『ゴッホ展—響きあう魂 ヘレーネとフィンセント』 東京都美術館

アート|2021.10.5
坂本裕子(アートライター)

コレクターの眼で追うファン・ゴッホの画業

世界中で圧倒的な人気を持つ画家。フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。

 父を継いで牧師を目指すも、過度な熱心さが災いして道を絶たれ、画家になることを決意したのは1880年のこと。
 オランダ各地の村々からパリを経て、南仏・アルルでのポール・ゴーガンとの共同生活が決裂、精神病の発作を起こし、治療のために赴いたオーヴェール=シュル=オワーズで自らを撃って死去するまではわずか10年。

その間に生み出した作品は、油彩・素描あわせて約2000点といわれ、まさにその命を燃焼して駆け抜けた人生といえる。波乱に満ちた生涯も多くの人々を魅了する要素なのだろう。

生前に売れた作品はわずか数点。
 遺された膨大な作品は、パリのオルセー美術館やニューヨーク近代美術館(MoMA)をはじめ、世界各国に収蔵されているが、もっとも充実したコレクションが、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館とオッテルローのクレラー=ミュラー美術館のものだ。

ファン・ゴッホ美術館のコレクションは、兄フィンセントを経済的にも精神的にも支え続けた弟テオを経て、テオの妻ヨーとその息子フィンセント・ウィレムが相続し、散逸を防ぐために財団を設立して美術館に永久貸与されたもの。
 200点を超える油彩画、約500点の素描と膨大な手紙などを擁し、世界最大のファン・ゴッホ・コレクションとなっている。

クレラー=ミュラー美術館は、ファン・ゴッホがその死後、評価の途上にあったころから収集を続けたヘレーネ・クレラー=ミュラーにより設立された。
 彼の初期から晩年までの油彩画83点と素描・版画177点を収蔵しており、こちらも個人としては世界最大のファン・ゴッホ作品のコレクターである。

このヘレーネの収集に焦点をあてて、ファン・ゴッホの作品を紹介する展覧会が、東京都美術館で始まった。

南仏滞在時代のおそらく最後に制作されたとされる傑作〈糸杉〉の《夜のプロヴァンスの田舎道》の16年ぶりの来日を含む油彩画28点と、素描・版画20点に、ファン・ゴッホ美術館所蔵から《黄色い家(通り)》などの特別出品4点の52点のファン・ゴッホ作品が集結。加えてファン・ゴッホ以外の画家の油彩画20点で構成される空間は、適度な作品数で、じっくりと作品に向かい合える。

収集家ヘレーネの感性を通して、時代の空気とともに改めてファン・ゴッホの作品の魅力にアプローチすることができるだろう。

フィンセント・ファン・ゴッホ 《夜のプロヴァンスの田舎道》 1890年5月12-15日頃
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
16年ぶりに来日のファン・ゴッホの傑作の1点。
サン=レミで魅せられた糸杉を彼は繰り返し描く。オーヴェール=シュル=オワーズへ移る前、プロヴァンスで描いた最後の作品と考えられている。
細い筆のタッチでうねるような夜の月星のまたたきがその空気とともに表され、中央に糸杉が天へ向かって伸びていく。その下を行く馬車とふたりの人物。
ファン・ゴッホは風景の中に、労働者たちの生命力や息づかいを描写する。それは、牧師になれなかった彼が、人々を救済するもうひとつの手段として選んだ画家という道に生涯込めた思いであり、糸杉は、教会の尖塔の代替としてその「祈り」をも表すのだろう。

まずは、収集家としてのヘレーネ・クレラー=ミュラーを、その多彩なコレクションから見ていく。

左:ヘレーネ・クレラー=ミュラー ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
右:会場入り口風景 クレラー=ミュラー夫妻が収集したゴッホ作品が一覧できる。

19世紀末に、鉄鋼業と海運業で財をなしたアントン・クレラーの妻となったヘレーネは、移住したオランダで美術教師 ヘンク・ブレマーの講義を受けて美術に目覚め、彼の助言と夫の理解と協力のもと、1907年から近代絵画の収集を始める。
 特にファン・ゴッホの作品には深い精神性や人間性を感じ取り、1908年からおよそ20年間に積極的に作品を集め、世界最大の個人収集家として知られていった。
 その収集は、初期から晩年まで彼の画業をほぼ網羅するものになっているのが特徴だ。

