空海 祈りの絶景 #16 入京後の天皇との関わりと如意宝珠

連載|2023.11.10
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

 これまで、空海の人生を行きつ戻りつしながら続けてきた旅も、いよいよ後半。ようやく歴史の表舞台での空海の活躍が始まる。

 空海が入京を許されたのは、大同4年(809)、36歳のとき。当時最新の教えである密教を完全な形で唐から持ち帰ったとはいえ、空海の存在を知る人は、この時点ではほんの一握りしかいなかったと思われる。

 京都市の西北、高雄山の中腹に建つ高雄山寺(現在の神護寺)は、入京後の空海が、20年近く居住した地。

平安京造営の最高責任者、和気清麻呂が開基した神護寺(当時は高雄山寺)の楼門。清滝川畔から参道の長い石段を登った先に現れる。

 都の中心から10kmほど離れた山深い地に建つこの寺で、空海は密教を流布させるための基盤を、少しずつ固めていく。
 時代は、平城天皇から嵯峨天皇の御代へ。空海の人生は、この嵯峨天皇との親交により、大きく動いていくことになる。

左/金堂の鬼瓦。
右/この地は古くから紅葉の名所として知られる。

 2人の交流の始まりは、書がきっかけだった。空海が入京してまもなく、嵯峨天皇は高雄山寺に使いを送り、新調した屏風に中国の説話集「世説新語(せせつしんご)」からの抜粋文を揮毫し、進献するように命じたのである。

 当時嵯峨天皇は24歳。中国文化に強い関心を持つ文化人で、自らも書の達人だった。天皇は、空海が請来した密教より先に、空海自身の書の才能と、当時最先端だった唐の文化や詩文の世界に精通する空海の教養の高さに、まず興味を抱いたのである。

元和9年(1623)に再建された鐘楼。楼上に国宝の梵鐘がかかっている。

 2人の関わりに密教が絡んでくるのは、空海が書を進献した翌年の弘仁元年(810)10月のこと。実はその直前の9月に、前年に譲位した平城上皇が、天皇に復位して旧都・平城京に遷都しようとする動きが顕わになり、嵯峨天皇がこれを鎮圧。上皇は出家し、企てを謀った藤原薬子(くすこ)は自殺するという、いわゆる薬子の変が起きていた。

 空海は、政治基盤を早急に安定させたいと願う嵯峨天皇に、国家鎮護のための修法を行いたいと請願書を提出。ただちに勅許が下り、高雄山寺で7日間にわたる修法を行った。密教によって国を護り、安泰にするという国家と密教の結びつきは、これを機に始まり、空海の晩年には、この国家鎮護のための修法が、宮中において「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」として定例化し、毎年正月の8日から、7日間にわたって修法されることになるのだ。

金堂。ご本尊の薬師如来立像は和気氏が国家鎮護のために造仏したと伝えられている。一木造りで森厳重厚なお姿が特徴の国宝。

 国を護ることは、天皇を護ることでもある。特に古代から中世にかけて、天皇の病気は、空中に浮遊する邪霊や怨霊が、天皇の肉体に侵入した結果生ずると考えられていた。奈良時代には、山林修行で得た薬草の知識や呪術を駆使し、天皇や皇室の医療に携わる看病禅師と呼ばれる僧侶もいたという。

 空海が高雄山寺で国家鎮護のための修法を行った翌年、嵯峨天皇から、旧都・長岡京にある乙訓寺(おとくにでら)の別当に任命されたのは、荒廃していた寺の再建とともに、怨霊を鎮め、天皇や皇室を護る役割もあったと思われる。

 実はこの寺は、かつて桓武天皇の皇太子に立てられた早良親王(さわらしんのう)が、当時権勢を誇っていた藤原種継の暗殺に関与した疑いで、一時幽閉された場所。親王はここで食を絶ち、その後淡路島へ流される途中で没している。以後、桓武天皇の周囲で立て続けに不幸なできごとが起こり、それを親王の怨霊だと天皇が恐れたことから、都は平安京に遷されたとも言われている。空海は、怨霊を恐れて誰も手を入れることができなかったこの寺を修造し、親王の御霊を密教の修法によって鎮めることを期待されたのである。

