『ミロ展—日本を夢みて』 Bunkamura ザ・ミュージアム

アート|2022.4.6
坂本裕子(アートライター)

世界初。日本との関わりからミロの創作をみる大回顧展

ピカソと並び、スペインが誇る20世紀美術の巨匠、ジュアン・ミロ(1893-1983)。
 バルセロナに生まれ、同じカタルーニャの小村モンロッチを行き来して画家の道を歩んだ彼は、1920年からパリに出てシュルレアリスム運動にも参加、ふたつの大戦およびスペインの内戦中は戦禍を避け各地を転々としながら制作を続け、1956年にマジョルカ島のパルマにアトリエを構えた後は、90歳で没するまで旺盛な活動を行った。
 その創作は、絵画にとどまらず、彫刻、陶芸、壁画、版画、詩作など多岐にわたり、独自の表現はいまなお多くの人びとに愛されている。

パリ時代の活動からシュルレアリスムの作家として語られることの多いミロだが、本人は、そうした枠にはめられることを嫌い、最期まで自由な創作を貫いた。
 ミロは、「ミロ」として美術史にその名を刻んでいる。

そのミロの表現の多様なインスピレーションの源泉に、実は日本文化との深い関わりがあった。

彼が生まれた19世紀末は、ヨーロッパでは空前の東洋ブームが興っていた時代。
 シノワズリと並びジャポニスムが流行し、浮世絵をはじめとする日本文化が注目されていたのはバルセロナでも同様だった。ミロも若き日には友と日本への憧れを共有し、初期作品にはそうした環境を感じさせるものが残されている。
 70代になってから2度にわたり来日、書をはじめとする日本文化に触れ、瀧口修造や岡本太郎、大阪の現代美術コレクターであった菱田勇巳などとの交流を通して日本への造詣を深め、それらは晩年の作品に活かされていった。

一方、日本においてもミロへの注目は早く、1930年代から雑誌などを通して彼の作品が紹介され、展覧会の出品交渉も熱心に進められた。
 1940年、世界に先駆けてミロについてのモノグラフ(単行書)が出版されたのも日本だったのだそうだ。
 日本各地の美術館にはミロの画業において重要な作品が多く所蔵されており、現在もわたしたちを楽しませてくれる。

こうした“相思相愛”ともいえるミロと日本との関係を追い、その創造を新たな角度から見直す展覧会が、東京のBunkamura ザ・ミュージアムで開催中だ。

         ※以下、作品画像はすべて
         © Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2021 E4304

日本への興味を象徴する初期作品から56年ぶりに来日する彼の代表作、日本での展覧会ではじめて紹介された作品など、さまざまな資料を含めた約130点が、スペイン、ニューヨーク、そして日本各地より集められた。
 ミロ自身が愛蔵していた日本の民芸品も、彼の没後はじめて日本に「里帰り」。
 来日した際の写真も多く掲示され、ミロの日本への関心の高さをより感じさせる。

会場は編年を基本に6章の構成。
 油彩画はもちろん、コラージュやテンペラ画に水彩画、版画、ブロンズ彫刻からやきものまで、幅広い創作は、その素材も多彩であることがわかるセレクト。
 そして初期から晩年まで、いかに多くの日本の美術館がミロの作品を所蔵しているかもチェックしたい。
 各章それぞれに、ミロの日本への関心と日本でのミロの受容という、双方向からのアプローチで作品が配されているのもにくい演出だ。

第1章 日本好きのミロ 会場展示から

バルセロナでの学生時代には、ジャポニスムの影響が交友の中に語られる。
 北斎を敬愛していたというミロが遺したことば「一枚の草の葉には、一本の木や、山と同じだけの魅力がある。素朴な人たちや日本人のほかは、ほとんど誰もが、これほど神聖なことを見過ごしている」は、日本人の自然観にやはり一本の草へのまなざしを読みとっていたゴッホにも通じ、彼らがジャポニスムに見いだしたものを伝える。
 浮世絵からの影響を感じさせる作品とともに、日本の美術館としては早い時期に購入された作品が並ぶ。