同時に、いつかは美術館として多くの人と共有したいという夢を持っていた彼女は、個人的な好みにとどまらず、西洋美術の流れも考慮しつつ、19世紀半ばから1920年代までの主要な近代絵画を集めている。
 なかでも、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックら新印象派の作品群は世界最大級のコレクションとなり、オランダのデ・ステイルの画家、ピート・モンドリアンも優品揃いといわれる。

ジョルジュ・スーラ 《ポール=アン=ベッサンの日曜日》 1888年
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
色彩理論を推し進め、小さな筆触による点描を並べることで明るく静謐な画面を構築したスーラの秀作のひとつ。縁取りも細かな点描で描かれていることにご注目。
若くして亡くなった彼が遺した作品数は非常に少なく、ヘレーネがこの作品を含み少なくとも4点の彼の油彩画を入手していることは特筆される。
左:オディロン・ルドン 《キュクロプス》 1914年頃
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
ホメロスの『オデュッセイア』に出てくる一つ目の人食い巨人ポリュフェモス。見つめるのは恋したニンフ、ガラテアで、彼は彼女の恋人を殺してしまう。恐怖のシーンながら、どこか切ない巨人のまなざしと、それをも意に介していないようなニンフの姿が印象的。 ヘレーネは最初、この作品に不快感を持っていたが、次第に作品の深みと美しさに惹かれ、多くのルドン作品を蒐集したという。
右:ピート・モンドリアン 《グリッドのあるコンポジション5:菱形、色彩のコンポジション》 1919年 クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
モンドリアンの特徴的な矩形と淡い色彩を組み合わせた抽象画は、赤・青・黄の三原色に固定されない初期のもの。 ヘレーネはここに宗教の代替物としての精神性を感じ取ったというが、それは必ずしも画家の哲学的な思想とは合致するものではなかったようだ。
第2章展示風景から
このほか、ピエール=オーギュスト・ルノワールやカミーユ・ピサロの印象派、ヤン・トーロップなどの象徴主義、フアン・グリスやジョルジュ・ブラックらキュビスムなど、主要な近代絵画の画家たちの秀作が並ぶ。

そして、ファン・ゴッホ作品が画業に沿って紹介される。

 ファン・ゴッホは画家になるにあたり、基本的に独学で技術を習得していったことはよく知られている。
 それは、敬愛するジャン=フランソワ・ミレーらバルビゾン派*の版画作品や教本の素描見本の模写からはじまった。オランダの各地で、農作業や手仕事をする人、養老院の男女など、人物描写に注力する。

何よりも素描の訓練を重視した彼は、オランダを去るまでにその腕を上げ、多くのみごとな作品群を遺している。
 あまり紹介される機会のない素描群が紹介される本展は、その習熟の様子がたどれる貴重なラインナップだ。

*バルビゾン派:19世紀中葉にフランス、パリ郊外の小村バルビゾンに滞在し、そこに存る風景を描いた画家たちの総称

第3-1、3-2章展示風景から
会場は年代ごとに作品が並ぶ。
ヘレーネは、ファン・ゴッホの素描については、初期オランダ時代のものに重点を置いてコレクションしたという。
保存の観点からもあまり頻繁にみることができない素描のコーナーは貴重な機会。 浮世絵の影響を思わせる大胆な構図の風景から労働者や貧しい人々の姿まで、上達の過程を感じられる作品には、描くということに、描く対象に、つねに真摯に向かい合う画家の姿が感じられる。

彼が油彩画をはじめたのは1881年のことで、その後83年に移り住んだニューネンの地で本格的に着手する。
 バルビゾン派やオランダのハーグ派*の影響が強い、暗い色調の油彩画には、訓練として描かれたという静物画や、農夫や織工など労働者の姿が描きとどめられている。

