石鎚山での一夜とその信仰
長く濃密な一夜だった。
沈む夕日を見届けたのは、18時半を過ぎた頃。それから下山する翌朝まで、山はさまざまな表情を見せてくれた。
標高1982m。西日本最高峰の石鎚山は、日本七霊山の一つ。弥山(みせん)、天狗岳、南尖峰(なんせんぽう)の3つの峰から成り、四国を代表する吉野川や仁淀(によど)川などの河川の源となることから、古来水分の山として信仰されてきた。
もっとも、古代の石鎚信仰は、石鎚山脈の東に聳える瓶ヶ森(かめがもり)や笹ヶ峰が中心だったという。
その後、山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神、蔵王権現の信仰が広がりを見せ、拠点も石鎚山へ移った。
現在は石鎚大神(石土毘古大神=いはつちひこのおおかみ)を祀る石鎚神社の奥宮、頂上社が、3つの峰の一つ、弥山に鎮座している。
「石鎚」は、「石土」、「石鉄」、「石槌」など、表記がさまざま。読みも、古代は「いわつち」、その後「いしづち」、「いしつち」などいろいろだが、いずれも意味は同じ。「石の霊」、つまり、石の神秘的な力が籠る山、ということだ。
石鎚の名がはじめて文献に登場するのは、弘仁年間(810〜824)に完成した仏教説話集の『日本霊異記』。それによると、山の名は、「石槌」の神にちなんでつけられ、奈良時代の僧、寂仙(758[天平宝字2]年没)がこの山で修行したとある。若き空海が修行した頃には、すでに山岳修行の地として知られていたのだろう。
ちなみに、この寂仙は臨終の際、28年後に国王の子として生まれ変わると遺言したという。そして、その生まれ変わりが、実はのちに空海にとって最大の援護者となる嵯峨天皇だと信じられていた。この地で修行した空海も、その伝承を知っていたとする説もある。
いずれにせよ、この山は、人々の篤い信仰とともに、長い歴史を積み重ねてきたのである。
日中のにぎわいが去り、山は清浄な空気を取り戻した。
石鎚山の弥山には現在山荘があり、宿泊もできるようになっている。
もっとも、この日の宿泊者は、私たち夫婦2人だけ。早めに夕食を済ませ、空海も見たであろう風景と、ただひたすら向き合って過ごすことにした。
ほどなく、三日月が姿を現した。
続いて星。徐々に暗くなる空に呼応するように、見える星の数が増えていく。いや、実際星は、常に変わらず存在し、同じように輝いている。にもかかわらず、日中は見えないというだけで、星は夜のみ存在すると思い込んできたことを、そのときはじめて気がついた。
空海も、自身の著書『吽字義(うんじぎ)』の中でこう記している。
「日月星辰は本より虚空に住すれども
雲霧蔽虧し 烟塵映覆す
愚者はこれを視て 日月なしとおもえり
本有の三身も またかくのごとし
無始よりこのかた 本より心空に住すれども
覆うに妄想をもってし 纏うに煩悩をもってす」
つまり、太陽や月、星は常に空に存在するのに、愚かな人々は、雲や霧に覆われ、目に見えないと存在しないと思ってしまう。同じように、密教の本尊である大日如来も、本来は常にみなの心の中に存在するのに、妄想や煩悩によって、隠され見えなくなっているだけだと。
空海が『吽字義』を完成させるのは、50歳を過ぎた頃。他の著作と同様に、難解な部分が多い一方、自然のありようが、喩えとしてさまざまな箇所で使われている。空海という人間にとって、またその思想にとって、いかに自然の中に身を置いた体験が大きかったかを感じずにはいられない。
気がつくと、雲なのか霧なのか、白くうごめくもやもやとしたものが、次から次に下から湧きおこり、みるみるうちに眼前に迫ってきた。
まるで、谷間から這い上がった死者たちが、こぞって手を伸ばし、足をつかんで谷底へ引きずり込むように、すべてを丸ごと呑み込んでいく。その不気味さ、恐ろしさに、思わず山荘へ逃げ込んだ。
山は怖い。甘くない。