ジュアン・ミロ 《アンリク・クリストフル・リカルの肖像》 1917年 ニューヨーク近代美術館
© The Museum of Modern Art, New York. Florene May Schoenborn Bequest, 1996 / Licensed by Art Resource, NY
バルセロナの美術学校で知り合い、アトリエもシェアして切磋琢磨した親友の姿を描いたもの。リカルが熱心な浮世絵コレクターであったことにちなんだのか、背景に実際の浮世絵をコラージュしている。こうした友とともに、ミロが若い頃から日本の美術に関心を持っていたことを示す一作。会場では、作者も不詳のこの浮世絵をちりめん絵にした作品と並ぶ。
ジュアン・ミロ 《花と蝶》 1922-23年 横浜美術館
1920年代のミロの特徴的な画風の静物画からは、日本的な要素は直接には見いだせないが、この作品に先駆けて、ほぼ同じ構図で描かれた《花》(1918年)の花瓶には、梅の折枝が描かれた団扇や浮世絵、花鳥が描かれているそうだ。これを「花鳥画」としてみたとき、当時のバルセロナにおける俳句ブームから「落下枝に帰ると見れば胡蝶かな」(荒木田守武)の句が想起され、彼の着想源である可能性が、本展では示唆されている。
ジュアン・ミロ 《シウラナ村》 1917年 吉野石膏コレクション(山形美術館寄託)
ミロ24歳の時にタラゴナの小村で制作した風景画は、現在8点が確認されている。うち国内所蔵の2点が本展で紹介される。西洋のそれとは異なる遠近感、黒い線で輪郭をとり、色面に単純化された画面は、浮世絵の表現に通じる。新しい表現を模索するミロは、一枚の草の葉にもまなざしを注ぐ日本人の感性について友・リカルに書き送っている。この感性は、ゴッホも感じていたものだ。
ジュアン・ミロ 《絵画(パイプを吸う男)》 1925年 富山県美術館
子どもの落書きのような白いシルエットに、黒い目と髭、黄色い煙は、心地よいかたちとリズムでユーモラスな人物像を浮かび上がらせる。モノクロームの背景に線や記号のような形態を配する「夢の絵画」と呼ばれるシリーズのひとつで、パリに出たミロは1925年から1927年にこれらを集中的に制作した。オートマティスムとの関連を言われてきたが、ノートにこれらの素描が残されていることなどから、見直しが進んでいる。1978年、建設中だった富山県立近代美術館(現・富山県美術館)が、西洋画コレクションの第1号として購入した作品。

1920年に、さらなる新しい表現を求めてパリに行ったミロは、一般的な画材ではない素材を制作に用いるなど「素材との対話」を深めると同時に、「絵画と文字の融合」を追求していく。
 絵と字を等価に扱い、画面に表していくこの時代、ミロの代表作とされる作品が生まれる。
 その過程で、日本の書に対する関心が高まったそうで、戦争を避けマジョルカ島に逃れた1940年頃からは日本の墨と和紙を用いて線の痩肥や濃淡の実験を繰り返したという。
 そしてこの時期、雑誌や渡欧者を通じてミロの作品を知った日本では、西洋現代美術を紹介する展覧会に彼の作品を展示すべく奔走した人々がいた。さまざまな苦難の末、1932年に実現した「巴里(東京)新興美術展覧会」で、はじめて来日したミロの作品が紹介される。

第2章 画家ミロの歩み 会場展示から
第3章 描くことと書くこと 会場展示から
ジュアン・ミロ 《絵画(カタツムリ、女、花、星)》 1934年 国立ソフィア王妃芸術センター
Photographic Archives Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofia, Madrid
もともとはフランスのコレクターである実業家から依頼されたタペストリーの下絵として制作された4点のうちのひとつ。いずれも下絵と呼ぶには大きくて完成度の高い作品であり、現在ミロの代表作とされている。本展で56年ぶりの嬉しい再来日。人物の間を、踊るように、歌うように「カタツムリ」「女」「花」「星」のフランス語の文字が浮遊する。いずれもミロの作品によく用いられるモチーフだ。文字も絵も等価に扱ったミロの作品は、こうして「詩」と「音楽」を奏で出す。
ジュアン・ミロ 《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》 1945年 福岡市美術館
十字架からつらなる中央の勢いのある黒い線が聖堂とオルガンを表しているようだ。繊細な線で周囲に描かれた人物と星、赤、青、緑などの色が、堂内に響く音楽を感じさせる。
スペイン内乱によりバルセロナからパリに逃れたものの、ドイツ軍の侵攻を受け帰国、さらに妻の実家にあるマジョルカ島パルマに隠遁していたミロにとって、近所の大聖堂で過ごすひとときが慰めだったそうだ。 1978年に福岡市美術館が購入し、同館を象徴する作品として愛されている一作。
ジュアン・ミロ 《焼けた森の中の人物たちによる構成》1931年 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ
雑誌図版を通じて紹介されていたミロの作品が日本ではじめて展示されたのは、1932年から翌年にかけて開催された「巴里(東京)新興美術展覧会」においてだった。その際に来日した2作品のうちの1点。あちこちに引っ掻いたような跡の残るグレーの背景が、タイトルの「焼けた森」を表すのだろうか。色彩と形態のハーモニーの中に、さまざまな読み取りがうながされる。

