「新しい自分が見たいのだ」河井寛次郎│ゆかし日本、猫めぐり#29

連載|2023.7.7
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

猫を通して日本を知る、「ゆかし日本、猫めぐり」。
第29回は、河井寛次郎記念館の看板猫を訪ねます。

猫に会いに

 不思議な猫である。しかも賢い。
 ある日勝手にやってきて、居つくようになったというこの猫は、以来7年間、人にはもちろん、館内の展示物に一度も爪を立てたことがないという。

 京都・五条坂にある河井寛次郎記念館。

 大正から昭和にかけて活躍し、民藝運動の中心メンバーでもあった陶芸家、河井寛次郎の作品を展示するこの記念館は、もともと寛次郎自らが設計し、以後30年ほど暮らした住居兼仕事場。家具や調度、灯りなども寛次郎のデザイン、あるいは蒐集したものばかりで、「暮しが仕事 仕事が暮し」という言葉を遺した寛次郎のものづくりの源とも言える当時の暮らしの息づかいが感じられる場所になっている。

 猫が館内で爪を立てないのは、そんな家やものに宿る想いやぬくもりを、感じ取っているからなのだろう。

 もっとも、その表情はいたってクール。

 特に積極的に甘えるタイプでもないが、人が近づくと喉を鳴らし、気がつくと、猫を中心に人の輪ができている。

 この日も昼寝姿を撮影中、話しかけると喉をグルグル。姿勢こそ変えないものの、まるで「今は眠くてたまらないの。でも来てくれてありがとう」と言っているよう。

 障子越しのやわらかな光、館内を循環する心地よい空気。完成から90年近く経った今も、すみずみにまで心が行き届いたこのすがすがしい空間で、ゆっくり昼寝ができるなんて、なんと幸せな猫だろう。

 ほどなく、猫は昼寝を終え、腹ごしらえに向かった。

 その後、囲炉裏のある板の間へ移動し、

 「こちらが、餅つきの臼を加工して作られた椅子です」。そう案内するかのように、使い込まれて艶の出た椅子をぐるりと一周し、ちょこんと座った。

 来館者が、猫に引き寄せられるように集まってくる。猫も歓待。場は和み、来館者同士打ち解けた雰囲気になった。

 もっとも、肝心の猫は背を向けてしまい、来館者は、そのむっちりした背中を眺めながら、猫にまつわるよもやま話に花を咲かせた。

 寛次郎の存命中も、この家には多くの客人が訪れた。民藝の同人たちはもちろん、さまざまな地から、老若男女を問わず来客があり、そのたび寛次郎は忙しい手を休め、妻の手料理とともに丁寧にもてなしたという。
 「これは大人になって気づいたことですが、河井は身内であっても、たとえ小さな子どもでも、同じ地球上に今一緒に生きている一つの生命体だという感じで接していたように思います」
 寛次郎の孫で、学芸員の鷺珠江(さぎたまえ)さんは振り返る。

 鷺さんは寛次郎が亡くなる9歳までともに過ごし、その後、記念館になる直前の高校生までこの家で暮らしたという。そんな鷺さんに、猫を連れて記念館を案内してもらった。

 2階は書斎や寝室など、河井家のプライベートに使われていた場所。
 猫はどの部屋に連れていかれても、それを受け入れ、すぐに場に馴染んだ。たとえば、民藝運動の、やはり中心メンバーだった柳宗悦からプレゼントされたという掛け軸の前でもこの通り。

 そもそも民藝は、「民衆的工藝」の略語で、柳宗悦や濱田庄司、そして河井寛次郎の3人によって、1926年(大正15)につくり出された言葉という。
 当時の工芸界は、華美な装飾を施した観賞用の作品が主流だったのに加え、日本全体が近代化に邁進。機械化・効率化が重視され、手仕事を軽視する傾向にあった。そんな風潮に警鐘を鳴らしたのが、この3人だったのだ。

 「美は美術品のなかだけにあるのではなく、無名の職人や工人の日々の鍛錬から生まれてくる、日常の生活道具のなかにも存在する。それをもっと知ろうじゃないかと、いろいろな場で紹介したり、蒐集したり。民藝運動とは、簡単に言えばそういうことです」と鷺さん。

 ちなみに、2階に通じる箱階段も、民藝運動のメンバー、濱田庄司からのプレゼントだという。猫はここでも、一瞬キョトンとしつつもすぐにリラックス。

 一方、寝室だった部屋には、寛次郎が作った木彫の猫も。

 「この家を作ったときの余材で制作されたもので、これが寛次郎にとって最初の木彫作品です。このとき4点ほど木彫を手がけていますが、その後中断し、戦後の60歳ぐらいから10年間、本格的に木彫に取り組んでいます」

 実は、この作品にはエピソードがある。当時河井家で飼っていた「熊助」という猫が、ある日突然姿を消し、以来ふさぎ込んでしまった一人娘を慰めようとして作られたという。このとき寛次郎が言った言葉を、一人娘、つまり鷺さんの母親は、後年こう記している。「父は『熊助がいなくなってとても悲しいだろうが、心配することはないんだよ。猫の生命体はなくならないんだから。またどこかで生まれているよ』と」。そして、当時はわからなかった「猫の生命体」という言葉の意味を、この木彫の猫を見るたびに思い出すと、述懐していたという。

 ともあれ、どこにいてもしっくり馴染み、背景も含め、すべてが「絵」になるこの猫が、撮影中一番くつろいでいたのは、寛次郎の書斎にある窓辺だった。

 この部屋には、寛次郎がデザインした作り付けの本棚と、日々原稿の執筆や読書の際使っていたという机と椅子が、当時のまま置かれている。

 寛次郎は、陶芸や木彫などのものづくりだけでなく、詩や随筆も数多く遺した。その言葉は、『いのちの窓』という著書にまとめられ、今も「家族それぞれ、生きるうえでの羅針盤になっている」と鷺さんは言う。

