一見何もない風景に、さまざまな記憶が刻まれている。はるか昔の、7世紀につながる広い空。おおらかで、それでいて積み重なる歴史の重みを感じさせる独特の空気感は、旧都・奈良の平城宮跡とどこか似ている。
福岡県中西部にある太宰府。天智天皇2年(663)、白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐と新羅の連合軍に大敗して以降、大陸への窓口として、外交と防衛の拠点となっていたこの西の都で、空海はしばらく止住したとされている。
唐に渡った空海が、日本に帰国するのは大同元年(806)。留学僧として義務づけられていた20年の修学期間を大幅に短縮し、わずか2年ほどで帰国したのは、唐で出会った師、恵果阿闍梨から短期間で密教のすべてを伝授され、「一日も早く故郷に戻って、密教を流布せよ」と諭されたからだった。
もっとも、空海は帰国後すぐには入京が許されず、この西の都の中枢、大宰府政庁から4、500m離れた観世音寺に留め置かれたとされている。
その背景には、空海が書いている「闕期(けつご)の罪」、つまり、決められた留学期間を守らず帰国した罪に問われたことも関係しているだろう。
だが、政治情勢も不安定だった。空海が唐にいる間に、桓武天皇が崩御。平城天皇が即位し、元号は延暦から大同に変わっていた。さらに帰国後の大同2年(807)には、桓武天皇の皇子で、空海の叔父、阿刀大足(あとのおおたり)が侍講(家庭教師)を務めていた伊予親王が、母の藤原吉子とともに、謀反の罪で奈良の飛鳥にある川原寺(かわらでら)に幽閉され、まもなく服毒自殺をするという大事件も起きていた。
空海にとっても、唐から持ち帰った膨大な請来品を整理し、研究する場所と時間が必要だったことだろう。ここ大宰府で、早速請来品の目録の作成に取りかかっている。
460巻を超える密教関連の新訳の経典類や、経典の注釈書、さらにサンスクリットの文献や曼荼羅、密教法具など、一点一点を具体的に列挙し、「御請来目録」として朝廷に献上。当時最新の教えだった密教がいかに優れた仏教であり、その教えを、短期間ではあるものの、体系的にすべて身につけることができたことを報告し、物心両面で、国家のために得難い教えを持ち帰ってきたことをアピールしたのである。
その後、空海に入京の許可が下りるのは、大同4年(810)7月のこと。帰国からの3年間、空海がどこで何をしていたか、確実なことはわかっていない。「御請来目録」を献上後、和泉国の槇尾山寺(現在の施福寺。当連載の#12で紹介)で止住したとする説もあれば、亡き父、佐伯直田公(さえきあたいたぎみ)の遺志を継ぎ、佐伯一族の中心的氏寺を建立するべく、故郷の讃岐に一時帰郷したという伝承もある。もしそうだとすれば、佐伯家は船を所有し、海運業に携わっていたので、その船を利用し、空海がさまざまな地に足を運んだことも十分に考えられるだろう。
神社へのお礼参りもしていたようだ。たとえば同じ福岡県にある宗像大社は、古代から航海の安全と、大陸との交渉の成功を祈願する国家祭祀が行われていた社。
空海は唐へ渡る前と帰国後に、この社に参拝したという。特にお礼参りの際は、近くの山に瑞雲がたなびくのを見て、その山の窟(いわや)に籠って修行をしたという伝承も残っている。
空海が生きた時代、旧都・奈良の仏教は鎮護国家を祈る、いわば国家仏教で、一般の民衆は、昔と変わらず、自然の姿に神を感じ、崇め祀って感謝の祈りを捧げるという信仰とともに生きていた。そんな八百万の神々が住まうと古来信じられている日本の風土に、師から伝授された密教を、いかに軋轢を生じさせることなく浸透させていくか。空海は熟慮を重ねたことだろう。
おそらく帰国後、入京するまでの空海は、日本に密教を流布させるという師から託された一大命題を抱えつつ、経典類の研究を進め、思索し、ときにはさまざまな地へ出向いて、密教という未知の存在を知ってもらうため、少しずつ、その種を蒔き始めていたのだろう。
広島県の厳島、通称宮島も、この時期に空海が訪れたと伝わる地。
古くから島そのものが信仰の対象で、名前の語源も「神に斎(いつ)く島」、つまり心身のけがれを除き、身を清めて神に仕えるという意味を持つこの島の霊山で、空海は虚空蔵求聞持法を修法したとされている。
標高535m。宮島の最高峰、弥山(みせん)は、1万年以上前から、手つかずの状態で自然が大切に守られている稀有な地。麓には、推古天皇元年(593)の創建と伝わる厳島神社も鎮座する。
ちなみに、この神社の御祭神は、福岡県の宗像大社と同じ、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と田心姫命(たごりひめのみこと)、そして、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神。空海は、もしかしたら宗像大社と同様、無事帰国できたお礼参りとして、古くから海上の守護神として崇められていた、この島の三女神を参詣したのかもしれない。
弥山に登ると、山頂付近で巨岩群が現れた。
さまざまな石仏や史跡も散在。
