有職故実で見る『源氏物語』

カルチャー|2023.9.27
八條忠基

第三十三帖 藤裏葉

<あらすじ>
 源氏の子、宰相中将は雲居雁(くもいのかり)の姫のことを想い続けていましたが、かつて邪険に扱われた内大臣に頭を下げたくはありません。雲居雁も宰相中将の縁談に心騒ぎながらも深く想う、相思相愛の二人。内大臣はついに折れ、藤の花の美しい日に管絃の宴を催して、宰相中将を招いたのでした。話を聞いた源氏は「二藍の色が濃過ぎる直衣(のうし)は身分が軽く見られるから」と、自分用の淡い色の直衣を我が子に着せて送り出します。
 迎えた内大臣は喜びます。宰相中将が父親似の美男である上に、大学で学問を修めたと評判が高いことを嬉しく思いました。宴の最中に上機嫌な内大臣は中将の盃に藤の花房を置き、雲居雁との結婚を許すことを示しました。幼なじみの二人はこうしてようやく結ばれたのです。
 賀茂祭が行われて源氏たちは行列の見物に出かけ、かつて六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)と源氏の正妻が車争いを繰り広げたことを、しみじみと思い出すのでした。そのしばらく後、明石の姫君の東宮輿入れが行われました。姫の付き添いは生母・明石の御方が務めることになり、紫の上も、娘と離れ離れに暮らす御方のことを気遣って賛成します。華やかな儀式に臨むかわいい姫を見て、実子のいない紫の上は「本当に自分の子だったら良かったのに」と心から思うのでした。初めて対面した紫の上と明石の御方は、互いに認め合う仲となります。
 秋。源氏は太上天皇(上皇)に準じた待遇を授けられました。そして内大臣は太政大臣となります。源氏の宰相中将は晴れて中納言に昇り、またもかつて「浅緑の六位」と侮られた昔を思い返すのでした。中納言と雲居雁は、亡き祖母大宮の三条殿で暮らすことになりました。
 帝が六条院に行幸されます。源氏の兄・朱雀院も招かれて盛大な紅葉の賀となりました。山の鳥・川の魚の豪華な饗宴。殿上童たちの舞を見て、源氏は頭中将と共に舞った、若き日の朱雀院の紅葉賀を思い出します。かつての頭中将、いまの太政大臣も同じように感慨にふけり、改めて自分と源氏との懸隔(けんかく)を知るのでした。

伝海北友雪筆『源氏物語』絵巻 メトロポリタン美術館オープンアクセス

〈原文〉
「『さしもはべらじ。対の前の藤、常よりもおもしろう咲きてはべるなるを、静かなるころほひなれば、遊びせむなどにやはべらむ』と申したまふ。『わざと使ひさされたりけるを、早うものしたまへ』と許したまふ。いかならむと、下には苦しう、ただならず。『直衣こそあまり濃くて、軽びためれ。非参議のほど、何となき若人こそ二藍はよけれ、ひき繕はむや』とて、わが御料の心ことなるに、えならぬ御衣ども具して、御供に持たせてたてまつれたまふ。」

〈現代語訳〉
(「そんな意味でもないでしょう。対の前の藤が例年よりもみごとに咲いていますからこのごろの閑暇なころに音楽の合奏でもしようとされるのでしょう」と宰相中将は父に言うのであった。
「特使がつかわされたのだから早く行くがよい」と源氏は許した。中将はああは言っていても、心のうちは期待されることと、一種の不安とが一つになって苦しかった。
「その直衣の色はあまり濃くて安っぽいよ。非参議級とかまだそれにならない若い人などに 二監というものは似合うものだよ。きれいにして行くがよい」と源氏は自身用に作らせてあったよい直衣に、その下へ着る小袖類もつけて中将の供をして来ていた侍童に持たせてやった。)

