特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」 東京国立博物館

アート|2023.7.26
坂本裕子(アートライター)

古代メキシコの世界観と造形。その魅力と意味

 日本とメキシコ。ほぼ地球の反対側に存在する2国は、今年、外交樹立から135周年を迎えた。1897年に榎本武揚の「榎本移民団」が初の日本人入植者として記録されるが、交流としては江戸時代初期まで遡り400年を超えるほどに日本との関係は深い。

 この記念ともなる特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」が東京国立博物館 平成館で開催中だ。

 16世紀の大航海時代にスペインに見いだされ、その侵攻を受けるまで、メキシコは、紀元前15世紀から独自の文明を発展させてきた。
 現在、35もの世界遺産を誇るこの国で、特に人気が高いのがこうした古代の遺跡群である。
 本展覧会では、そのうちでも代表的な3つの文明が紹介される。
 紀元前1世紀から紀元後6世紀まで、メキシコ中央高原に巨大な計画都市を築いたテオティワカン文明。
 紀元前1200年頃から、王侯貴族を中心に暦や精緻な文字などの高い知識をもって広範な地域に栄えたマヤ文明。
 そして、1325年に首都テノチティトラン(現メキシコシティ)を築き、軍事力と貢納制を背景に繁栄を極めたアステカ文明。
 

 火山噴火や地震、干ばつ、高原の気候や湿地帯の多い風土など、厳しい自然環境のなかで、人びとはその自然を司る神々を畏怖し敬いながら、三大ピラミッド(テオティワカン)、王と王妃の墓(マヤ)、大神殿(アステカ)といった、それぞれの文明を象徴するモニュメントを遺した。
 多様な環境下における自然信仰は独自の世界観と造形美を生み出し、いまだ解明されない謎とともに、われわれを魅了する。

 本展では、メキシコ国立人類学博物館をはじめ、テンプロ・マヨール博物館、テオティワカン考古学ゾーンなど、メキシコ国内の主要博物館から厳選された古代メキシコの至宝約140件が集結する。
 なかでも、マヤの代表的な都市国家パレンケの黄金期を築いたパカル王の妃とされる「レイナ・ロハ(赤の女王)」の出土品の初来日が特筆される。
 赤い辰砂に覆われて見つかったことから通称がついた高貴な女性の埋葬品は、メキシコ国内とアメリカ以外では初めての公開となる。

 近年の発掘調査の成果も交えて紹介される空間は、それぞれの古代遺跡の写真や映像を駆使し、遺物としてのみならず、遺跡そのものの迫力を感じられる臨場感にあふれる工夫が楽しい。

 古代、メキシコや中米に「メソ(核)アメリカ」と呼ばれる文化要素を共有した文明圏が創られていったなかで、紀元前1500年頃、メキシコ湾岸沿いにメソアメリカ文明の母体といわれるオルメカ文明が開花する。
 この文明における儀礼と結びついた王権や多様な神々の概念などが、その後各地で興る諸文明のなかに受け継がれていく。

 第Ⅰ章「古代メキシコへのいざない」では、オルメカ文明の象徴的なヒスイの石偶を導入として、マヤ、アステカ、テオティワカンに通底する4つの要素を学ぶ。

 ひとつめはトウモロコシ。
 トウガラシやトマトと並びこの地方を代表する栽培植物であるトウモロコシの起源は紀元前7000年頃まで遡るという。数千年の栽培化の過程を経て、もっとも重要な主食となると、定住村落が生まれ、トウモロコシは政治や宗教上でも重要な意味を帯びて、メソアメリカ特有の世界観の一要素を構成する。

 ふたつめは天体と暦。
 食物の栽培において、この地では雨季と乾季の変動を予測することが最重要であり、天体の観測とそれらの周期による暦が発達する。
 太陽はもとより、月、金星、日食・月食の周期を正確に把握し、太陽暦のほかに人間のサイクル(妊娠期間)でもある金星の周期260日をもとにした宗教暦などを生み出して、特異な宇宙観を形成していく。長期暦のような歴史の記録に使用されるものも発達した。

