有職故実で見る『源氏物語』

カルチャー|2023.6.2
八條忠基

第十七帖 絵合

<あらすじ>
 帝の母である藤壺の女院は、帝の後見役になり得る大人である前斎宮(ぜんさいぐう)の入内に熱心に取り組みました。前斎宮を想う兄・朱雀院の気持ちも知っている源氏は複雑な心境です。幼い帝は大人の女性である前斎宮の入内に最初は緊張しましたが、いざ会ってみると小柄でつつましやかな斎宮女御を気に入りました。いっぽう、権中納言(かつての頭中将)の姫・弘徽殿女御は早くから入内し、帝と年齢が近く仲良しであったので、昼間の遊びでは帝は弘徽殿を訪ねることが多かったのです。
 帝は絵を好み、たいへん上手に描きました。斎宮女御も同じく絵を描くのが上手であったので、帝の寵愛は自然と弘徽殿女御から斎宮女御に移ります。権中納言は負けてはならじと、絵の名人たちを呼び寄せ、良い紙に素晴らしい絵を描かせて集めました。特に物語絵は面白いと多く描かせ、密かに弘徽殿に備えさせます。それを聞いた源氏は「彼も若いな」と苦笑いし、所蔵の古い絵や須磨・明石時代の絵日記を出して準備するのでした。
 三月。双方の絵を較べ合おうと、藤壺女院の前で「絵合(えあわせ)」が開催されました。左方(斎宮女御方)は『竹取物語』のような古い名画や物語絵を、右方(弘徽殿女御方)は『宇津保物語』のような現代的な新作の絵を中心に出し、それぞれが我が方の良さと相手方の難点を主張し合いました。源氏は「いっそのこと帝の御前で絵合をしよう」と言います。
 御前絵合で源氏は須磨・明石の絵日記を用意し、権中納言は画家たちに新作を描かせます。朱雀院は斎宮女御に古代の名画を贈りますが、母の弘徽殿大后は弘徽殿女御に肩入れしました。判定役は絵画に造詣の深い帥宮(そちのみや)。名画揃いでなかなか決着が付きませんでしたが、最後に源氏の絵日記が出されると、見る者すべてが涙を流して感激。結果、斎宮女御の左方が勝利を得ることになったのです。その後、源氏は帥宮としばし芸術談義をするのでした。
 宮中節会(せちえ)にも後世に残るような新機軸を編み出し、絵合のような遊びも芸術性の高いものに変える源氏の栄華は頂点を迎えようとしていました。しかし同時に源氏は世の無常も感じはじめ、郊外の静かな場所に御堂を建てて出家遁世を考えるようにもなります。

伝海北友雪筆『源氏物語』絵巻(絵合)(メトロポリタン美術館オープンアクセス)

<原文>
 「院はいと口惜しく思し召せど、人悪ろければ、御消息など絶えにたるを、その日になりて、えならぬ御よそひども、御櫛の筥、打乱の筥、香壺の筥ども、世の常ならず、くさぐさの御薫物ども、薫衣香、またなきさまに、百歩の外を多く過ぎ匂ふまで、心ことに調へさせたまへり。」

<現代語訳>
(朱雀院はたいそう残念に思し召されるが、体裁が悪いので、お手紙なども絶えてしまっていたが、ご入内の当日になって、何ともいえない素晴らしいご装束の数々や、お櫛の箱や打乱の箱、香壺の箱などを幾つも、並大抵のものでなく、いろいろのお薫物の数々、薫衣香のまたとない素晴らしいほどに、百歩の外を遠く過ぎても匂うくらいの、特別に心をこめてお揃えあそばした。)