 春に行われた三条大宮の一周忌で宰相中将を認めた内大臣は、娘・雲居雁との結婚を許すため藤花の宴に中将を招待。源氏は内大臣の思惑を推量しつつ我が子・中将を送り出しますが、先方で侮られないように薄い色の直衣を着るように言います。
 平安中期には「大君姿(おおきみすがた)」として直衣での参内が認められるようになり、「雑袍(ざっぽう)」とされた直衣にも一定の形式が定められたようです。夏の直衣は透ける薄物、ブルー系統の色彩が用いられ、年齢により色彩が変えられたことがわかります。 年齢が若い人は色が濃く「二藍(ふたあい)」など、加齢により色を淡くして「縹(はなだ)」「浅葱(あさぎ)」などにするルールです。
 源氏は中将に「濃い色は軽々しく見られる。公卿になっていない若い者は二藍でも良いが、宰相(参議)であるお前は薄い縹色の直衣が良い」と、自分用の直衣を着せます。中将はまだ十代ですが、公卿である参議なので高齢者の色彩を用いたのです。「野分(のわき)」の帖で源氏は花散里(はなちるさと)から贈られた縹色の直衣を「中将にこそかやうにては着せたまはめ」と言っていますが、その直衣でしょうか。
 二藍は藍(タデアイ)と紅(クレノアイ)を掛け合わせた染色で、その配分により赤紫から青紫に染まります。若い者は色を濃く大人になると薄くしますが、さらに公卿は紅を用いない純粋な藍染めである縹にしたのです。

〈文献〉
『九暦』
「天慶七年五月五日、丙子。此日有節事。(中略)陪従廿人、其十六人装束垂纓冠・麹塵袍、二藍<下襲・白表袴・白石帯・襪・麻鞋等也。十人手振、六人取物、奏札・笏筥・豹皮毯・鞭・胡床。四人馬子。其装束、冠老懸・紫褐衣・同色下濃布猟袴・同色伊知比脛巾・藁沓也。大輔装束、位袍・二藍下襲・瀛国隠文帯・靴等也。陪従六人装束、冠老懸・褐衣。黄朽葉下襲・青下濃布袴・布帯・薬袋等也。二人取物、奏札・笏・鞭・胡床、二人馬子、少輔装束、位袍・二藍下襲・班犀帯・靴等也。陪従四人装束、冠老懸・紫褐衣・赤朽葉下襲・白布袴・薬袋等也。取物笏・札・豹皮毯代等>」
『枕草子』
「小白河といふ所は(中略)六月十よ日にて、あつきこと世に知らぬほどなり。池のはちすを見やるのみぞいと涼しき心地する。左右の大臣達をおき奉りては、おはせぬ上達部なし。二藍の直衣、指貫、浅葱の帷子どもぞすかし給へる。(中略)三位の中将とは関白殿をぞきこえし、かうのうすものの二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃蘇芳のしたの御袴に、はりたるしろきひとへのいみじうあざやかなるを着給ひて」
『栄花物語』(謌合)
「十二日になりて、上達部のさるべく若やかなるを分たせ給たり。(中略)池の心にまかせて棹さして参るを見れば、二藍の直衣・指貫に、紅の打ちたる、白き単をぞ著たる。(中略)まづさるべき人々は、俊家の中将、常夏の出袿、二藍の直衣、青色の織物ゝ指貫。通基の四位侍従、二藍の直衣、青色の織物ゝ指貫、濃き打衣。資綱の少将、二藍の直衣・指貫に青き織物ゝ単」
『岷江入楚』
「夏の直衣は二藍、或は花田を年によりて着す。源氏は宰相中将、うす二藍の色也。頭中将は年にまさりたれども、官ひききによりて、濃二藍の直衣を着用すべし。官高は宿徳の色を用ゆ。官卑きは若色を用るならひなり」

色味の違う二藍の三重襷文

〈原文〉
「大臣、御座ひきつくろはせなどしたまふ御用意、おろかならず。御冠などしたまひて、出でたまふとて、北の方、若き女房などに、『覗きて見たまへ。いと警策にねびまさる人なり。用意などいと静かに、ものものしや。あざやかに、抜け出でおよすけたる方は、父大臣にもまさりざまにこそあめれ』」