 3つめは球技。
 オルメカ文明以前からゴムボールを使用した多様なゲームが専用球技場で行われていたそうだ。それは、ゲームであると同時に、宗教儀礼や外交使節を迎えての儀式、あるいは賭けの対象ともなって、多層な意味を持ち、さまざまな造形に表されている。

 4つめは人身供犠。
 古代メキシコの世界観では、あらゆる生命体は神々の働きと犠牲により生かされていると考えられていた。このため、動植物も人間も、世界の存続のために自らを捧げる。現代からみると残酷で恐ろしい風習も、食物連鎖に則した利他行動であったといえる。同時に往々にして残虐であったその手法は、軍事的国家においてはときに政治的な権威の誇示ともなった。

第Ⅰ章 展示風景から ©山本倫子
第Ⅰ章 展示風景から ©山本倫子
第Ⅰ章 展示風景から
3つの文明を象徴する容器が並ぶ

 こうした世界観と思想を視覚的に表したのが、古代遺跡であり、そこから出土する遺物である。
 なかでも巨大な空間を計画的に整えていたのが、海抜2300mのメキシコ中央高原に、紀元前100年頃から築かれた古代都市テオティワカンだ。
 「第Ⅱ章 テオティワカン 神々の都」で、まずはテオティワカン文明を見ていく。

 古代より話されていたナワトル語で「神々の座所」を意味する名を冠したこの都市は、「死者の大通り」と呼ばれる空間を中心に、「太陽のピラミッド」(火、戦い、天空を象徴)「月のピラミッド」(水、豊穣、大地を象徴)、「羽毛の蛇ピラミッド」(金星を象徴)の三大ピラミッドがその世界観を具現化し、周囲には官僚の施設や住居用のアパートメント群が建ち並んでいたという。当時の民族や言語も未解明で謎の多い文明ながら、10万人ほどが暮らしていたと考えられている。

太陽のピラミッド
テオティワカン最大のモニュメントは、200年頃に日没の方向に向けて建てられ、のちに前庭部がつけられ、400年頃には増築されたことがわかっている。これまでの発見から、最深部は王墓だった可能性が高く、神殿の基壇にとどまらず、死者の眠る地下界へ通じる聖なる場であったと考えられている。
死のディスク石彫 テオティワカン文明、300~550年 テオティワカン、太陽のピラミッド、太陽の広場出土 メキシコ国立人類学博物館蔵
1964年の発掘で太陽のピラミッド正面の「太陽の広場」で発見された石彫。何を象徴しているのかは謎だそうだが、考古学データから、地平線に沈んだ(死んだ)太陽を表していると考えられている。太陽は、夜明けとともに復活し、死と再生を象徴する。
第Ⅱ章 展示風景から ©山本倫子
太陽のピラミッドの写真の前に展示される「死のディスク石彫」。復元すると直径1.5mにもなるという、その大きさを確認して。奥に見えるのは「火の老神石彫」。

 生贄儀礼などの国家行事のほか、工芸品の生産や交易、市場の経済活動など、市民の営みでにぎわい、特定の儀式には各地から多くの巡礼者が集う、国家により統率された大宗教都市の姿が浮かび上がる。
 近年の研究では、さまざまな地域からの移民を含んだ多民族国家だったことも示されており、最先端の知識と技術を持つコスモポリスであったようだ。

嵐の神の壁画 テオティワカン文明、350~550年 テオティワカン、サクアラ出土 メキシコ国立人類学博物館蔵
テオティワカンの主神のひとつである嵐の神、あるいはアステカ時代にトラロク神と呼ばれた雨の神を表している。左手に香袋、右手には背中の籠のなかにも見えるトウモロコシを持つ。口から出ているのは、言葉、歌、儀礼の際の呪文と考えられている。こうした多彩色の壁画はこの文明の特徴とされ、多くの住居群や公共施設、儀礼施設を飾っていたという。さぞカラフルな都市の様相だったことだろう。
鳥形土器 テオティワカン文明、250~550年 テオティワカン、ラ・ベンティージャ出土 メキシコ国立人類学博物館蔵
土器に貝や色石を装飾した、どこかユーモラスで愛着のわく造形は、発掘者により「奇妙なアヒル」と命名されたそうだ。さまざまな動物の造形が多いテオティワカンの遺物のなかでもとても稀な動物形土器とのこと。多くの貝製品とともに副葬されていたことから、この地域はメキシコ湾との交易を行う貝商人の基地であった可能性が示唆されている。
第Ⅱ章 展示風景から
羽毛の蛇ピラミッドの壁面を飾っていた「羽毛の蛇神石彫」(右)と「シパクトリ神の頭飾り石彫」(左)は、写真が拡大された壁の前に置かれ、臨場感を演出する