前斎宮に執心している兄院は、前斎宮の入内話を残念に思いながらも立場上応援し、さまざまな準備をします。「打乱筥(うちみだりのはこ)」は化粧道具や理髪用具を並べることに用いられました。『満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう)』によれば、元々は身と蓋のある文字通りの箱だったのですが、いつしか蓋は開け放しで、身も蓋もトレイとして用いられるようになりました。
 「香壺(こうこ)の筥」は『類聚雑要抄』では、甲の筥には沈香(じんこう)・丁字(ちょうじ)・甘松香(かんしょうこう)・薫陸香(くんろくこう)、乙の筥には蘇合香(そごうこう)・桂心(けいしん)・藿香(かっこう)・麝香(じゃこう)の合計八種の香をそれぞれ銀の壺に入れるとあります。
 「くさぐさの御薫物」は各種の香木を調合して丸薬とした「練香」のことで、「梅花・荷葉(かよう)・侍従・菊花・落葉・黒方(くろほう)」の六種類が基本。これと別扱いで並記される「薫衣香(くのえこう)」は、「体身香(たいしんこう)」という別名もあり、衣にたきしめるだけでなく内服にも用いられたようです。一日二回服用を続けると、一日目は自分で口が香るのがわかる、五日目には自分で体が香るのがわかる、十日目には着ている衣服に香りが移る、二十日目にはすれ違った人が香りに気がつく、二十五日目には手を洗った水が地面に落ちて香る、そして三十日目になると赤ちゃんを抱くと赤ちゃんも香るようになる、と平安末期の『薫集類抄(くんじゅうるいしょう)』に記されています。

<文献>
『新儀式』
「天皇奉賀上皇御算事。(中略)其儀母屋東第三間立太上皇大床子三脚<南面。延喜六年。供平敷御座。天皇御座亦同>。其上立御脇息。又置唾壺打乱御匣等。」
『満佐須計装束抄』(源雅亮)
「母屋庇の調度たつる事。(中略)並べて端の方に打乱の筥を置く。蓋覆ひながら置くべし。錦の折立あり。物入らず。開けて蓋を身に重ねて置く人もあるべし。」
『後深草天皇御記』
「嘉元元年十二月十九日<壬寅>。春宮有御書始之儀。早旦奉仕御装束。(中略)打乱筥入御総角<本結二本、長各八尺。御夾形二、長各一尺二寸。髪掻小刀紙嬀等也>。置二階下層御座上。」
『薫集類抄』(藤原範兼)
「薫衣香<一名体身香>。 八条宮、沈九両・甲香五両・青木香二両・白芷一両・丁子一両・白檀二両・占唐一両・蘇合一両半・麝香半両。 公忠朝臣、沈三両・丁子五両・欝金二両・甘松二両・白檀二両・香附子一両・麝香一両<或藿香一両>。能合て絹袋に入て、無透間き筥中に置て、其上を又裹て、能暖にして、酒作る甕のうへに置てにほはせよ。」
「薫衣香<一名体身香>。(中略)右十物細搗。絹篩為粉。以蜜和搗一千杵。然後出之。丸如棗核。口含咽汁。昼夜三日到。含十三丸。当日自覚口香。五日自覚体香十日衣被亦香。廿日逆風行他人聞香。廿五日洗手而水落地香。一月已後抱児児亦香。唯忌蒜及五辛等。不只口香体潔。兼亦治万病。」

打乱筥(うちみだればこ)
打乱筥『源氏物語絵巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
香壺筥『類聚雑要抄』(国立国会図書館デジタルコレクション)

<原文>
 「御櫛の筥の片つ方を見たまふに、尽きせずこまかになまめきて、めづらしきさまなり。挿櫛の筥の心葉に、
『別れ路に添へし小櫛をかことにて 遥けき仲と神やいさめし』。
大臣、これを御覧じつけて、思しめぐらすに、 いとかたじけなくいとほしくて」

<現代語訳>
(お櫛の箱の片端を御覧になると、この上もなく精巧で優美に、めったにない作りである。さし櫛の箱の心葉に、
 「別れの御櫛を差し上げましたが、それを口実に
  あなたとの仲を遠く離れたものと神がお決めになったのでしょうか」 
 大臣は、これを御覧になって、いろいろとお考えめぐらすと、たいそう恐れ多く、またおいたわしくて)