どこかハイキング気分でいた自分への、厳しい洗礼のように思えた。
満天の星空に転じたのは、深夜2時を過ぎた頃。
持参した寝袋にくるまって、頭上の星々を見上げた。
周囲に木は一本もなく、連なる山々も眼下にある。寝転ぶと、視界すべてが空だった。天の川も足元から立ち上がり、180度見えている。
ふと、「ある」という言葉が浮かんだ。頭上の星は、感情もなく静かにある。山もまた、同じくあり、木や草や石も、ただある、それだけだと。自分という人間も、突き詰めれば、感情や肉体、さらに善悪や優劣などの「個」を超えた、心だけが「ある」存在なのだろう。
空と星と、見上げる自分。そこには、この地に積み重なる歴史も、自分の来歴や日常も関係ない、すべてただ「ある」という、今この瞬間だけが存在していた。
惑星の音も浮かんできた。以前聞かせてもらったNASAの無人宇宙探査機ボイジャーが捉えたさまざまな音は、どの惑星も音を発し、一つとして同じ響きはないという事実を伝えている。
人間の耳に届かないからといって、無音だとは限らないのだ。むしろ宇宙は、この世界は、聞こえない音に満ちていると言っていいのかもしれない。
いつしか空が白み出し、闇に沈んでいた山々の実体が少しずつ顕になった。
鳥の声は数と力を増し、大気の波動や密度も上がっていく。
やがて、太陽が姿を現した。
手を合わせ、ご来光を拝む。「日の出」ではなく「ご来光」。「見る」ではなく「拝む」。何気なく発する言葉は、実は祈りに根ざしたものだったことに、改めて気づかされた。
登ってきたばかりの修験者が、法螺貝を吹いている。
その音は、たとえば池に投げた石が水紋を作って同心円状に広がるように、大気中に拡散していく。惑星それぞれに音があるように、地球にも、人間が発する音や言葉によっても生まれてくる、この星独自の音が存在するに違いない。
山上の神々しい風景を目と心に焼き付け、いよいよ下山。
神宿るこの山は、もともと女人禁制で、精進や潔斎(けっさい)もとりわけ重んじられてきた。山へ入る前は、海や川で垢離(こり)をとり、身を清めることが鉄則だったという。
それだけに山籠りを終え、修験者が里に下りてくると、山麓に住む人々は山の霊力を帯びた「オヤマサマ」として迎え、魔除け、厄除けのために、我が身を跨いでもらう風習があったと聞く。
一般の人々が登拝できるようになったのは、江戸時代中期以降のこと。昔は石鎚山の初登拝をもって、村の構成員であることを認める成人儀礼の風習もあったようだ。
「石鎚の神は、高神様(たかがみさま=霊威の強い神様)。別格です」
そう話すのは、石鎚山で出会った修験者、池之内宏さん。後日話をうかがう機会を得て、石鎚信仰について聞いてみたのである。
池之内さんは生まれも育ちも愛媛県。20代の頃、県内にある修験道の寺院で得度し、以来30年以上、修験者として祈りが身近にある生活を送っている。
「石鎚の神を祀っている家は、今も多いです。石鉄経という経文もあるんです。昔はご先祖さんの霊を呼んで成仏させる『拝み屋さん』と呼ばれる行者さんが多くいて、体調が悪くなったり物を紛失したりすると、その行者さんのところに行って、除霊や失(う)せ物探しなどをする人も普通にいました。家で祀っている石鎚の神にいろいろ聞くという行為は、このあたりでは日常で、信仰の原点だと思います」
池之内さんが石鎚山を登拝するのは、年に一度。もっとも、かつては頻繁に山へ入っていたという。
「山に登るといろいろなことが起こりますし、ありがたいと思います。でも、日頃の生活でも、神様がいると感じることがある。それが大事だと先生に教わりました。
それに、山の行より里の行、という修験の教えがあるんです。山での修行は初期の頃には大事ですが、ある程度期間を経ると、里で人に揉まれないといけない。だって、一生山にいたら人助けもできないし、世の中の役にも立てないですから。ただ、人と関わりを持つうちに、いろいろな垢(あか)もついてくる。だから、それを落とすために、たまに山に入るんです」