 「仕事の原動力となったのは、自分とは何か、ということだと思います。『新しい自分が見たいのだ––––仕事する』という言葉もありますし、常に自分への興味に突き動かされて仕事をしていた印象があります。河井は苦労して手に入れた技法でも、到達したら、それを手放せる人でした」

 16歳で陶芸の道を目指し、現在の東京工業大学の窯業科に入学。卒業後は、京都市立陶磁器試験場で釉薬の研究に携わり、それから世に出た寛次郎の陶芸家としての歩みは、大きく初期、中期、後期に分けられる。つまり、中国の古陶磁に影響を受けた作品で注目され、人気を博した初期、民藝運動に関わって一陶工を目指し、作品から「銘」、つまり制作者である自身の名を刻むことがなくなった中期、そして、民藝の精神をしっかり貫きつつ、作品自体は、もはやその範疇におさまりきれない独創性を増していく後期。長年積み上げてきたものを潔く手放し、手放すから次に向かえる。そうやって、技法はどんどん多彩になり、バリエーション豊かになっていったという。
 「河井は力を出し切ることを、とても大切にしていた人だと思います」

 気がつけば、猫はすっかり落ち着いて、再び昼寝をすることに決めたよう。

 しばらくそっとすることにして、1階に降り、中庭を抜けて仕事場へ。ふと見上げると、猫の背後に、寛次郎の写真が見えている。まるで、猫をやさしく見守っているみたいだ。

 鷺さんにも、寛次郎との忘れられない思い出がある。
 「河井は忙しい人でしたが、見かけると呼び寄せてくれることがあって、そのとき発せられるセリフが2種類あったんです。一つは『今日は柿の種だね』。もう一つは、『今日はメロンの種だね』と。そう言われると、『柿』はマルをもらった気持ちになって、『メロン』は頑張ろうと思っていたなと、ふと10代の後半に思い出したんです」

 その後、鷺さんはその言葉について深く考えるようになったという。

 「柿の種は、大きくて存在感がありますよね。包丁を入れても、種にぶつかると、気合いを入れ直して割らなければいけないほど、命が凝縮されている。一方メロンは、高価ではありますが、種は色白で中身もなく、ペタッとしています。つまり河井は、私が元気なときは『柿』、元気がないときは『メロン』と言っていたことに気づいたんです。河井にとって子どもらしさとは、柿の種のように黒く、つまり日に焼けて、はちきれんばかりに力があるということだったのでしょう」

 さらに後年、このエピソードで新たに気づいたことがあったという。
 「そういえば、『メロンの種』と言われたとき、『頑張りなさい』とか、『元気を出しなさい』と言われたことがないんです。つまりジャッジメントだけだったんです」

 そこから寛次郎の本質が見えた気がしたと鷺さんは言う。一つは、自然界のものに喩えて表現する、寛次郎の文学性、抒情性。もう一つは、たとえ身内であっても、こうしろああしろと押しつけない。つまり相手の自由を尊重したこと。

 作品も然り。見る人の自由を尊重し、寛次郎は自作にイメージ的な名称を一切つけていないという。言葉もまた、最晩年には削ぎ落とされて四字熟語になり、読み方も解釈も、すべて受け手に委ねられている。
 寛次郎の生み出すものと生き様は、しっかり結びついているのだ。

 1階には、作品の展示スペースや素焼き窯のほか、

 ほとんどの作品が生まれた登り窯も、当時のまま公開されている。

 島根県出身の寛次郎は、当時五条坂でよく見られた、近隣住民と共同で使用するこの登り窯を譲り受けたことから、この地に住むことに決めたという。

 「猫、連れてきましょうか?」
 こちらの意を汲んで、鷺さんが再び猫を抱き抱えて現れた。

 はたして、どんなポーズを取ってくれるのか。

 カメラを構えると、

 猫はおもむろに水を飲み出した。

 その後、窯の上に移動。しばらく、そのまま動かなくなった。

 「河井は『自他合一』という言葉を遺していますが、自分だ、他人だという区別がない世界を目指していたように思います。あるいは自力と他力、つまり自力を尽くし、あとは窯の火という他力に委ねる意味もあるでしょう。いつも火と土に向き合い、おおいなる力に対する敬虔な感謝を持っていたと思います」

 結局猫は柱に飛び乗って、手の届かないところへ行ってしまった。どうやら、「今日はおしまい」のサインのよう。

 帰り際、再び囲炉裏の間を通ったとき、寛次郎の直筆の書が目に入った。鷺さんの言葉を思い出す。

 「晩年、河井はこの空間を『民族造形研蒐点』と表現しています。『所』ではなく『点』としたのは、おそらく地球上のほんのワンポイントという意味や、『点』の方が無限の広がりがあるなど、いろいろな想いがあったのでしょう」

 記念館での時間を振り返り、ふと思った。ここは、訪れた時点で終わるのではないと。それぞれが、たとえ漠然とでも何かを感じ、それが知らずに種となって心に残り、やがて然るべきときに芽を出して、育て方によって大きく広がっていく。そんな可能性を秘めた場所なのかもしれないと。

 また来よう。猫に会いに。そして、この家に、寛次郎に会いに。


河井寛次郎記念館
〒605-0875
京都市東山区五条坂鐘鋳町569
TEL: 075-561-3585
10:00〜17:00(入館受付16:30まで)
月曜休館(祝日は開館、翌日休館。また夏期・冬期休館あり

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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