 兄院の前斎宮に対する執心は、斎王として伊勢に赴く際に帝が授けた「別れの櫛」の儀式以来のこと。そこで櫛の筥に特別の感慨があるのでしょう。
 櫛にはさまざまな種類があり、日常に塵垢を取るために用いる「梳櫛(すきぐし)」や「解櫛(ときぐし)」などの理髪用のほか、髪を上げて留める装飾用の「挿櫛(さしぐし)」がありました。『枕草子』では日常でも髪を上げて挿櫛を用いていたという記述がありますが、『紫式部日記』では髪上姿を「唐絵のよう」と儀式用の特別な装いとしています。この時期には「産養(うぶやしない*)」の儀式や天皇への配膳時などの専用の髪型になっていたようです。儀式用の「挿櫛」の伝統は近代以降の「おすべらかし」の髪型にも残っています。
 「心葉(こころば)」には、神事に奉仕する際の冠の飾りや饗膳の四隅に立てる造花など、いくつかの意味がありますが、筥に付随する「心葉」といえば、貴重な器物を覆うカバークロスのこと。綾地に銀や銅で作った梅花などの金具をつけ、組紐で飾ったものを意味します。『類聚雑要抄』には香壺筥の心葉として、九寸(約二十七センチ)四方の青村濃(むらごう:ぼかし染のこと)の綾の上に銀銅の梅花をつけ、総角(あげまき)の紐を結び、末を五寸垂らすとあります。

* 平安朝の貴族社会などで行われた通過儀礼の一つ。小児誕生の夜を初夜といい,その日から3,5,7,9日目に当たる各夜ごとに親戚・知人から衣服・調度・食物などが贈られ,一同参集して祝宴を張り,和歌・管絃の御遊に及ぶ

<文献>
『宇津保物語』(あて宮)
「仲忠の中将の御許より蒔絵の置口の箱四に、沈の挿櫛よりはじめてよろづ御梳髪の具、御髪上の御調度四。御仮髻・蔽髪・釵子・元結・彫櫛よりはじめてありがたくて。」
『枕草子』
「正月一日は(中略)中の御門の閾ひき入るるほど、頭どもひとところにまろびあひて、さし櫛も落ち、用意せねば折れなどして、笑ふもまたをかし。」
『紫式部日記』
「その日の髪上げ麗しき姿、唐絵ををかしげに描きたるやうなり。」
『栄花物語』(ころものたま)
「弁の内侍、昼いみじう装束きて、挿櫛に物忌をさへつけて思事なげなりつる程は」
『貞観儀式』
「践祚大嘗祭儀中(中略)夜久貝韲坏八口、朱漆窪手代二口<通用二箇日>、褥六枚、覆紗六条、帯十二条<已上褥・帯・心葉等、紗綾羅染摺雑用之、長・広随宜制之>、右初日料。」
『小右記』(藤原実資)
「天元元年四月十日、左大臣一女入内。十二日始参上。殿下同参、餅四種盛銀盤、同盤置同銀箸、餅上置心葉<有組>、納蒔絵筥<置一口>。」
『類聚雑要抄』
「香壺筥一双(中略)象眼青村濃二倍<方九寸>銀銅薄梅花之上上巻(アゲマキ)付之。上巻手長二寸、末垂五寸、壺共之上置之。梅花二倍。」

髪上姿『紫式部日記絵巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
櫛筥『類聚雑要抄』(国立国会図書館デジタルコレクション)
櫛筥の心葉『類聚雑要抄』(国立国会図書館デジタルコレクション)
心葉(こころば)

<原文>
 「『物語絵こそ、心ばへ見えて、見所あるものなれ』とて、おもしろく心ばへある限りを選りつつ描かせたまふ。例の月次の絵も、見馴れぬさまに、言の葉を書き続けて、御覧ぜさせたまふ。」

<現代語訳>
(「とりわけ物語絵は、趣向も現れて、見所のあるものだ」
 と言って、権中納言はおもしろく興趣ある場面ばかりを選んでは描かせなさる。普通の月次の絵も、目新しい趣向に詞書を書き連ねて、主上に御覧に入れなさる。)