*ハーグ派:19世紀後半にオランダのハーグで活動した画家たちの総称。バルビゾン派から大きな影響を受け、屋外の自然観察を主体に田園の生活や風景を描いた

フィンセント・ファン・ゴッホ 《森のはずれ》 1883年8-9月
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
オランダ時代に描いた森の風景の習作には、ゴッホが「ドービニーやコローのような雰囲気を彷彿とさせるなにか」を探そうとしていたという痕跡を見いだせる。 ヘレーネが最初に入手したファン・ゴッホ作品。
フィンセント・ファン・ゴッホ 《麦わら帽子のある静物》 1881年11月後半-12月半ば
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
ハーグ派の画家、アントン・マウフェのアドバイスを受けて制作した油彩作品。 さまざまな事物をまとめ上げる技術を習得するため、静物画で色彩や質感を描き分けるように、と勧められたというが、オランダ時代の静物画は、色調は暗いものの、単なる訓練でも、単なる写実でもない奥深さをたたえた印象的な作品が多い。

なかなか作品が理解されず、生活も困窮したファン・ゴッホは1886年、画商として働いていた弟テオを頼ってパリへ。
 若い前衛芸術家たちと交流し、印象派や新印象派の作品、日本の浮世絵などと出会い、彼の画風は大きく変貌する。
 明るい色彩や新しい筆遣いを獲得し、静物画に風景画、肖像画を手がけて、仲間内では前衛芸術家として知られるようにもなった。

左:フィンセント・ファン・ゴッホ 《レストランの内部》 1887年夏
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
新印象派の点描に近い実験をした作品のひとつ。この頃の前衛芸術家にとって、カフェやレストランはなじみ深いモティーフであり、ファン・ゴッホもいくつか遺している。人物画家を目指していた彼にはめずらしく室内に人の姿はない。壁の中央には彼の作品が掛けられている。
右:フィンセント・ファン・ゴッホ 《石膏像のある静物》 1887年後半
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
印象派に出会い画面は明るくなっていく。描かれた2冊の本は、タイトルからゴンクール兄弟の『ジェルミニー・ラセルトゥ』とギ・ド・モーパッサンの『ベラミ』とわかる。どちらも彼が敬愛した作家だった。父の死に際して聖書の静物画を描いたように、ファン・ゴッホにとって本はつねに重要な意味を持っていた。

画家としての自信を深め、さらなる光と表現を求めて、1888年2月に南仏へ向かう。
 そこには、彼がイメージした「日本」の明るさと色彩があり、画風は燃えるような鮮やかな青と黄が輝く生命感のあふれるものになっていく。
 さまざまな試行錯誤を経て彼が獲得した「ファン・ゴッホの絵」の誕生だ。

フィンセント・ファン・ゴッホ 《糸杉に囲まれた果樹園》 1888年4月
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
2月、アルルを訪れたころは雪の寒い季節であり、ようやくほころんできたアーモンドの花が、彼にとっては理想のアルルの象徴となる。花咲く木の主題はその延長ともいえ、当初この作品は3幅対にする構想だったという。宗教画にみられる形式を「花咲く木」のモティーフで考えていたところに、自然の生命力に「祈り」の想いを込める彼の意識が感じられるかもしれない。力強くもやさしい空気に包まれた作品。
フィンセント・ファン・ゴッホ 《レモンの籠と瓶》 1888年5月
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
野心的な色彩の実験を試みた静物画のひとつ。黄色の変奏の中、青と赤の線がとても効いている。以後、この赤と青と黄を軸に彼の色彩はより自由に、革新的に目覚めていく。
フィンセント・ファン・ゴッホ 《種まく人》 1888年6月17-28日頃
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
生涯、師と仰いでいたミレーの《種まく人》の変奏とも、オマージュともいえる作品は、青紫色の大地と黄色い太陽、黄金色の麦の補色の関係が強烈な輝きを放つ。生命をはぐくみ、明るさと温もりをもたらす太陽は、彼にとって「神」のような存在として、もうひとつの重要なモティーフであった。農民の生活を象徴する「種まく人」と「神」としての太陽、それは、やはり「祈り」のひとつの表象としてとらえられよう。

彼が夢見た画家の共同生活の場にゴーガンが合流した10月には、互いに影響を与えあいながら共同制作を行うも、わずか2か月で破綻する。
 発作を起こした彼は、治療の必要性を感じ、自らアルルを離れる決心をする。1889年5月のことだった。

