撮影=薈田純一

写真家・薈田純一インタビュー

「幻影城はひとつの謎解きである」――タイポグラフィカルな撮り方の先に見えてくるもの

別冊太陽|2023.8.11
インタビュー・構成=(別冊太陽編集部)

 『別冊太陽 江戸川乱歩』の巻頭グラビア・作品世界を撮影した写真家・薈田純一氏が、撮影の裏側を語る。
 第1回は、「幻影城」と呼ばれる乱歩の土蔵と書棚について、薈田氏の目がどのようにとらえたのかに迫ります。

(取材・構成=別冊太陽編集部)

書棚を撮るということ

 幻影城の撮影は、書棚をモチーフとした撮影の一環から始まりました。いろんな書棚を撮っていて、ちょうどジャーナリスト・評論家の立花隆さんの書棚の撮影が終わったあたりで、次に誰の書棚を撮ろうかな、ある程度知名度がある人の書棚を撮りたいな、とアンテナを張り巡らせていたところに、私の出身である立教大学に江戸川乱歩の蔵があるということを知り、これはぜひ入れるものなら入りたいと思いました。蔵の内部は一部しか公開はされていませんでしたが、許可をいただいて、蔵の中のすべての書棚を撮影しました。2013年の冬に撮り始め、2014年の冬に終わったので、撮影に1年、そのあと編集に数年かかりました。

撮影=薈田純一

 撮り方ですが、書棚全体を撮るのではなく、一段ずつバラバラに撮っています。そして、それぞれの写真を組み合わせることでひとつの棚の写真にしています。なぜ一段ずつ撮るのかというと、書棚の本の背表紙がすべて読めるように撮るとなると、それしか方法がないんです。幻影城のように狭い空間で、後ろに下がって撮れないシチュエーションだと特にそうです。
 一段ずつ撮ることで、書棚を一度解体するわけです。解体したものを、もう一度組み上げていく。つまり、本棚の再構築をする。そうすると、背表紙が読める写真になり、そのままビジュアルアーカイブになる。

撮影=薈田純一
撮影=薈田純一

 端的に言うと、書棚そのものが撮りたい。そして、私的な感覚や感情をなるべく排除してタイポグラフィカルに撮りたいんです。

 結論めいた話を先にすると、そうやって記録的に書棚を撮っても、パーソナルなものが写真に現れてくる。私的なものを排して撮ろうとしても、にじみ出てくる。でもそれは二次的なものであって、目的ではありません。よく書棚の写真を見て「持ち主らしさが出ている」と評されることがあります。それは大事なことではありますが、私の目指していることではありません。ただ、タイポグラフィカルに撮っているはずなのに、それを超えて、見えてくるものには興味があります。

「真逆のアプローチ」で乱歩に迫る

 幻影城の中にある乱歩の書棚を撮り始めたとき、おどろおどろしさやフェティッシュさといった、乱歩にイメージしていたものは本当に感じなかった。ある意味で裏切られたような感覚に興味が少しそがれました。タイポグラフィカルに撮るとはいえ、撮影にドライブがかかるのは、直感的にその棚がどんなものなのかを感じるとき。それがわかるまではとても大変で、もうやめようかな、と思ったこともありました。

撮影=薈田純一

 今回の『別冊太陽 江戸川乱歩』の写真のお話をいただいて、(書棚の写真を)組み上げていく中で思ったことがあります。

 時代が変わっても、次々といろんなクリエイターが乱歩を語りますよね。テレビや小説、ラジオや朗読などのメディアにしても、乱歩には古びずにクリエイターを刺激していく力がある。『別冊太陽 江戸川乱歩』監修の戸川安宣さんもおっしゃっていましたが、それぞれの方が、それぞれの乱歩体験を、ある意味得意げに、嬉々として書いているといいますか……。自分だけの体験として書く。そういう語りから、乱歩の人間像や作品の新たな切り口が見えてくるっていうのはやっぱりすごいなと思います。

  そこで、ふっと気がついたことがあって。実は書棚の撮り方って真逆なんですよ。当初やろうとしていたこと、つまり、私的要素を排してタイポグラフィカルに撮ること、それによって、書棚そのもののたたずまい……たたずまいと言ってしまうと、また非常に情緒的になってしまいますが、「環境や空間としての書棚」であるというのは一体どういうことなんだろうっていう。それは、クリエイターが自分の乱歩体験を語ることと真逆だなと思ったんです。