 斎宮女御の養父・源氏に負けてはならじと、弘徽殿女御の父親・権中納言も絵を集めます。絵の中でも特に「物語絵」は素晴らしいと、各種の品を用意しました。
 当時の文学作品鑑賞法としては、お付きの者が文章を読み聞かせ、主人がその場面の絵を見て楽しむ、というものが主流でした。その場面が『源氏物語絵巻』(東屋一)に描かれています。こうした絵が「物語絵」。文章の内容をビジュアルで理解させるために用いられたもので、宗教的な説話が描かれた各種の『縁起絵巻』なども、より多くの人々に内容を理解させるためのものでした。南北朝時代の『慕帰絵(ぼきえ)』には「縁起を図画せしむ」の場面が描かれています。
 「例の月次(つきなみ)の絵」というのは、四季の年中行事を描いた絵画のことで、屏風に仕立てられることが、宇多天皇から村上天皇の御代(九世紀後半から十世紀前半)にかけて特に流行しました。『枕草子』にも「月次の御屏風もをかし」とあります。画題を詠んだ歌が色紙形に書き添えられることが多く、その時代の歌集に収録された和歌や詞書が多く残ることから、どのような月次絵があったかを推測することができます。たとえば『古今著聞集』には天暦年間の月次屏風に「擣衣」(うちぎ:砧で衣を打って艶を出すこと)の場面があり、そこに平兼盛が歌を詠んだと書かれていることで、そうした画題があったことがわかります。

<文献>
『貫之集』
「延喜六年、月次の御屏風八帖料歌四十五首、依内勅奉之。行て見ぬ人も志のべと春の野の かたみにつめる若菜なりけり」
『古今著聞集』(和歌第六)
「天暦御時、月次御屏風の哥に擣衣の所に兼盛詠て云。『秋深き雲井の雁のこゑすなり 衣うつべきときやきぬらん』」
『枕草子』
「坤元録の御屏風こそをかしうおぼゆれ。漢書の屏風はををしくぞ聞こえたる。月なみの御屏風もをかし。」
『類聚雑要抄』
「五尺屏風十二帖 東西北面是三方ニ立廻五尺屏風。南面之御簾ヲ四尺几帳之高上天其下同几帳ヲ立渡。月次ノ絵四季ヲ各当三帖画之。春<上中下>母屋四箇間東西北三方ノ料。一帖雑事。面弘一尺八寸二分内<縁二筋各弘一寸四分。但当時可有随絹弘事>。(中略)絵雑事。紺青三両・緑青廿両・銅黄二分・縁衫三尺・蘓芳三両・陶砂二分・雑丹料廿疋。単功料卅疋。饗料乃米五石。」

物語絵を見る浮舟『源氏物語絵巻』東屋一(国立国会図書館デジタルコレクション)
縁起絵の描画『慕帰絵』(国立国会図書館デジタルコレクション)
『月次公事屏風』(井筒グループ蔵)

<原文>
 「絵は、巨勢相覧、手は、紀貫之書けり。紙屋紙に唐の綺をばいして、赤紫の表紙、紫檀の軸、世の常の装ひなり。(中略)白き色紙、青き表紙、黄なる玉の軸なり。絵は、常則、手は、道風なれば、今めかしうをかしげに、目もかかやくまで見ゆ。左は、そのことわりなし。」

<現在語訳>
(絵は、巨勢相覧、書は、紀貫之が書いたものであった。紙屋紙に唐の綺を裏張りして、赤紫の表紙、紫檀の軸、ありふれた表装である。(中略)白い色紙に、青い表紙、黄色の玉の軸である。絵は、飛鳥部常則、書は、小野道風なので、現代風で興趣深そうで、目もまばゆいほどに見える。左方には、反論の言葉がない。)

