第2回 有職覚え書き

コラム|2021.8.10
文=八條忠基

季節の有職ばなし

●四天王寺万燈会

8月、大阪の四天王寺で「万灯会(まんどうえ)」が行われます。現在は「盂蘭盆会万灯供養法要」としてお盆の時期に行われていますが、平安末期の後白河法皇も同じように行っていました。

『百錬抄』
「文治二年(1186)八月十三日丙戌。法皇御幸天王寺。三七日籠御也。可被修御逆修并万灯会云々。」

「万灯会」は、文字通りたくさんの灯明をともして仏様を供養し、人々の罪障を懺悔し、滅罪を祈願する法会です。平安時代は特にお盆の行事ということではなく、不定期に行われました。後白河法皇も盂蘭盆会で御幸をしたわけではありません。万灯会の様子を華やかに描いているのがこれです。治安三年(1023)、藤原道長が法成寺(御堂)で催した万灯会。

『栄花物語』(御裳ぎ)
「四月十日の程に(は)、御堂に万燈会せさせ給はんとおぼしめして、親しき、疎きにも、殿ばらに『火ともすべき灯台一基して賜らん』と申させ給へば、院より始め奉りて、皆我も我もと劣らじ負けじとし騒がせ給。」

「我も我も」と参加していますね。しかも灯明は単なる明かりではなく、凝りに凝ったデザインの灯籠が設置されました。

「その日になりて皆参り集りて、御堂御堂の経蔵・鐘楼まで皆あけ開かせ給へり。いみじう払ひみがゝせ給へる池の廻には、宝樹どもを廻りて立て竝めさせ給へり。七宝をもて皆造りたり。それに皆銀、黄金の網をかけて、火をともしたり。車輪灯には車の形を造り、水車の形を造り、羅網灯とては、或は村濃の組色々にして結び渡し、孔雀、鸚鵡、伽陵頻などの形を造りてともしたり。池には色々の蓮を造りてそれが上に灯し、又各仏現れ給、その光にともしなし、又鴛鴦や鴨や水鳥やなどの事どもをしたり。又宝幢の形、衣笠、華鬘(など)の形にともしたり。」

いやもう、御堂関白・道長の、栄耀栄華が伝わります。

「法興院の万灯をこそ、いみじき事に人は言ひしかど、これはいと殊の外にいかめしうめでたし。阿闍世王の十万石の油して為けんにも、これはまさゞまに見えたり。又の日のつとめてまでなん燃えける。御堂御堂の仏の照され給へるは、東方の万八千の世界までも照さるらんと見え給へり。かくてこの頃は、これをいみじき事に世人も申思へり。」

寛弘元年(1004)3月13日、道長が法興院で催した万灯会も素晴らしかったが、それを上回る素晴らしさと褒め称えております。おそらく道長の絶頂期であったことでしょう。

四天王寺は聖徳太子の創建で、日本仏法最初のお寺。四天王寺の近所では交通安全の「飛び出し太子」を見かけるほど、太子への敬愛が深いのです。

飛び出し太子

●蓮葉飯

盂蘭盆会は旧暦の7月15日の行事でしたが、新暦では「月遅れ」として8月15日に行われることも多いようです。「盂蘭盆」はそもそもインドの仏教にはない風習です。中国道教の「中元」(地獄の帝でもある「地官大帝」の誕生日で、死者の罪障赦免を願うもの)と融合し、これが中国の仏教に導入され、「目連尊者の母供養」説話と組み合わされて、本来の仏教にない風習、先祖供養としての「盂蘭盆会」が創造されたわけです。盂蘭盆に相当する法要は、日本では大和朝廷の時代に始まっています。

『日本書紀』
「推古天皇十四年(606)夏四月乙酉朔壬辰〈八日〉。銅繍丈六仏像並造竟、是日也。(中略)即日設斎、於是会集人衆、不可勝数。自是年初、毎寺、四月八日、七月十五日設斎。」

7月15日に仏事が行われているのですが、「盂蘭盆」という単語は出てきません。初出はもう少し後。

「斉明天皇三年(657)七月(中略)辛丑<十五>。作須弥山像於飛鳥寺西。且設盂蘭盆会。暮饗覩貨邏人。〈或本云。堕羅人。〉」

そして、奈良時代には宮中行事として整備され、そのための食膳の用意が命令されています。

『続日本紀』
「天平五年(733)七月庚午<六>。始令大膳要備盂蘭盆供養。」

このとき命じられた、古代の盂蘭盆料理として特徴的なものは「荷葉飯(かようはん)」です。

『延喜式』(大膳職)
「七寺盂蘭盆供養料、〈東西寺、佐比寺、八坂寺、野寺、出雲寺、聖神寺、〉寺別、餅菜料、米一斗四合、糯米二斗、(中略)荷葉三百枚。」

たくさんの材料が列記されていますが、最後に登場する「荷葉三百枚」はハスの葉。そう、これは「荷葉飯」(蓮葉飯)を作る材料なのです。

『教言卿記』(山科教言)
「応永十二年(1405)七月十五日晴戊申、(中略)蓮葉飯事。子孫賞翫、珍重々々。」

『日次紀事』(黒川道祐・江戸前期)
「〈七月〉十五日、供御荷(ハスノ)御膳〈御厨子所小預高橋大隅等調進、其製以荷葉裹糯米強飯、以観音草結之。又別御菜十種以荷葉裹之、以観音草結之。各居御盤、同被進于院中〉。」