池之内さんの今は亡き師匠は、天台宗寺門派の流れを汲む金剛宗を興した、いわば宗祖。
根本となる教えはあるのだろうか。
「修験道の祈りの原点は、他の宗教と同じように感謝と懺悔です。でも、それを導く正統な教えは、実はないんです。何が足りないかは人それぞれ違いますから。先生は人によって説法を変えていました。お釈迦さまと一緒です。また、本来の修験の姿に戻そうとされていたので、代表的な石鎚修験とも違うんです。ただ、常々宗教ではなく、信仰でなくてはいけないとおっしゃっていました。長年どういうことかと思っていましたが、宗の教えではなく、見えない存在に、自然発生的に湧き起こった祈りを捧げるのが、信仰ではないかと思います」
加えて「まこと」という言葉も、師は頻繁に使っていたと言う。もっとも、その言葉はいつもヒントのみで、あとは自分で悟らなければならないらしい。
「つまり、自分の意識や考えではなく、もっと奥にある『真』の心ということでしょうか。『誠』でもあると思います。つまり言ったことは絶対に成す。嘘がないということです。突き詰めると、言霊(ことだま)のように、逆に言葉にしたことが実際に成る、成ってしまうということだと思います」
そして、たとえばイエス・キリストは、神と心が通じていたから、自分の言ったことがそのまま成就し、神の力を自分から出せたのではないかと付け加えた。さらに、空海もそれに当てはまるところがある、とも。
考えれば、真言とは真理を表す秘密の言葉。嘘のない真の心で発する真理の言葉には、霊力が宿る、ということだろうか。
一方で、「修験は本来、験力(げんりき)あってのもの」と言う。験とは、結果が形をとって現れるしるし、もしくはあかしのこと。ある程度生まれ持ったもののようだが、空海の時代の山林修行者たちも、その験力、つまり霊力を得るために、厳しい精進潔斎をして山に籠ったのだ。
「修験者は験力によって病気などで苦しんでいる人たちをお助けし、救われた人はその体験によって、神仏やその世界が存在することを実感し、心から感謝の気持ちを持って手を合わせるようになります」
それが、本来の真の信仰の姿なのだろう。
この日は近隣にある修験道の寺院で、月に一回の神事があるという。せっかくだからどうぞという好意に甘え、参列させていただくことに。
この寺の御本尊は不動明王。石鎚大権現や弘法大師の像も祀られ、参列者が観音経や般若心経を唱える中、先祖供養が始まった。
亡くなった先祖の生年と没年、それに戒名が書かれた紙を挟んだ紙製の位牌を、ご住職が一つひとつ錫杖(しゃくじょう)で清め、護摩の火にくぐらせていく。
最後に、先祖から託された言葉を、それぞれの生きる子孫に伝える場面も。
「お大師さんは、世俗的なものを思想の中にどんどん取り入れている」
ある真言宗の寺院のご住職の言葉を思い出し、その意味を改めて考えてみた。
少年の頃、叔父の阿刀大足(あとのおおたり)から漢籍(漢文で書かれた書籍)を学び、その後大学で儒教を学んだ空海は、一方で、莫大な仏教経典を熱心に読み込んでその教理を学び、自然の中に身を置いて、山林修行や辺路修行を重ねた。その後、唐で密教を習得してからは、その教義を礎としながらも、自然豊かな日本という国土に積み重なる縄文時代からの信仰や八百万の神々、さらに、それぞれの風土に根づいた民間信仰や風習を否定せず、逆に取り入れ、すべてを包括した真言宗を生み出した。個人的にそう思う。
異国の宗教も、日本古来の信仰も。すべてを否定しないその寛容な在り方が、のちに発展する弘法大師信仰の源にあるのだろう。空海その人を思い浮かべるとき感じるとてつもない大きさの、一つの理由がわかった気がした。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。