空海が求聞持法を修法したとされるこの山は、古くから山岳修行の場で、空海が訪れる以前から、多くの行者が身を清めて修行に励んでいたという。
山中には、厳島神社の奥宮、御山(みやま)神社も鎮座している。
この社には、空海が弥山の鎮守として勧請したと伝わる三鬼大権現が、江戸時代まで祀られていたという。
「現在厳島神社に祀られている三女神は、もともとこの御山神社から御神霊を下ろしています。神仏習合の時代は、三女神と一緒に三鬼大権現も祀られていましたが、明治の神仏分離令で、三鬼大権現のみ現在の三鬼堂に遷されたのです」
そう話すのは、宮島にある古刹、大聖院(だいしょういん)の僧侶、三松庸裕さん。
「弥山はもともと御山(みやま)と呼ばれていて、島の守護神はいましたが、山の守護神がいませんでした。ですからお大師さんは、この山で求聞持法を修法するにあたり、行を守ってもらうため、三鬼大権現を勧請したと言われています。その後、仏教の広がりとともに、山の姿が須弥山に似ていることから、弥山と呼ばれるようになったと伝え聞いています」
弥山の山頂付近には、三鬼堂のほか、さまざまなお堂が散在している。
虚空蔵菩薩をご本尊とする弥山本堂や、
求聞持法を修法する求聞持堂、そして、行中に寝食をするための通夜堂もある。
もっとも、空海がなぜ帰国後に、かつて四国で試みた求聞持法をこの地で修法しようと思ったのか、それはまったくわからない。もっと言えば、実際に修法したかどうかさえ、たしかな記録がなく定かではない。だが、文字に残されていないというその一点だけで、伝承の真偽を見極めようすると、大切なことを取りこぼしてしまう恐れがある。
そう思うようになったのは、ここ弥山で、「消えずの火」の存在を知ったからだ。
空海は、この山で求聞持法を無事成満した後、その御礼報謝として護摩を焚いたとされている。その霊火が、今も消えることなく護り継がれているのだ。
「代々修行僧や、この山に関わりのある人たちが、秘仏として火種を護ってきたのです」
「秘仏」としての「消えずの火」。
気が遠くなるほどの長い年月、霊火の存在を公にせず、人知れず護り継いできたことは、「言挙げせず」を美徳とするこの国では、十分考えられることである。そして、その事実こそ、記録に残らない真実を今に伝えているとも思うのだ。
現在「消えずの火」は、大聖院の僧侶が交代で護っている。
「一度山に登ったら、数日間下山せず火を護るんです」と三松さん。炎ではなく、火種を護り継いでいるという。
古来さまざまな祈りが積み重なるこの霊山で、空海その人につながる火とともに過ごすとは、どんな感じだろう?
「言葉にするのは難しいですが、毎回感じ方が違います。実は私の祖母も、この山で厳しい修行をしていた山伏で、山については、怖いものであり、ありがたいものであり、優しいものであると伝え聞いていました。やはりここは神の島、神の山なので、現世にはないものを感じると。
私自身も怖い思いや気持ちいい思いをしたり、いろいろありますが、やはり普段感じられないことを感じます。五感を刺激するというのでしょうか。
それに、一人でいることも大事だと思います。普段何かあると、つい人のせいにしてしまいがちですが、山に一人でいると、すべては自分のせいです。自然のおかげも感じますし、そこから神様、仏様を感じるきっかけになる気がします」
仏や神につながり、空海その人にも通じる「消えずの火」。
この霊火は、戦後、さまざまな人の思いとともに、平和のメッセージとして広がりを見せている。実は「消えずの火」は、広島平和記念公園にある「平和の灯」の、火種の一つになっているのだ。
全国12宗派からの「宗教の火」と、全国の工業地帯からの「産業の火」を元火とした「平和の灯」。その中で、「消えずの火」は、「みんなが安泰に、笑って暮らせるように」との願いを込めて選ばれたという。
「世界中から核兵器がなくなるまで灯しましょうということで集められた火ですから、早く消えなければいけないんです。世界から核兵器がなくなってはじめて火が消せる。その発信元が広島なんです」
大聖院でも、萬燈会や折り鶴のお焚き上げが行われるようになった。
「萬燈会は、2001年の9.11のテロの翌年から、世界の平和を宮島から発信しようと始められました」
一方、折り鶴のお焚き上げは、世界恒久平和の思いを託した折り鶴を、「消えずの火」を元火とする霊火で焚き上げ、その煙とともに、平和への思いが国内外に広がっていくようにという願いが込められている。
「広島では、多くの人が原爆で自分の祖父母や曽祖父母を亡くしています。その恐ろしさをずっと言い伝え、繋ぎ続けてきたので、平和への思いはとりわけ強い県民なんです」
法螺貝の音とともに始まり、法螺貝の音で締め括られるお焚き上げは、
法要を経て、「消えずの火」を専用の炉に点火。
燃え盛る火に、来場者が次々と折り鶴をくべていく。
夜は勅願堂で護摩焚きも行われた。
形のない火を護り、受け継いで、平和のメッセージとして世に伝える。空海につながる霊火は、今、大きな広がりを見せている。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。