〈現代語訳〉
(内大臣は若い甥のために座敷の中の差図などをこまごまとしていた。大臣は夫人や若い女房などに、「のぞいてごらん。ますますきれいになった人だよ。とりなしが静かで、堂々として鮮明な美しさは源氏の大臣以上だろう」)

 平安時代、男子は人前では必ず頭にかぶり物をつけていました。中級以上の貴族は、日常は「烏帽子(とりえぼし)」をかぶりました。これは紗に漆を掛けた軽いもので、高く作ります。頭から落ちないように後ろの内側に付けた「小結(こゆい)」を髪の髻(もとどり)に結びつけて留めました。
 冠は古代の「幞頭(ぼくとう)」(頭巾とも)が変化したもので、羅に漆を掛けたもの。宮中に出仕して帝に会うときにつけるものでした。ですから家庭内の宴で内大臣が冠をかぶったのは、宴会の重みを増し、客として迎える宰相中将を尊重することを形で表したものです。
 冠は平安中期に形式が変わったようで、『枕草子』の「わびしげに見ゆるもの」に、雨に濡れて冠がひしげた姿が表現されていることから、柔らかい幞頭形式であったと推測されますが、藤原道長の時代になると漆を厚くしてより硬い形式に変化したようです。これは髪の髻を「巾子(こじ)」に入れて左右から簪で挿し留めて落下を防ぎました。

〈文献〉
『和名類聚抄』
「冠 兼名苑注云冠<音官>黄帝造也弁色立成云幞頭<加宇布利幞音僕今案漢語抄説同唐令等亦用之>」
「烏帽 兼名苑云帽一名頭衣<帽音耄烏帽子俗誤烏為焉今案烏焉或通見文選注玉篇等>唐式云庶人帽子皆寛大露面不得有掩蔽」
「簪 四声字苑云簪<作含反又則岑反和名加無左之>挿冠釘也蒼頡篇云簪筓也釈名云筓<音鶏此間云筓子上音如才>係也所以拘冠使不墜也」
「巾子 弁色立成云巾子<此間巾音如渾>幞頭具所以挿髻者也」
「纓 唐韻云纓<於盈反俗云燕尾>冠纓礼記云玄纓紫緌自魯桓公始焉」
『枕草子』
「わびしげに見ゆるもの(中略)雨いたう降る日、ちひさき馬に乗りて、御前したる。人の冠もひしげ、うへのきぬも下襲もひとつになりたる、いかにわびしかるらむと見えたり」
『小右記』(藤原実資)
「長元四年九月廿五日庚午。教如院参給八幡・住吉・天王寺、多為遊楽歟。(中略) 次蔵人主典代、皆布袴。次院殿上人、即是院殿上人也、皆布衣。次上達部、或冠直衣、或宿衣、或狩衣」

平安時代の冠 『扇面法華経冊子(模本)』ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

〈原文〉
「御時よく、さうどきて、『藤の裏葉の』とうち誦じたまへる、御けしきを賜はりて、頭中将、花の色濃く、ことに 房長きを折りて、客人の御盃に加ふ。取りて、もて悩むに、大臣、『紫にかことはかけむ藤の花 まつより過ぎてうれたけれども』」

〈現代語訳〉
(よいころを見て大臣は機嫌よくはしゃぎ出して「藤のうら葉の」(春日さす藤のうら葉のうちとけて君し思はばわれも頼まん)と歌った。命ぜられて頭中将が色の濃い、ことに房の長い藤を折って来て源中将の杯の台に置き添えた。源中将は杯を取ったが、酒の注がれる迷惑を顔に現わしている時、大臣は、
 紫にかごとはかけん藤の花まつより過ぎてうれたけれども
と歌った。)