撮影=薈田純一

皆、乱歩の「たくらみ」に乗せられている

 今回の『別冊太陽 江戸川乱歩』では、私の撮った巻頭グラビア(書棚)と作品世界ページの撮り方のテイストはちょっと乖離してるんですよ。前者はタイポグラフィカルに、後者は作品世界にどっぷりつかっている。

 その乖離ってなんだろう、と考えていたら、作品世界に魅了されて新たなものを作ることや自分の体験として乱歩を語ることを、皆さんも、喜び、楽しみながらやっているんじゃないかと気づいて。これって乱歩に「たくらまれたな」と思ったんです。

 戦前の作品だけで、乱歩は人間の心理の怖さだとか、人の心を打つものとかを、もう十分と思ったかどうかはわからないけれど、ある程度もうできあがっていたと。その効果を知ってか知らずかはわからないけれども、(自分の作品が)純文学に匹敵することはもう当人は確信していたと思います。つまり、ミステリーの中の自分の作品性や、自分の作品の力みたいなものを、乱歩は知っていた。そこにまんまと、今回寄稿くださったみなさんはハマって、乱歩のたなごころに乗せられているかのように書いちゃっている。そしてこの『別冊太陽』がとてもうまく成立している。

タイポグラフィカルな撮影の意味

 それでは、自分が最初にやった、タイポグラフィカルに撮っていたものは何なんだろうと考えました。書棚を見ると、洋書がアルファベット順に並んでいたり、自著本を収める棚に書く字をレタリングしたり。「本当に探偵小説が好きだったんだな」という、乱歩自身の非常にパーソナルな部分がものすごく伝わってくる。それから、それをどういうふうに伝えたかったのかということ――どのように本を配列すれば、ほかの人たちにそれが伝わるか、といったことを考えて書棚ができているようにだんだん見えてきました。

撮影=薈田純一

 洋書の棚は特に美しいです。1920年代から30年代の、欧米ミステリー黄金期の本があそこに並んでいるわけで。尊崇かどうかはわかりませんが、乱歩自身の好きという気持ちと、アイディアの源泉に対する尊敬が表れたような形で並んでるから、そこはとても美しい書棚になっていると思いました。しかも、自分のトロフィーとして並べていない。やっぱり、書棚からすごく乱歩の書籍に対する愛着と尊敬が入り混じった感じが伝わってきて、それがまた美しいんだなあと気づいてゆく。

 最初は淡々と撮っていましたが、何のためにこういうふうに乱歩は書棚を構成していったのかと考えると、ひとつの感想が浮かんできました。

あの蔵が、「ひとつの謎解き」になっている

 あくまでも私の感想なので、合っているかどうかはわかりませんが――こう、「たくらみ」に乗せられて、乱歩のたなごころに乗せられて、今、こういうふうに、私を含めてクリエイターが乱歩を語ったり、写真を撮っているんじゃないかと。ふっとそう思ったら、どうやってその「たくらみ」に乗せられてしまったのかの謎解きが、書棚をタイポグラフィカルに追っていくとできるようになっているんじゃないかと思いました。あの蔵の中の書棚がひとつの本格小説になっているじゃないかと。

 この蔵の中の書棚自体は、一つの探偵小説の謎解きになるように作られている。それを乱歩はせっせと作った。

 私は江戸川乱歩を理解するために撮ったわけではないけれども、理解したいと思った人がじっくりと見ると、謎解きの構造物として蔵と書棚が立ち上がってくるような撮り方は、たぶんできたのではないかと思っています。

薈田純一

大学卒業後、外国通信社の写真記者として海外主要報道媒体の取材に従事する。
のちに写真家として独立。官公庁の広報誌や雑誌、海外招聘ミュージカルの広告写真などを手がける。
近年は小説、書籍、書棚をメインテーマとし多くの著名人の書棚や書店、図書館の書棚を撮影。
最近は書斎空間を飛び出し、景観や雪舟作庭の庭をテーマにタイポロジカルに多視点の写真に取り組んでいる。

別冊太陽『江戸川乱歩 日本探偵小説の父』詳細はこちら

監修=戸川安宣
平凡社刊行 定価2,970円(本体2,700円+税)

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