御前絵合で左方(斎宮女御方)が出した『竹取物語』と、右方(弘徽殿女御)が出した『宇津保物語』の物語絵。左方の画家・巨勢相覧(こせのおうみ)は鎌倉初期の『大間成文抄(おおまなりぶみしょう)』(九条良経)によれば巨勢金岡(こせのかなおか)の子とされますが、よくわかっていません。右方の画家・巨勢金岡は間違いなく九世紀後半に活躍した実在の画家で、日本風の大和絵の様式を確立させた先駆者と言われます。
 紀貫之は言わずと知れた『古今和歌集』の編纂者の一人で和歌の名人。真跡(本人の書)は残っていませんが能書家であったとされます。また小野道風は藤原佐理(すけまさ)・藤原行成と並び「三跡」に数えられる書の達人。康保三年(九六七)に没していますので、紫式部の一時代前の人物となります。いずれにしても画家も書家も超一流です。
 装丁として目立つのは巻物の軸。『延喜式』(中務内記)での「位記」に関する規定での軸材は、親王は「赤木」、三位以上は「黄楊」、五位以上は「厚朴」。また『延喜式』(京)での「田籍」の軸は「檜」。こうした公文書と違い、ここでの絵巻物軸は特別です。
 「紫檀」は熱帯産の輸入唐木のひとつで赤褐色、美しい縞模様があり耐久性が高いので軸としてはお経のほか、さまざまな几帳書巻に用いられました。「黄玉」は一般にトパーズの和名とされますがこれは硬すぎるため、ここでは「玉髄」と呼ばれる石英の一種の黄色いものであったのではないかと考えられます。当時としては第一級の宝物と言えるでしょう。

<文献>
『河海抄』(四辻善成)
「巨勢相覧、一説云巨勢金岡相覧同人也云々。但如高名録者相覧猶先代人也。金岡は仁明天皇御時人也。承和四年九月五日図御所絵、見惟宗直本勘文。紀貫之・道風貫之共以能書也。」
『延喜式』(内匠)
「凡内記局所請位記料。赤木軸七枚・黄楊軸廿枚・厚朴軸百枚。毎年十二月充行之。」
『延喜式』(中務内記)
「凡装束位記式。神位記三位已上者、縹紙・緑褾・雑綺帯・黄楊軸。親王位記者、白紙表・白呉綾裏・紫羅褾・緑綾裏・雑綺帯・赤木軸。三位以上者、縹紙・緑褾・雑綺帯・黄楊軸。五位以上者、白紙・白褾・白帯・厚朴軸<女亦同。但僧都已上准三位。律師准五位>。」
『延喜式』(京)
「田籍造三通。其帙料小町席二枚。縁料黄帛三丈八尺。黄糸一両三分半。褾紙厚紙料五十三張。緒料韋一張。軸料檜榑一村<已上申官請用>。」

巨勢金岡『前賢故実』(国立国会図書館デジタルコレクション)
紀貫之『三十六歌仙画帖』(住吉具慶筆/メトロポリタン美術館オープンアクセス)
小野道風『前賢故実』(国立国会図書館デジタルコレクション)
絵巻物の軸

<原文>
 「左は、紫檀の箱に蘇芳の花足、敷物には紫地の唐の錦、打敷は葡萄染の唐の綺なり。童六人、赤色に桜襲の汗衫(かざみ)、衵(あこめ)は紅に藤襲の織物なり。姿、用意など、なべてならず見ゆ。右は、沈の箱に浅香(せんこう)の下机、打敷は青地の高麗の錦、あしゆひの組、花足の心ばへなど、今めかし。童、青色に柳の汗衫、山吹襲の衵着たり。皆、御前に舁き立つ。主上(うへ)の女房、前後(まへしりへ)と、装束き分けたり。」

<現代語訳>
(左方は、紫檀の箱に蘇芳の華足、敷物には紫地の唐の錦、打敷は葡萄染めの唐の綺である。女童六人は、赤色に桜襲の汗衫、衵は紅に藤襲の織物である。姿や心用意などが、並々でなく見える。
 右方は、沈の箱に浅香の下机、打敷は青地の高麗の錦、脚結いの組紐、華足の趣など、現代的である。女童は、青色に柳の汗衫、山吹襲の衵を着ている。
 女童たち皆で、帝の御前に御絵を並べ立てる。主上づきの女房は、左方が前に右方が後にと、それぞれ装束の色を分けて座っている。)