「素材との対話」と「絵画と文字の融合」のふたつの追求は、第二次世界大戦後のミロの制作に新しい展開をもたらす。陶器の制作と書道のような勢いのある黒い線描、そして日本の民芸品への愛着である。

日本文化に造詣が深い陶芸家で、学生時代の友人でもあったジュゼップ・リュレンス・イ・アルティガスとの再会をきっかけに、陶器の制作がはじまった。
 彼の影響と併せ、友人たちが持ち帰った日本の文物に実際に触れたミロは、それらを愛し、日本への旅を夢みるようになったという。

ジュゼップ・リュレンス・イ・アルティガス、ジュアン・ミロ 《花瓶》 1946年 個人蔵
1942年、故郷のバルセロナに戻ったミロは、美術学校時代からの旧友アルティガスのやきもの展を訪れたのをきっかけに、彼と協働してやきものの制作を始めた。「ミロは土を捏ねるところから私と一緒に仕事する」と、スペインを代表する陶芸家・アルティガスのことばが残るように、ふたりの制作は、絵画や彫刻、陶芸の枠を超えて豊かな表現世界に昇華した。
第4章 日本を夢みて 会場展示から
左:ミロとアルティガスの協働の成果、やきもの作品が並ぶ。自由な大きさや形態、彩色や絵付けは、みているだけでも楽しくなる。
右:スペイン内戦により国内亡命生活を余儀なくされたミロを楽しませた、日本の民芸品の数々。埴輪や大津絵など、昭和初期に日本に長期滞在していた彫刻家・セラと旅行家・ゴミスがコレクションしていた旧蔵品が集められている。

そこには、日本人コレクターや批評家との交流も大きく寄与していた。
 彼らからのラブコールによって、1966年、国立近代美術館での回顧展を機に、ついに念願の初来日が実現する。
 2週間ほどの滞在では、世界初のミロのモノグラムを発表した瀧口修造との26年を経ての対面を果たしたほか、佐野繁次郎や勅使河原蒼風、岡本太郎らと交流するのみならず、信楽や瀬戸などの窯元も訪ね、精力的に各地を巡った。
 1969年には大阪万国博覧会のガスパビリオンからの依頼で描いた壁画設置のため再来日。このとき、ミロは76歳。

第5章 二度の来日 会場展示から
1966年のはじめての来日の際に書家との交流の中で残された作品。ミロがたいそう気に入り、使用していたという篆刻家からの贈りものの「美露」の雅印のある色紙と、竣工直後の毎日新聞社を訪れ、落成祝いとして揮毫した「祝毎日」。毎日新聞社を寿ぐものながら、「日々を祝う」とも読めて、自宅に飾りたい(笑)一作だ。
第5章 二度の来日 会場展示から
ミロの2度目の来日は1969年。大阪万博のガスパビリオンの壁画設置のためで、アルティガス父子とともに訪れた。その際にパビリオンのスロープの壁面に絵を描くことを突然提案し、関係者を驚かせたそうだ。パビリオンは解体されたが、この壁画の一部は大阪ガスに現在も保管されているという。
先の来日でようやく直接会い、話す機会を得た瀧口修造とのコラボレーション作品もお見逃しなく!
中央の彫刻は、1970年から1980年にかけて廃品を活用してミロが制作したもの。

日本から帰国後のミロの作品には、書道の滲みや跳ねを思わせる躍動感のある黒く太い線が多用されるようになっていく。彼自身、日本の書家たちからの影響を語ってもいる。
 禅画のような抽象的な作品や、巻物の形態の作品も造られた。