『後水尾院当時年中行事』(後水尾天皇・江戸初期)
「〈七月〉十五日。(中略)夕方の御いはひ御三間にて参ル。(中略)初献〈はすのく御〉次に二の御はん、次に御汁〈とり〉、次にてうし出、はいぜんの人はすの供御の緒をときて引ひろげ、又ちひさく包たる品々物のうち、けふは御さうしんなれば、精進の物を一種、是も緒をといてひろげ、御はしをとらせ給ひて参る。」

現在、蓮葉飯はほとんど作られていないのではないのでしょうか。中華料理では、いわゆる「中華ちまき」的に作られていますが、一般にはあまり見かけません。ただし宮中では近年になって復活したようです。

蓮葉飯(かようはん)

●粉熟

平安時代、8月の末日が「帝に粉熟を差し上げる最終日」でした。

『延喜式』(内膳司)
「造粉熟料 白米四石。大角豆一石八斗。漉粉薄絹袋。水篩各二口。袋各長六尺。篩各一尺五寸。干粉暴布帳一条。長三丈。帊水瓶暴布一条。長四尺。挙粉暴布袋二口。各長六尺。水瓶麻笥一口。酒槽一隻。由加二口。杓一柄。席二枚。簀二枚。薪日別卅斤。
 右起三月一日。尽八月卅日供之。」

3月1日から8月30日まで、内膳司が「粉熟(ふずく)」を作ったのです。さて「粉熟」とは何でしょうか。

『和名類聚抄』(源順・平安中期)
「粉熟 弁色立成云、粉粥〈以米為之、今案粉粥即粉熟也〉。」

米で作る「粉粥」が「粉熟」であるとしていますが、具体的にはわかりません。

『西宮記』(源高明・平安中期)
「〈八月〉定考 上卿已下著朝所。(中略)三献之後居粉熟飯〈近年献居粉熟、三献居飯、(中略)〉数巡後居餅餤。」

『源氏物語』(宿木)
「宮の御前にも浅香の折敷、高坏どもにて、粉熟参らせたまへり。女房の御前には、衝重をばさるものにて、桧破籠三十、さまざまし尽くしたることどもあり。」

『執政所抄』(平安末期)
「御節供事、殿下御料<朱器>(中略)粉熟<在小角豆汁>」

「唐菓子」と同様の特別なご馳走であったことは確かですが、その実態が今ひとつわからないのです。……さて、肝心な作り方です。穀物の粉を何かするのはわかるのですが……。

『厨事類記』(鎌倉初期?)
「粉熟餅餤〈スルヤウ、モチイノホシ飯ノコ〉」
「粉熟。又云粉粥。」

「粉粥」とあって、よくわかりません。ただ、糯米の干し飯を粉にしたものが原料のようです。詳しいレシピ的なものの初出は室町時代。これが平安時代と同じかどうかはわかりませんが……。

『原中最秘抄』(室町前期)
「ふずくとは粉熟也。稲、腅麦、大豆、小麦、胡麻、此五穀を五色にかたどりて、粉にして餅になして、ゆでゝ甘葛かけてこねあはせて、ほそき竹の筒をして、その中に堅くをし入て、しばしをきて突出して、其勢双六の調度のごとくまなぶべし。」

五穀を粉にして餅にして茹で、甘葛の汁とこね合わせ、竹筒の中に押し入れて突き出し、双六の駒サイズに切る、とあります。これだけの情報ですと、つまり「ういろう」のようなものですね。そして「粉熟」は五色だったようです。

「五穀は式たりといへども、五色をそなへたるあひだ、色々をみせんとおもふには、青色にははゝこの草餅。若は米の粉をうつし、花をときて染てかたむべし。黄なる色には粟を色こき苅安にても支子にても、そめてかたむべし。赤き色には小豆、白き色には米、黒き色には胡麻たるべし。衝重に土器をすへて、青黄赤白黒と、かみより次第に、たかさ三四寸がほどすゑひろにもるべし。其中に銀もしは瑠璃のごときなどに、甘葛に麝香をすこしすりて入くはふべし。又此五種を、めしに随てあまづらをそへて、一二づゝなどとりわけてまいらする事あり。」

3月から8月まで、暖かいときのデザートとして楽しまれたもののようです。
(次回掲載は、8月24日です)

粉熟(ふずく)

八條忠基
綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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