 帝の御前での絵合わせは調度品もとびきり上等。ここにおける描写は、天徳四年(九六〇)に宮中で行われた「天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)」の様子を参考にしているようです。この歌合の様子は『村上天皇御記』に詳細に記され、天皇の御前で左方右方に分かれて秀歌を競ったとあります。その優雅な方式は以後のさまざまな「合わせ物」で参考にされています。
 左方は赤系統の装束を身に纏い、右方は青(緑)系統の装束を着用。調度品もそれぞれ異なるものを用いました。この絵合でも、左方は赤や紫系統の調度や装束、右方は青系統の色彩を用いています。この色分けは舞楽装束でも見られるもので、『河海抄』には「舞の装束をかたどったものか」と記されています。
 机は脚の先がワラビのように曲がる「花足」の机。これは重要な儀式や仏事で用いられる特別な品でした。天徳内裏歌合でも左方が「紫檀押物花足蘇芳下机」、右方が「沈押物花足浅香下机」を童により「舁」つまり担がせて搬入しています。この時の描写がこの絵合の場面でもほぼそのまま踏襲されているのがわかります。

<文献>
『村上天皇御記』
「(天徳四年三月)卅日己巳。此日有女房歌合事者。去年秋八月殿上侍臣闘詩合時。典侍命婦等相語云。男已闘文章。女宜合和歌。及今年二月定左右方人。就中以更衣藤原修子同□□等為左右頭。各令排読。蓋此為惜風騷之道徒以廃絶也。後代之不知意者。恐成好浮華専内寵之謗。仍具記之。其儀暫撤却清凉後凉両殿中渡殿北蔀。設公卿座於同渡殿之内。鋪左右方人座於後凉殿縁東<左在南、右在北>。女房又相分候清凉殿西庇簾中第五間立倚子<便用女房侍倚子此間上簾>。申尅就倚子。良久右方入自北方。献和歌洲浜<沈押物花足浅香下机、繍花柳鳥、花文綾覆、綺地敷、更衣之童女四人舁之。進御前渡殿、算刺洲浜置北小庭算刺小舎人円座之前云々>。暫左方経侍所自南方献和歌洲浜。<紫檀押物花足蘇芳下机、繍葦手、花文綾覆、綺地敷、更衣之童女六人舁出、如右算刺洲浜又置南小庭之小舎人円座前、始童女□机下後改置云々>。」
『貞観儀式』
「次献御挿頭<盛花足机、居高机、以紗為覆、五位六人舁之>。和琴二面<各長六尺、納袋盛花足机、居高机、以紗覆之>。」
『小右記』(藤原実資)
「永延二年十月廿九日、壬午。(中略)御念珠二連<一連菩提子、納銀筥。一連沈香念珠・香念珠、納紫檀地螺鈿筥、以薄物裹>、置花足短机。」
『河海抄』(四辻善成)
「花足は机の足也。蕨手の躰也。しき物は地敷也。天徳童女四人舁文台云々」
「あしゆひのくみは色々の糸にてまはりにあはひむすひを結て机の四の足をからみて花足よりもなかくうちはへたるなり 下濃(スソコ)也。童の装束左は赤色右は青色也。舞の装束にかたとる歟。物合風流事。天徳西宮記云、右方令持洲浜二机<一哥一詩>参上自御湯殿西辺献童女一人<着青色>実正執銀花柳枝下居砌、次小舎人舁員指洲浜置実正前<如御記者北小庭云々>、次左方自殿上侍方参上童女一人執地敷々御前挿如右、次童女四人舁洲浜立地敷上小舎人二人於砌下取伝置員指前云々、永承々暦以下依為以後例略之風流皆様々也。」

桜の重ね(表白/裏紅)
柳の重ね(表白/裏青)
花足机『慕帰絵』(国立国会図書館デジタルコレクション)

※本文の『源氏物語』引用文と現代語訳は渋谷栄一校訂<源氏物語の世界>より

次回配信日は、7月3日です。

八條忠基

綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』『有職植物図鑑』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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