そして、晩年のアトリエには、世界各地の民芸品とともに、友人から贈られた日本の民芸品や拓本類、自身が来日した際に購入した日本の多様な品が飾られていたという。

ジュアン・ミロ 《絵画》 1966年 ピラール&ジュアン・ミロ財団、マジョルカ
Fundació Pilar i Joan Miró a Mallorca Photographic Archive
1966年10月に初めての日本滞在からパリにもどったミロが、ひと月のうちに仕上げた作品。
「日本の書家たちの仕事に夢中になった」という本人のことばの通り、筆あとも生々しい画面には、戦後のミロに特徴的な黒がより大胆に展開され、絵具のしたたりもそのままに、描いている画家の身体の動きまで感じられる。抽象表現の身体性を先取りしたような作品は、しかし、うごめく黒い生き物のように見え、赤や青の彩色とともに、具体にとどまり、(書ではなく)絵画にとどまったミロの姿を物語る。
ジュアン・ミロ 《マキモノ》 1956年 町田市立国際版画美術館
まさに日本の絵巻を意識した、ミロの日本趣味を感じさせる作品。1966年の日本でのミロ展の折には、当初出品リストになかった本作を画家がわざわざ追加したとの逸話も残っているのだとか。中国製の絹布に捺染されたミロの“絵ことば”は、なんと8m超え! 会場では残念ながら一部の展示だが、ミロの絵が描かれた木製ケースとともに楽しめる。
第6章 ミロのなかの日本 会場展示から
ミロの没後、アトリエに遺された多くの作品には、タイトルや制作年が定かではないものも多い。右奥に見える3点も明確な制作年はわからないものの、サイズ、素材が同じで、並べると画面を横切る地平線のような線は連続しているようにも見える。過去に三連画を手がけていたことのあるミロは、この作品もそのように構想したのかもしれない。抽象画にも、宇宙の風景のようにも感じられる作品は「禅画」にも通じた、思索的で、静かに向き合いたい空気を空間に漂わせる。
第6章 ミロのなかの日本 会場展示から
左:ミロが自ら入手したり、友人から贈られて所蔵し愛した日本の民芸品など。岡倉覚三(天心)の『茶の本』とならび、「亀の子だわし」があるのが微笑ましい。帰国の際に、見送りに来た瀧口が、「見つけましたね」と一抱えのたわしを指すと、嬉しそうに何度もうなずいていたそうだ。
右:ミロが愛してやまなかった晩年のマジョルカ島のアトリエのパネルと、彼の蔵書。
壁にかかる前掛けは横須賀の蒟蒻白滝の製造卸業がお得意様に配っていたもので、アルティガスの息子ジュアン・ガルディが贈ったものとされている。

初期はともかく、ミロの作品には「日本」の要素がダイレクトに表されたものはほとんどない。
 それは、彼が日本文化から吸収したものを独自のものとして消化・昇華しているから。
 

それでも、ミロの魅力を世界に先駆けて見いだした日本は、そこに何かしらを感知していたのかもしれない。通じ合った両者の想い。それは現代のわたしたちがミロを愛する気持ちにも流れているはずだ。

美術史に燦然と独自の世界を輝かせるミロ。
 「日本」との関わりでみる空間は、そのオリジナリティに近づくための新たなアプローチとなって、これまでにない、あるいはさらなる「ミロ」の発見へと誘ってくれるだろう。

展覧会概要

『ミロ展—日本を夢みて』 Bunkamura ザ・ミュージアム

会期中すべての土日祝および4/11(金)~4/17(日)は
事前にオンラインによる日時予約が必要。
新型コロナウイルス感染症の状況により会期、開館時間等が
変更になる場合がありますので、必ず事前に展覧会ホームページでご確認ください。

会  期:2022年2月11日(金・祝)~4月17日(日)
開館時間:10:00‐18:00 ※金・土曜日は21:00まで(入館は閉館の30分前まで)
休 館 日:閉幕までは無休
入 館 料:一般1,800円、大学・高校生1,000円、中学・小学生700円、
     障がい者手帳提示者と付添者1名は半額、未就学児は無料
問 合 せ:050-5541-8600(ハローダイヤル)

展覧会サイト www.bunkamura.co.jp/museum

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