 宰相中将の母は藤原氏である内大臣の妹ですが、本人は源氏の一族。内大臣は藤の花房を手折って中将の盃に添えることで、雲居雁との結婚を許すことを表現したのです。藤の花は紫色。『源氏物語』において紫色の花が一貫して取り上げられていることがここでも示されるのです。
 内大臣が口ずさんだ歌は『後撰和歌集』にある「春日さす藤の裏葉のうらとけて 君し思はば我も頼まむ」という歌で藤原氏の氏神・春日明神を詠み込み、さらに中将に贈った歌では「松」と「待つ」を掛けて、中将のことを待っていたとします。中将と雲居雁の仲を裂いてきた内大臣が臆面もない歌といえます。
 藤はツル性でさまざまな樹木に巻き付きますが、特に松によく絡むとして和歌に多く詠まれ、常盤の松を皇室・源氏、藤を藤原氏にたとえたり、松と藤をセットにして夫婦和合の象徴ともされました。『枕草子』「めでたきもの」では「色あひ深く花房長く咲きたる藤の花の、松にかかりたる」が挙げられています。この帖では庭の風情を「横たはれる松の、木高きほどにはあらぬに、かかれる花のさま、世の常ならず面白し」と表現します。

『拾遺和歌集』(源重之)
「夏にこそさきかかりけれ藤花 松にとのみも思ひける哉」
『後拾遺和歌集』(詠人不知)
「住の江の松の緑も紫の 色にぞかくる岸の藤波」
『千載和歌集』(公能大炊御門右大臣)
「年経れど変はらぬ松を頼みてや かかりそめけん池の藤波」
『源氏物語』(蓬生)
「大きなる松に藤の咲きかかりて月影になよびたる、風につきてさと匂ふがなつかしく 、そこはかとなきかをりなり」

松にかかる藤 『春日権現験記』 国立国会図書館デジタルコレクション

〈原文〉
「大臣は、薄き御直衣、白き御衣の唐めきたるが、紋けざやかにつやつやと透きたるをたてまつりて、なほ尽きせずあてになまめかしうおはします。宰相殿は、すこし色深き御直衣に、丁子染めの焦がるるまでしめる、白き綾のなつかしきを着たまへる、ことさらめきて艶に見ゆ。」

〈現代語訳〉
(源氏は薄色の直衣の下に、白い支那風に見える地紋のつやつやと出た小袖を着ていて、今も以前に変わらず艶に美しい。宰相中将は少し父よりは濃い直衣に、下は丁字染めのこげるほどにも薫物の香を染ませた物や、白やを重ねて着ているのが、顔をことさら引き立てているように見えた。)

 源氏(大臣)と宰相中将は同じように直衣を着ています。源氏は色の薄い夏直衣で、下に着る唐綾の衣(きぬ)の文様が透けてよく見えます。白い衣の文様が見えるということは、直衣がよく透けることを表現しています。若い宰相中将は少し色の濃い直衣で、下には丁字(ちょうじ)を焦げ茶色になるまで濃く染めた袿と、白い綾が柔らかくなじんだ衣を着ています。また「蜻蛉(かげろう)」の帖では「丁子に深く染めたる薄物の単衣」を匂兵部卿宮が着ています。
 丁子はインドネシア、モルッカ諸島原産のクローブの花蕾を乾燥させた香料。輸入品ですから当然高価で、太政大臣・源氏の子息ならではの贅沢な品です。『御堂関白記』の長和二年(一〇一三)二月四日には、宋国渡来の「唐物」として大宰大弐が丁子などを送ってきたことが記されています。
『枕草子』には香染の装束がたびたび登場し、「七月ばかりいみじう暑ければ」には女子が「香染の単衣」、男子が「あるかなきかの色したる香染の狩衣」を着用しています。これは汗の臭いをカバーしたのでしょうか、丁字染は夏場の利用が多いようです。