 書や詩文を通じた文化的な交流と、国家や天皇を護り、その安泰と繁栄を祈る密教の修法。空海はさまざまな面で、天皇の期待に応えることができたのだろう。

乙訓寺境内にある弘法大師像。

 のちに国家の平安を祈る道場として、そして、多くの密教修行者の修禅の道場として、高野山の開創が許され、さらに京都の東寺を預かり、真言密教の根本道場にすることができたのも、天皇からの絶大な信頼と強力な庇護があったからだった。

空海は、乙訓寺の別当だったとき、境内に実った柑子(かんす=在来の蜜柑の原種)を、嵯峨天皇に漢詩を添えて献上したという記録が残っている。このときの柑子を受け継いでいる木が、今も守り継がれている。

 現在、国家鎮護のための「後七日御修法」は、東寺に引き継がれ、毎年正月8日から14日まで、真言宗各派が一堂に会し、国家鎮護、五穀豊穣、国土豊穣を祈る修法が行われている。真言密教においてもっとも大切にされているというその御修法を厳修(ごんしゅ)するにあたっては、ある場所に向かって手を合わせることがあるという。拝んでいるのは、空海が唐から持ち帰ったとされる如意宝珠(にょいほうじゅ)。虚空蔵菩薩や如意輪観音菩薩などが手に持つこの珠は、意のままに願いを叶える宝の珠と言われている。

現在、後七日御修法が行われている東寺の灌頂堂。

 奈良県東部、宇陀市にある室生寺は、室生山の山麓から中腹にかけて堂塔が散在する山岳寺院。

本堂(灌頂堂)。鎌倉時代後期に、密教の正統な継承者になるための儀式である灌頂を行うお堂として建てられた。

 前述の如意宝珠は、この寺の境内、室生山の精進ヶ峰に埋納されている。

「明治時代と昭和の2回、国が調査を行って、昭和21年(1946)の調査で見つかったそうです。発掘されたその珠を、小学生の頃に見にきたという地元の高齢者もいらっしゃいます。その後、宝珠は元の場所に納められました。ただ、どこに埋納されたかは、当時の猊下(げいか)しか知りません。現在は周辺一帯が禁足地になっているので、私も足を踏み入れたことがないんです」

室生寺境内の精進ヶ峰周辺。この森のどこかに如意宝珠が埋納されている。

 そう話すのは、室生寺の教化広報執事の山岡淳雄(じゅんゆう)さん。

「そもそもこの如意宝珠は、お大師さんが唐から帰る前に、師である恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から託されたと言われていて、真言宗にとってすごく大切な宝物です。もともとインドから中国に渡ってきたもので、お大師さんが高野山にご入定されるときまで、ご自身で肌身離さずお持ちになっていたそうです」

本堂(灌頂堂)のご本尊、如意輪観音菩薩。右の手のひらに如意宝珠を載せている。

 もっとも、どういう経路で中国に渡ってきたかは、わかっていないと言う。ただ、空海は師である恵果阿闍梨から、正統で奥深い密教の法を伝授された証明である伝法灌頂を受けている。つまり、インド以来の正統な密教を伝える8番目の祖師となった。もし、その証として、恵果阿闍梨からこの如意宝珠を託されたとしたら……? スケールの大きな話になる。

「もし真言八祖と言われる方々が、代々引き継いできた如意宝珠だったらすごいと思います」

金堂での法要。

 では、その如意宝珠を埋納する場所として、なぜ空海はこの地を選んだのだろう。

「室生の地が日本の中心だからと言われています。それが正しいかはわかりませんが、日本の地図に独鈷杵(とっこしょ=密教の法具、金剛杵の中の一つ)を当てると、その中心部が室生の地に当たるそうです。それでお大師さんは、国の安泰を守るために、如意宝珠を国の中心に埋めようとお考えになったのではないかと言われているんです」