 テオティワカン文明に先んじ、紀元前1200年頃からスペイン人により征服されるまでの長い間メソアメリカ一帯に栄えたのがマヤ文明だ。
 マヤ地域は政治的に統一されることはなく、多くの王朝や都市が並立し、その文化や統治形態が明確に確認できるのは1世紀頃だという。ピラミッドなどの公共建築に集団祭祀、精緻な暦を特徴とする都市文化を伝統としながら、各都市間での交易や交流、ときには戦争を通じて大きなネットワーク社会を形成した。
 「第Ⅲ章 マヤ 都市国家の興亡」では、マヤの文化の発展とその王朝史を追う。

 マヤのように、食物の長期保存ができない熱帯低地では、経済や常備軍を基盤に王権を維持することは難しく、建築活動や集団祭祀で共同体の結束を保つことが重視される。
 このため、早くから金星周期と太陽暦の併用や、それに基づく祭祀のための建築、それらを記録し、伝達するための文字体系などが発達し、高い知識のもと、独自の王朝文化を開花させる。
 絵画とも思える美しく謎めいたマヤ文字と、王侯貴族から多様な役職や職業の人びとまでを写したみごとな土偶や石彫はすばらしい。

支配者層の土偶 マヤ文明、600~950年 ハイナ出土 メキシコ国立人類学博物館蔵
王あるいはそれに次ぐ高位の男性を表している。大きく口を開ける蛇の冠に、腕輪や耳輪を着け、壮麗な衣装で、装飾のある椅子に座る姿は、大きな祭祀の際の装いとされる。人体のバランスも美しく、マヤの工芸技術の高さを感じさせる。
トニナ石彫171 マヤ文明、727年頃 トニナ、アクロポリス、水の宮殿出土 メキシコ国立人類学博物館蔵
マヤの人びとにとって、球技は、スポーツであり、娯楽であると同時に宗教的な儀礼でもあった。このためか、球技をする王の姿を表したものも多い。こちらは、左右と中央にしるされたマヤ文字の碑文から、生きた時代の異なるふたりの王の闘う姿であることがわかるそうだ。現実には存在しえない球技の様子は、ふたつの王家の関係性についてのさまざまな歴史を想像させる。
第Ⅲ章 展示風景から
石彫の背後の壁にはマヤ文字が浮かび上がる
左:チャクモール像 マヤ文明、900~1100年 チチェン・イツァ、ツォンパントリ出土 ユカタン地方人類学博物館 カントン宮殿蔵
チャクモールとは横たわった人の像を指すが、古代にどのように呼ばれていたのかは不明。腹の上に皿のようなものが置かれていることから、祭祀の際に神への捧げものを置いたのではないかと考えられている。皿に心臓の図が彫られた作例もあり、人身供儀の心臓が置かれた可能性も示唆される。900年頃にマヤ地域で最大の都市となったチチェン・イツァとメキシコ中央部のトゥーラから多く見つかっており、両都市の関係を示す。その後、この様式はメキシコ西部にも広がり、アステカでも使われたという。
右:チャクモール像の展示風景 ©山本倫子

 そして本展の最大の見どころが、「レイナ・ロハ(赤の女王)」の墓の発掘品の数々だ。
 400~800年頃に隆盛した中規模の都市国家パレンケは、洗練された彫刻や建築、碑文の多さで知られる。その最盛期を治めたのが615~683年在位のキニチ・ハナーブ・パカル王で、遺されている建築群はマヤ地域で最も壮麗なもののひとつだという。