〈文献〉
『御堂関白記』
「長和二年二月四日、丙寅。参皇太后宮、参大内。奏唐物解文(中略)余給錦八疋・綾廿三疋・丁子百両・麝香五臍・紺青百両・甘松三斤」
「寛弘元年七月廿日(中略)右府軽服也。然其装束極奇、香染下重・同色唐平緒、所未見装束也。」
『小右記』
「治安三年七月十六日(中略)高田牧進年貢(中略)別進筥一合、納沈香五十両・衣香十両・丁子三両・唐綾二疋・櫛卅枚・髪掻十枚・蘇芳具」
『枕草子』
「七月ばかりいみじう暑ければ(中略)香染のひとへ、もしは黄生絹のひとへ、くれなゐのひとへ」
「関白殿、二月廿一日に法興院の積善寺といふ御堂にて一切経供養ぜさせ給ふに(中略)次に女房の十、桜の唐衣、薄色の裳、濃き衣、香染、薄色の上着ども、いみじうなまめかし」
「狩衣は 香染の薄き。白き。ふくさ。赤色。松の葉色。青葉。桜。柳。また青き。藤。男はなにの色の衣をも着たれ」

丁字(クローブ)
丁字で染めた「香染」

〈原文〉
「その秋、太上天皇に准らふ御位得たまうて、御封加はり、年官年爵など、皆添ひたまふ。かからでも、世の御心に叶はぬことなけれど、 なほめづらしかりける昔の例を改めで、院司どもなどなり、さまことにいつくしうなり添ひたまへば、内裏に参りたまふべきこと、難かるべきをぞ、かつは思しける。」

〈現代語訳〉
(その秋三十九歳で源氏は準太上天皇の位をお得になった。官から支給されておいでになる物 が多くなり、年官年爵の特権数がおふえになったのである。それでなくても自由でないことは 何一つないのでおありになったが、古例どおりに院司などが、それぞれ任命されて、しかもど の場合の院付きの役人よりも有為な、勢いのある人々が選ばれたのであった。こんなことにな って心安く御所へ行くことのおできにならないことになったのを六条院は物足らずお思いになった。)

 帝の子である源氏ですが、臣下に下った者が「准太上(じゅんだいじょう)天皇」(准上皇)となるのは非常に希な例です。しかし宇多天皇は一度臣下「源定省(みなもとのさだみ)」になってから皇族に戻り、ついには天皇に即位していますので、まったく特異な例ではありません。また一条天皇の生母である女御・藤原詮子が院号宣下を受けた例もあります。
 さらに臣下が皇后・皇太后・太皇太后の「三后」に准じた「准后(じゅごう)」となる例は多く見られ、「繧繝縁(うんげんべり)」の畳を用いることが許されました。男子が「后」に准ずる待遇を得るのは奇妙のようですが、一般の臣下が皇族になるには后になるしか方法がありませんので、そうしたことが考えられたのです。
「内裏に参りたまふべきこと、難(かた)かるべき」とあるのは、上皇は内裏には入れないという通例を意味するものです。『長秋記』によれば、退位させられた陽成上皇の干渉をうるさく思った宇多天皇が「神器のある内裏に上皇は入ってはいけない」とルールを定めました。のちに菅原道真左遷の報を聞いた宇多上皇が内裏に駆けつけたとき、自ら定めたこのルールによって内裏に入れなかったと『扶桑略記』にあります。

〈文献〉
『扶桑略記』
「昌泰四年辛酉正月廿五日、右大臣菅原朝臣、任大宰権帥。(中略)同日、宇多法皇馳参内裡、然左右諸陣警固不通。仍法皇敷草座於陣頭侍従所西門、向北、終日御庭」
『長秋記』(源師時)
「保延元年六月七日己酉。(中略)民部卿(藤原忠教)申、准神璽宝剣、神鏡是同儀也。准璽剣儀、上皇渡御不可有其憚。(中略)内侍所御在所上皇不渡給事。大宮大夫云。陽成院禅位後、有入大内之志。為御示此事。始成之儀也。其後延喜帝御薬間、寛平(宇多)上皇欲入内、而称無先例不入給」

高御座御倚子の繧繝縁

〈原文〉
「女君の大輔乳母、『六位宿世』と、つぶやきし宵のこと、ものの折々に思し出でければ、菊のいとおもしろくて、移ろひたるを賜はせて、『浅緑若葉の菊を露にても 濃き紫の色とかけきや  からかりし折の一言葉こそ忘られね』と、いと匂ひやかにほほ笑みて賜へり。恥づかしう、いとほしきものから、うつくしう見たてまつる。「双葉より名立たる園の菊なれば 浅き色わく露もなかりき いかに心おかせたまへりけるにか」と、いと馴れて苦しがる。」

