嬢子常設種種之珍味。恒食其夫。」
『続日本後紀』
「嘉祥二年(894)十月癸夘《廿三》。嵯峨太皇太后遣使奉賀天皇四十宝算也。其献物。(中略)黒漆棚厨子四十基<廿基盛菓子唐餅。廿基盛鮮物乾物>。凡厥山海珍味数百捧。既而天皇御紫震殿。音楽遞奏。歓楽終日。賜諸大夫禄。」
「山海の珍味」という言葉は、平安時代からあったのですね。参加者が1品ずつ酒肴を持ち寄る宴会「一種物(いっすもの)」でも「魚鳥珍味」という単語が登場しています。
『日本紀略』
「康保元年(964)十月廿五日丁卯、有政。是日、於左近陣座諸卿有一種物、魚鳥珍味毎物一両種、於中重調備之。参議雅信、重信、儲菓子飯。本陣儲酒。自殿上蔵人所給菓子等。左大臣。実頼。早退出、不預此座。少納言、外記史同預之。」
『小右記』(藤原実資)
「長和三年(1014)十月十一日。甲子。今日造宮始、左大臣二条家造立数屋。(中略)。卿相雲上侍臣参皇太后宮、可有飲宴。皆可提一種珍味云々。」
珍味でお酒を飲むのは良いのですが、飲み過ぎは禁物。
『小右記』(藤原実資)
「長元元年(1028)十一月十五日。乙巳。(中略)中将来、語次云。一日侍臣等於頭中将(顕基)宿所、以章(源)任五節所珍味為肴飲酒。尽以泥酔。遊戯之間各破罸。遞破罸脱衣被左近府生時頼。事及天聴。被召問云々。」
新嘗会の五節所の珍味を酒の肴にして泥酔。ついには「脱衣」(裸踊り?)までする始末で、天皇から直接お小言を頂戴しているようでございます。わたくしも今宵は飲み過ぎは禁物と自戒いたしましょう。女性もおいでの席なので、くれぐれも「脱衣」は厳禁でございます(笑)。
画像は『類聚雑要抄』などに見られる公卿の膳の珍味。
●チーズの日
11月11日は数字の並びが面白いので、さまざまな「○○の日」になっていますが、「チーズの日」でもあります。なぜ11月11日が「チーズの日」なのでしょうか。それは「文武天皇が西暦700年10月に「蘇(そ)」の製造を命じたから」なのだそうです。これを新暦に換算して11月とし、さらにゾロ目で覚えてもらいやすい11日にした、という非常に苦しいものです。
文武天皇四(700)年の10月に「蘇」の製造を命じたという記録は公史『続日本紀』には載っていません。根拠はこれです。
『政事要略』(惟宗允亮・1002年)
「貢蘇事。本草云、酪蘇微寒。補五蔵利大腸。主口瘡。注云。蘇出外国。亦従益州来。本是牛羊乳所為作也。(中略)右官史記云。文武天皇四年十月、遣使造蘇。」
現存していない『右官史記』という公文書に書いてある、というわけです。
よく知られているように、飛鳥から平安時代には朝廷が国家事業として乳製品製造を奨励していました。「蘇」というのは「酥」の当て字。
『和名類聚抄』(源順・平安中期)
「酥 陶隠居本草注云、酥<音與蘇同。俗音曽>。牛羊乳所為也。」
「酪 通俗文云、温牛羊乳、曰酪<盧各反乳酪。和名迩宇能可遊>。
『大般若経』
「譬如従牛出乳 従乳出酪 従酪出生酥 従生蘇出熟酥 従熟酥出醍醐 醍醐最上 若有服者 衆病皆除 所有諸薬」
乳が酪→生酥→熟酥→醍醐となり、醍醐が最上。
『安斎随筆』(伊勢貞丈・江戸中期)
「蘇 大臣ノ大饗ノ時、蘇甘栗使(ソアマクリツカイ)ヲ立ラルヽ事、江家次第、大饗雑事等ニ見エタリ。蘇ハ借音テ書タル也、実ハ酥(ソ)字ニテ、酥酪也。(中略)作蘇之法、乳大一斗煎、得蘇大一升。」
「貞丈云、牛乳ヲ練タルヲ酥酪ト云。更ニ酥酪ヲ精練シタルヲ醍醐ト云。粘テ如脂。白色如雪。其味甘美也。今世俗ニ蛮語ヲ伝ヘテ、ボウトロト云是也。」
乳を10分の1に煮詰めたものが「蘇」であると。これ一体なんでしょうね? 伊勢貞丈は、「醍醐」を「ボウトロ」、つまりバターだと言っているのですが……。現時点では蘇も醍醐も「よくわかっていない」というのが事実のようです。ともあれ乳製品。「七道諸国」(日本全国)あての命令であるように、全国各地で「蘇」が製造されていました。
『延喜式』(民部省)
「諸国貢蘇番次 伊勢国<十八壺七口各大一升。十一口各小一升>。 尾張国<十五壺五口各大一升。十口各小一升>……右八箇国為第一番丑未年。」
「太宰府<七十壺十五口各大一升。卅五口各大五合。廿口各小一升>。右為第五番巳亥年。」
このように、全国を6地域に分けて6年に1回ずつ中央に納めるとなっていました。
『延喜式』(民部省)
「凡諸国貢蘇。各依番次。当年十一月以前進了。但出雲国十二月為限。輪転随次、終而復始。其取得乳者、肥牛日大八合。痩牛減半。作蘇之法、乳大一斗煎、得蘇大一升。但飼秣者頭別日四把。」
貢蘇の期日は11月以前。出雲国だけは(たぶん10月は神事で忙しいから)12月。
『政事要略』
「太政官符七道諸国司 蘇事 右自今以後、納籠進。不須檜杉等櫃。今以状下符。養老六(722)年閏四月十七日。」
諸国からの貢蘇の際、檜や杉の櫃ではなく、籠(おそらく竹)に入れるようにせよという命令です。木箱だと腐りやすいということなのでしょうか。通気性の良い竹籠に入れよという命令。こんなマニアックな記録まで残っているのは素晴らしいことでございます。
次回配信日は、11月15日です。
八條忠基
綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。