毎年、空海が入定した日(旧暦の3月21日)に、厳修される正御影供(しょうみえく)の様子。

 実は室生寺は、高野山、東寺とともに、真言宗三大道場の一つとされている。一説では、空海がこの寺の再興に携わり、弟子の堅慧(けんね)に宝珠の守護を頼んだとも言われている。だが、山岡さんは、空海自身はこの地に来ていないだろう、と話す。

「もちろん個人的には来ていたと思いたいですが、如意宝珠を埋納したのは、お大師さんではなく、弟子の堅慧さんだとされています。堅慧さんも、おそらく如意宝珠を埋納するために訪れただけだと言われています。でも、ご自身が一度も来たことがないところに、大切なものを埋めろとは言わないと思うので、かつてお大師さんもこの地に来たことがあり、ご入定されるときに、やはり室生の地に埋めておかなければいけないということで、堅慧さんに託されたという推測も成り立つと思います」

奥之院への参道。

 たしかに、この地には山々があり、森や窟や水源があって、若き日の空海が修行したと思わせる空気に満ちている。山林修行も古くから行われていたという。

奥之院から室生の里を望む。

「奥之院には諸仏出現の岩と呼ばれる巨岩があって、現在七重の石塔が建っていますが、その塔の真下が護摩窟になっているそうです」

左/奥之院にある御影堂。空海の42歳のときの像を安置している。
右/諸仏出現の岩。この下に、行者たちが護摩焚きをしたと考えられる護摩窟がある。

 奥之院に通じる石段の脇には、五輪塔や大日如来などの石仏もあり、

 そこかしこに山林修行の名残を感じさせる。


 創建当初から興福寺の傘下にあった室生寺は、法相宗でありながら山林修行の場であり、諸宗の学問道場としての性格も併せ持っていたという。中世以降は密教色も強くなり、鎌倉時代には、真言宗の儀式を行う灌頂堂が建てられている。当時は今のように宗派のくくりがなく、それぞれが学びたい宗派を複数学ぶことが可能だった時代である。山々に囲まれたこの寺は、想像以上に自由な空気に包まれた修行の場だったのかもしれない。

奥之院での法要。室生寺が真言宗になったのは江戸時代から。

 加えて、室生の地は、もともと古来神がこもる「ミムロ」として畏敬されてきた歴史がある。

室生寺境内から室生山を望む。

 寺の近くには、古来龍王が棲むと神聖視されている吉祥龍穴と呼ばれる岩窟や、室生龍穴神社が鎮座し、古代には国家的規模で雨乞い神事が行われていたという。

吉祥龍穴。

「この寺には龍神さんを守るという役割もあったようで、境内には龍穴を遥拝できる拝殿もあるんです」

龍穴の横を流れる滝。

 弥勒堂も東向き、つまり龍穴の方角を向いて建っているという。
「通常のお堂は南向きに建っていて、 弥勒堂も昔は南を向いていたようですが、おそらく室町時代頃から東向きになり、今も東に向いています。以前改修工事が行われたとき、堂内から籾塔と言って、籾が入った、高さ2〜3寸(6〜9cm)の小さな木製の塔が3万7000基ほど出てきました。ですから、いつの時代かはわかりませんが、室生山中やお寺の境内で、五穀豊穣や雨乞いのための龍神さんへの祈禱が行われていたのではないか、とも考えられるんです」

 空海にとって、また真言宗にとって大切な如意宝珠を埋納する地は、古来神聖な、奥深い歴史を持つ土地なのだ。

 最後に、山岡さんにとって、空海とはどんな存在か尋ねてみた。
「有言実行型で、ネガティブなことを一切言わない、ポジティブ精神の人だったと思います。天才だったのでしょう。世界や日本で、また自分の身の周りでいろいろなことが起こったとき、お大師さんだったらこういうときどうするかな、とよく思うんです」
 
 空海がもし今の世の中を見たら、何を思い、どんな行動を起こすだろう。改めて自分も考えながら、室生の地を後にした。

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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