〈現代語訳〉
(雲井の雁の乳母の大輔が、「姫君は六位の男と結婚をなさる御運だった」とつぶやいた夜のことが中納言にはよく思い出されるのであったから、美しい白菊が紫を帯びて来た枝を大輔に渡して、
「あさみどりわか葉の菊をつゆにても濃き紫の色とかけきや みじめな立場にいて聞いたあなたの言葉は忘れないよ」
と朗らかに微笑して言った。乳母は恥ずかしくも思ったが、気の毒なことだったとも思いおかわいらしい恨みであるとも思った。
「二葉より名だたる園の菊なればあさき色わく露もなかりき どんなに憎らしく思召したでしょう」
と物馴れたふうに言って心苦しがった。)

「乙女(おとめ)」の帖で六位の当色(とうじき)である緑の袍(ほう)を着ていることを、さんざんからかわれていた源氏の子も、いまや中納言です。悪口を言った雲居雁の乳母・大輔乳母に「移ろい菊」を見せて、「浅緑色の若葉の菊が、紫の花を咲かすとは思わなかったろう」と軽い嫌味を込めた歌を贈ります。源中納言はかつての「浅緑」が相当に悔しかったらしく、この逸話はたびたび登場します。
 紫は一位から三位の当色で、中でも三位中納言は「中紫」のはずですが、『後撰和歌集』には藤原師輔が天暦七年(九五三)に中納言に叙任された源庶明(宇多天皇の孫)に「濃き紫」の袍を贈った歌が記されます。平安中期は四位が三位の袍を着るなど当色の変遷期でしたので、あるいは中納言が深紫を着用していたのかもしれません。
「移ろい菊」は白や黄色の菊の花が急激な寒気にさらされると「霜焼け」を起こして紫色に変化することを表します。白と紫のグラデーションが平安貴族に愛され、『日本紀略』には寬平元年(八八九)九月に「残菊」の宴が催され、藤原滋実が「可惜黄花変紫稀」の漢詩を詠んだことが記されています。また『古今和歌集』には、退位して出家した宇多法皇を讃えた平貞文の「秋をおきて時こそありけれ菊の花 うつろふからに色のまされば」が載っています。

〈文献〉
『日本後紀』
「弘仁元年(八一〇)九月壬戌《廿五》。制。大臣身帯二位者、聴着中紫、今宜改着深紫。又諸王二位已下五位已上及諸臣二位三位者、依令条着浅紫、今改着中紫」
『後撰和歌集』
「右大臣、庶明朝臣中納言になり侍りける時、うへのきぬつかはすとて  思ひきや君が衣をぬぎかへて 濃き紫の色を着むとは  返し いにしへも契りてけりな打ちはぶき 飛びたちぬべし天の羽衣」
『小右記』(藤原実資)
「正暦三年九月一日。明順真人叙四位、乞袍。以三品袍送四品如何、然而遣之。其報云。近代三四位袍、其色一同。又最初着用如此衣云々。仍所驚示也。為奇不少」
『古今和歌集』
「仁和寺に菊の花めしける時に、うたそへてたてまつれと仰せられければ、よみてたてまつりける 平貞文 秋をおきて時こそありけれ菊の花 うつろふからに色のまされば」

移ろい菊(霜焼けを起こした白菊)

〈原文〉
「東の池に舟ども浮けて、 御厨子所の鵜飼の長、院の鵜飼を召し並べて、鵜をおろさせたまへり。小さき鮒ども食ひたり。 わざとの御覧とはなけれども、過ぎさせたまふ道の興ばかりになむ。(中略)池の魚を、左少将捕り、蔵人所の鷹飼の、北野に狩仕まつれる鳥一番を、右少将捧げて、寝殿の東より御前に出でて、御階の左右に膝をつきて奏す。太政大臣、仰せ言賜ひて、調じて御膳に参る。親王たち、上達部などの御まうけも、めづらしきさまに、常の事どもを変へて仕うまつらせたまへり。」