左から、碑文の神殿(パカル王墓)と13号神殿(赤の女王墓)
本展注目の「レイナ・ロハ(赤の女王)」とされるイシュ・ツァクブ・アハウ王妃と、その夫であるパカル王の遺体が納棺されていた神殿。かつては鮮やかな赤に塗られていたという。
96文字の石板 マヤ文明、783年 パレンケ、王宮の塔付近出土 アルベルト・ルス・ルイリエ パレンケ遺跡博物館蔵
783年に、パレンケの王に即位したキニチ・クック・バフラムの即位20周年を記念して彫られた石板には、パカル王が建てた「白壁の宮殿」の王座で歴代の王が即位したことが綴られているそうだ。最盛期のパカル王の威光をかりて、現王の権威を示そうとしたのか。日本と同様にマヤ人も優れた書跡を芸術品として愛でたという。流麗な線が美しい、マヤ文字の最高峰とされる遺物。

 王の遺体を納めた「碑文の神殿」の隣にある13号神殿で、1994年に発見されたのが通称「レイナ・ロハ」という女性の墓だ。赤の女王と呼ばれるのは、石棺のなかで、女王の骨がヒスイなどの装飾品に囲まれて、鮮やかな真紅の辰砂に覆われていたことによる。マヤ文明の至宝中の至宝だ。
 さらなる検証が待たれるも、最新の研究におけるDNA鑑定でパカル王の血縁ではないことがわかり、彼の妃イシュ・ツァクブ・アハウの可能性が高いとされている。

 豪華で美しい遺品群は、マヤの王朝美術の傑作とされる「赤の女王のマスク」をはじめ、棺に納まっていた状態を再現した展示で間近に見られ、埋葬した人びとの想いとともに古代王朝のドラマが感じられて、ワクワクする。

赤の女王のマスク・冠・首飾り マヤ文明、7世紀後半 パレンケ、13号神殿出土 アルベルト・ルス・ルイリエ パレンケ遺跡博物館蔵
女王のマスクは、孔雀石の小片をモザイクのように貼りあわせ、瞳は黒曜石、白目の部分は白色のヒスイ輝石岩が嵌められる。特別な儀式の際に女王が生前身に着けていたのだろう、ヒスイ輝石岩製のビーズの冠と、玉髄のビーズで作られた首飾りも付されていたそうだ。
第Ⅲ章 展示風景から ©山本倫子
レイナ・ロハ(赤の女王)の展示

 時代は下り、14~16世紀にメキシコ中央部で隆盛した文明がアステカだ。
 1325年頃にテスココ湖中の島に築かれた首都テノチティトランは、200年も経たないうちに20万以上の人口を抱える大都市となったという。
 軍事的に台頭したこの都市は、近隣のテスココとトラコパンと三国同盟を結び、アステカ王国として次々と他国を征服し、広大な領域支配を実現する。被支配国からの貢納を王国の基盤としたアステカは、建築、絵画、殊に彫刻において発展を遂げる。

 「第Ⅳ章 アステカ テノチティトランの大神殿」では、アステカ彫刻の優品とともに、都市の中央に建てられた大神殿テンプロ・マヨールの遺跡から近年発見された金製品が紹介される。

テンプロ・マヨール
アステカの主神ウィツィロポチトリとトラロクを祀った大神殿の遺跡
第Ⅳ章 展示風景から
鷲の戦士像 アステカ文明、1469~86年 テンプロ・マヨール、鷲の家出土 テンプロ・マヨール博物館蔵
テンプロ・マヨールの北側に位置する「鷲の家」の入り口に置かれていた2体の像のひとつ。イヌワシと思われる姿を象った衣装をまとうこの像が何を表しているのかは、さまざまな議論がなされてきた。多くの研究家は、アステカの勇敢な軍人「鷲の戦士」と考えているが、そうした戦士の魂を表しているともされる。あるいは太陽神としての守護神ウィツィロポチトリの姿という説も。いずれにせよ、ほぼ等身大の像の迫力は会場でぜひ。