第3-3-3章展示風景から
晩年の代表作が並ぶ空間は圧巻。
ゆったりと間隔を取って展示されているので、焦らず、自由にフロアを回遊して。
フィンセント・ファン・ゴッホ 《黄色い家(通り)》 1888年9月
ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵
©Van Gogh Museum, Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)
ファン・ゴッホ美術館から来日した1点。
アルルに芸術家たちの共同制作の場「南仏のアトリエ」をつくろうと、ファン・ゴッホが借り、12枚の「ひまわり」を描いて各部屋を準備していた黄色い家。南仏の太陽と同じく黄色い家は、ファン・ゴッホにとってはまさに理想の建物だったろう。画面からは明るい希望が感じられる。 ここでゴーガンとの共同生活を送るが、互いの個性の違いの緊張に耐えられなくなったファン・ゴッホが「耳切り事件」を起こし、わずか2か月で瓦解、その後、彼の闘病生活が始まる。

サン=レミ郊外にある療養院に入院したファン・ゴッホは、体調がよい時にはそこの庭や周囲の田園風景を描く。
 はじけるような色調は抑制され、糸杉やオリーヴ園などのプロヴァンスに特徴的なテーマの傑作が遺された。

フィンセント・ファン・ゴッホ 《サン=レミの療養院の庭》 1889年5月
クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
サン=レミ時代の傑作のひとつで、彼が約1年を過ごした療養院の庭を描いたもの。
あまり整備されていない庭に生い茂る自然は圧倒的な生命力をたたえ、その草いきれまで感じられる。彼の喜びがあふれた一作だ。
滅多に自作にサインを入れない彼が、右下に署名を入れていることから、この作品には自らも満足したことがうかがえる。
フィンセント・ファン・ゴッホ 《悲しむ老人(「永遠の門にて」)》 1890年5月
  クレラー=ミュラー美術館蔵 ©Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands
サン=レミでファン・ゴッホは、ミレーやドラクロワの版画や自身の作品を模写したり、油彩にしたりするようになる。それは、自らの絵をもう一度見直す作業であったのだろう。 悲しみに暮れる人物像は、オランダ時代の素描で多く描いているが、この作品もその時代の版画を模写したもの。躁鬱を繰り返す自分の姿の反映でもあったかもしれない。
彼のこの画題を大変好んでいたヘレーネに、結婚25年の記念日に、夫のアントンがサプライズでプレゼントした作品で、「世界一美しくて、大きくて、高価な真珠のネックレスをもらったとしても、私はこれほど幸せではなかったでしょう」と喜んだヘレーネは、この作品のために壁紙を張り替えたという、温かくもゴージャスなエピソードを持つ。

1890年5月には、ガシェ医師を頼って北仏のオーヴェール=シュル=オワーズへ移り、その地の風景や人物を、新しい様式で描いていく。
 強い色彩コントラストや自由な筆遣いでさらなる展開をみせていた画家だったが、7月27日に自らを撃ち、2日後、パリから駆けつけたテオに看取られて世を去る。

オランダでたどたどしくスタートしたファン・ゴッホという画家が、サン=レミからオーヴェール=シュル=オワーズで生み出した作品は、さまざまな先達から吸収しながらも独自の表現を獲得し、まだ「これから」を思わせる。
 その根底には、豊かな自然とそこに寄り添う人間の営みへのまなざしがあり、世界への祈りがある。
 コレクションを多くの人に公開し、その感動を分かち合い、後世へと残すことをめざしたヘレーネが感じ取ったという彼の作品の精神性は、ここで響きあっているのかもしれない。

展覧会概要

『ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント』 東京都美術館

オンライン・プレイガイドでの日時指定予約が必要となります。
また、新型コロナウイルス感染症の状況により会期、開館時間等が
変更になる場合がありますので、必ず事前に展覧会ホームページでご確認ください。

会  期:2021年9月18日(土)~12月12日(日)
開室時間:9:30-17:30(入室は閉室の30分前まで)
休 室 日:月曜日
     ただし11月8日、22日、29日(各・月)は開室
観覧料:一般2,000円、大学生・専門学校生1,300円、65歳以上1,200円
     高校生以下は無料(要日時指定予約)
     身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳
     もしくは、被爆者健康手帳をお持ちの方とその付添者1名は無料
     (日時指定予約は不要)
     未就学児は日時指定予約不要
問 合 せ:050-5541-8600(ハローダイヤル)

展覧会サイト https://gogh-2021.jp

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