〈現代語訳〉
(東の池に船などを浮けて、御所の鵜飼い役人、院の鵜飼いの者に鵜を下ろさせてお置きになった。小さい鮒などを鵜は取った。叡覧に供えるというほどのことではなく、お通りすがりの興におさせになったのである。(中略)池の魚を載せた台を左近少将が持ち、蔵人所の鷹飼いが北野で狩猟してきた一つがいの鳥を右近少将がささげて、寝殿の東のほうから南の庭へ出て、階段の左右に膝をついて献上の趣を奏上した。太政大臣が命じてそれを大御肴に調べさせた。親王がた、高官たちの饗膳にも、常の様式を変えた珍しい料理が供えられたのである。)

 紅葉の美しい十月、帝が朱雀院と共に、源氏の六条院に行幸しました。その庭の池で「鵜飼(うかい)」の技が披露されます。ウミウを飼い馴らして小魚を獲る鵜飼は『隋書』(東夷伝倭国条)にも登場する日本伝統漁法。律令では大膳職(だいぜんしき)の下に「雑供戸(ざつくこ)」があり、鵜飼三十七戸が定められ、鵜は出羽国(山形・秋田県)から貢納されました。ここでは宮中で調理を担当する「御厨子所(みずしどころ)」の鵜飼長(うかいのおさ)と、六条院の鵜飼が、宴の演出として鵜に小鮒を獲らせて見せています。
 実際の饗膳の食材として池の魚を捕ったのは左近少将。そして蔵人所所属の鷹飼が北野で捕獲した雉一番(ひとつがい)(二羽)が右近少将から献上され、太政大臣の指示で調理され、帝一行の御膳に供されました。
 御前調理を担当するのは中級貴族たち。当時「料理」は芸能の一種とされ、『新猿楽記』には趣味人が披露する趣味の中に、管絃や和歌・囲碁などと並び、「包丁、料理」とあります。また『古事談』には讃岐守や刑部卿といった貴族たちが、帝や上皇の御前で腕前を披露する場面が紹介されています。調理技術が出世の役にも立ったのです。

〈文献〉
『隋書』(東夷伝倭国条)
「以小環挂鸕鷀項、令入水捕魚。日得百余頭」
『古事記』(神武天皇)
「故隨其教覚、従其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻、時作筌有取魚人。爾天神御子問、汝者誰也。答曰、僕者国神、名謂贄持之子<此者阿陀之鵜養之祖>」
『令集解』
「雑供戸。謂。鵜飼。江人。網引等之類。釈云。別記云。鵜飼卅七戸。江人八十七戸。網引百五十戸。右三色人等。経年毎丁役。為品部。免調雑徭」
『宇津保物語』(祭の使)
「御前の池に網おろし、鵜下して鯉・鮒取らせ、よき菱子、大きなる芡とりいでさせ」
『古事談』(源顕兼)
「一条院の御時、諸卿を御前の渡殿の東の第一の間に喚び、地火炉を清涼殿の東廂に立てて包丁す<讃岐守高雅、伊与守朝順朝臣、奉光等なり>」
「鳥羽院の御前にて酒宴有る日、刑部卿家長朝臣、包丁に奉仕する間、魚頭を破るべき由仰せ事有り。其の時或る人云はく、『魚頭は折櫃の尻にて破り候ふなり』と云々」
『新猿楽記』(藤原明衡)
「十一君気装人者一宮先生柿木桓之、管絃并和歌上手也。有穴者吹、有絃者弾。箏、琴、琵琶、和琴、方磬、尺八、囲碁、双六、将棋、弾棋、鞠、小弓、包丁、料理、和歌、古歌、天下無双者也」