 テンプロ・マヨールには、ウィツィロポチトリ神(太陽の神)とトラロク神(雨の神)が祀られており、アステカも他のメソアメリカ文明の伝統を継承しつつ、王や貴族による支配者層が地域との儀礼、交易、戦争を行っていた。
 経済的に豊かな首都テノチティトランでは、国外の著名な建築家や芸術家に依頼して、斬新なモニュメントが多く建てられたという。こうした交流は、それぞれの国の技巧や嗜好、伝統を共有する豊かな創造の環境を育み、独創的かつ国際的な造形美が生まれる。

トラロク神の壺 アステカ文明、1440~69年 テンプロ・マヨール、埋納石室56出土 テンプロ・マヨール博物館蔵
農耕社会であったメソアメリカの宗教では、降雨をコントロールすることへの強い想いがあった。祈祷も供物も子どもの生贄もことごとく雨の神であるトラロクに捧げられていたという。神話ではたくさんのトラロケ(トラロクの補佐)がいて、彼らは4つの樽の水を水差しや壺に移してそれをひっくり返して地表に水を届けたとされる。この神を象った壺は、まさに水への祈りが表されたものといえよう。
第Ⅳ章 展示風景から ©山本倫子
「トラロク神の壺」の展示
人の心臓形ペンダント アステカ文明、1486~1502年 テンプロ・マヨール、埋納石室174出土 テンプロ・マヨール博物館蔵
テンプロ・マヨールはコアペテク(「蛇の山」の意)を現世に再現したものという。神話では、そこで地母神コアトリクエが、娘で月の女神であるコヨルシャウキに殺害されようとしたその時に、太陽の神ウィツィロポチトリを出産した。夜(姉)と昼(弟)の闘いは、シウコアトル(火の蛇)を使った弟が勝利し、月の女神の遺体は四肢や頭部がバラバラに山上から投げ捨てられた。月の女神を象徴する金で造られた遺物が近年、コヨルシャウキ像の周辺から発見された。金板をカットし、穴を開けて打ち出し加工されたこちらは心臓を象ったもの。アステカ人の思想では、人体に宿る3つの魂のひとつテヨリアは心臓にあり、生きる力の象徴で、理解、記憶、意志、創造といった力とともに寛容、誠実、勇敢といった性質にも結びついているという。

 しかし、16世紀初頭にはアステカに征服された民族の不満の高まりから、政治情勢が不安定になる。そこに重なったスペイン人の到来は、こうした都市の独立の機会ととらえられ、スペインに加担した彼らによって、1521年にアステカ王国は滅亡。3000年以上守り続いてきた独自の文明は、西欧文明の洗礼を受けることになるのだ。

 西洋近代化に染まった現代からすると一見素朴にも感じる造形には、しかし、その高度な知見と技術、そして真摯な自然への想いが、想像力豊かに、力強く表れている。
 アニミズムの世界観に基づき築かれてきた古代メキシコの文明は、気候や自然の様相は異なるけれど、多神の信仰や死生観など、その奥深いところで日本と共鳴する。
 宇宙をも見据えた古代メキシコ人たちのまなざし。それは考古学を超えて、造形美を超えて、「生きる」ことの根源を示してくれるかもしれない。

展覧会概要

特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」東京国立博物館 平成館

開催内容の変更や入場制限を行う場合がありますので、必ず事前に展覧会公式ホームページでご確認ください。

東京国立博物館 平成館
会  期: 2023年6月16日(金)~9月3日(日)
開館時間:9:30‐17:00(土曜日は19:00まで)※総合文化展は17:00閉館
     ※入館は閉館の30分前まで
休 館 日:月曜日 ※ただし 8/14(月)は開館
     ※8/7(月)は、古代メキシコ展 「こどもの日」:中学生以下の子どもと
     保護者のみ展覧可能(開館時間:9:00-15:30※入館は15:00まで)
観 覧 料:一般2,200円、大学生1,400円、高校生1,000円、
     中学生以下、障がい者とその介護者1名は無料
問 合 せ:050-5541-8600(ハローダイヤル)

展覧会公式サイト https://mexico2023.exhibit.jp/ 

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