鵜飼の鵜匠
魚鳥の料理は庖丁刀と真菜箸を用いる 『慕帰絵』 国立国会図書館デジタルコレクション

〈原文〉
「夕風の吹き敷く紅葉の色々、濃き薄き、錦を敷きたる渡殿の上、見えまがふ庭の面に、容貌をかしき童べの、やむごとなき家の子どもなどにて、 青き赤き白橡、蘇芳、葡萄染めなど、常のごと、例のみづらに、 額ばかりのけしきを見せて、短きものどもをほのかに舞ひつつ、紅葉の蔭に返り入るほど、日の暮るるも いと惜しげなり。」

〈現代語訳〉
(夕風が蒔き敷く紅葉のいろいろと、遠い渡殿に敷かれた錦の濃淡と、どれがどれとも見分けられない庭のほうに、美しい貴族の家の子などが、白橡、臙脂、赤紫などの上着を着て、ほんの額だけにみずらを結い、短い曲をほのかに舞って紅葉の木蔭へはいって行く、こんなことが夜の闇に消されてしまうかと惜しまれた。)

『源氏物語』にたびたび登場する、朝廷最高のお洒落色「青白橡(しらつるばみ)」「赤白橡」。「橡」はクヌギのことで、その染色による色彩が橡です。『延喜式』(縫殿)での「橡」は「搗橡(かちつるばみ)」(砕いたドングリ)と「茜(あかね)」を木灰のアルミ媒染で染めるレンガ色です。
 また『延喜式』(縫殿)には天皇の「年中御服」として「白橡」の袍を定めています。これがどのような色彩かわかりませんが、搗橡だけをアルミ媒染で染めた薄茶色と考えることは可能です。また最下級の奴婢(ぬひ)の着用する色は橡、喪服として用いられる色は「黒橡」。ところが平安中期の当色混乱期に四位以上の紫が黒の橡になってしまい、吉服と凶服の混同さえ生じて橡は混乱するばかり。『河海抄(かかいしょう)』などの源氏物語解説書でも、橡についての記述量が多く、それがこの色彩の難しさを表していると言えるでしょう。
『延喜式』(縫殿)に示される「赤白橡」「青白橡」の染料には、いずれも橡はありません。『花鳥余情(かちょうよせい)』には「白橡には二色あり、青白橡は青色、赤白橡は赤色のこと。橡は入らないのにその名があるのは納得できない」と記されています。

〈文献〉
『延喜式』(縫殿)
「年中御服 春季正月料<二月三月亦同>。袍十領<白橡六領。浅紫四領。十一月一領。十二月二領。並用白>」
「橡 綾一疋<東絁亦同>。搗橡二斗五升・茜大二斤・灰七升・薪二百廿斤」
「赤白橡 綾一疋<綿紬・糸紬・東絁亦同>。黄櫨大九十斤・灰三石・茜大七斤・薪七百廿斤」
「青白橡 綾一疋<綿紬・糸紬・東絁亦同>。苅安草大九十六斤・紫草六斤・灰三石・薪八百四十斤」
『吏部王記』
「天慶二年八月十四日。章明親王加元服。(中略)冠者服白橡袍」
『小右記』(藤原実資)
「(皇太子初朝覲事)長和三年十一月十七日己亥。(中略)次典侍執禄給太子<御衣一襲、天延例青白橡、而今日赤白橡表御衣也>」
『河海抄』(四辻善成)
「橡<順和名トツルリ>黒色也 是にて黒服を染也。又四位已上袍をも是にて染ゆへに、つるはみの衣といふ。国々より打橡<ウチツルハミ>をたてまつる格にみえたり」
『花鳥余情』
「白橡に二色あり。あをきは青色、あかきはあかいろなり。ともにつるはみは入らさるにこの名をえたる、いと心えぬ事なり」

『延喜式』による橡(つるばみ)
橡ことクヌギの実

※本文の『源氏物語』引用文は渋谷栄一校訂<源氏物語の世界>より
(GENJI-MONOGATARI (sainet.or.jp))
現代語訳は「源氏物語 全編」与謝野晶子訳(kindle版)より

次回配信日は、11月1日です。

八條忠基
綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』『有職植物図鑑』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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