堀内誠一 娘たちの思い出

アート|2022.4.6
取材=編集部 写真提供・協力=堀内事務所

堀内誠一さんの生誕90年を記念した展覧会「堀内誠一 絵の世界」がベルナール・ビュフェ美術館で開催され、その公式図録が全国書店やネット書店で発売中です。 ウェブ太陽の連載「堀内誠一のポケット」でもおなじみの、堀内誠一さんの長女の花子さんと次女の紅子(もみこ)さんに、堀内家のファミリーヒストリーを語っていただきました。

1946年 伊勢丹入社頃。14歳の堀内誠一さん

――堀内誠一さんが子どもの頃から絵が得意だったのはご両親の影響もあると思いますが、お父さまの治雄さんは広告制作に携わる図案家だったそうですね。花子さんと紅子さんのおじいさまはどんな方だったのでしょうか。

花子 私は交通博物館で模型を作っていた頃の祖父に会いに行ったことがあります。戦前は図案家として多田北烏さんの元で仕事をし、戦後は交通博物館に籍を置きながら得意なレタリングやポスターのデザインなどの仕事をしていたそうですが、そのあと祖父はからだを壊し、祖母(堀内咲子)が俄然働き手になりました。祖母は洋裁の内職をしていて、小さい頃の父や娘たちのかわいい洋服も作っていました。もともと石川県羽咋の地主の娘で、東京からグラビア雑誌を取り寄せているようなハイカラな家だったので、おしゃれに敏感だったのだと思います。

紅子 祖母は絵も上手だったから私たちへの手紙も絵入りだったし、紙芝居や絵本のようなものも作ってくれていました。

花子 祖母はクリエイティブな人でしたから、そういう才能は父(誠一)に受け継がれたと思います。何事にも積極的で才気煥発だった祖母に祖父は少々押され気味だったかもしれず、そんな父親に父はちょっと同情的だったような気がします。

――堀内誠一さんが早くからデザイナーとして働き始めたということも、この展覧会で知って驚きました。

花子 新宿の伊勢丹百貨店に14歳で入社しましたがデザイナーと言えるのかどうか。伊勢丹に勤めていた知り合いを頼って母親に連れられていったと父から聞いています。一応試験もあったとか。企画部宣伝課でウィンドウディスプレイや商品の値札書き、看板などのレタリングの仕事をしていました。立体の設計図を書けるようになったのも、百貨店の地下にいた大工さんたちにかわいがられて鍛えられたからです。
1951年に伊勢丹が「BOUQUET(ブーケ)」というPR誌を発刊し、おそらくそこで初めてエディトリアルデザインに触れると、社外の人たちとの付き合いも始まりました。伊勢丹の仕事をしながら、ほかの雑誌の仕事の手伝いをするようになり、やがて退社してファッションが得意な出版社に入ります。やっぱりグラフィックの世界に惹かれていたのでしょうね。

1960年 下北沢の自宅で。誠一さんと路子さん

―― 絵本の制作はどうして始められたのでしょうか?

紅子 もともと絵本は好きだったのでしょうが、母(旧姓:内田路子)が福音館書店に勤めていて、「こどものとも」の編集長だった松居直さんに父を紹介したことがきっかけでした。

花子 父は絵本についていろいろ意見があったので、母はそれを松居さんに会わせて伝えたいと思ったのではないでしょうか。とにかく海外の絵本を当時から集めていましたし、母も父のコメントを認めていたと思います。それで松居さんは父のことを面白がってくれて、「絵本を描いてみませんか」ということになったのだと思います。

紅子 松居さんは父の絵を見ないで絵本の仕事を依頼したみたいです。母のことを信頼していたようですから。

花子 母が最初に原稿取りに行った作家は井上洋介さんなんですけど、「漫画」で活動されていた井上さんを松居直さんに紹介したのも母だったそうです。当時、母の実家のある世田谷界隈には画家や彫刻家がアトリエを構え、お互い倹しい暮らしながら行き来がありました。内田の家には絵描きや編集者、物書きや詩人、いろんな人たちが出入りしていましたから母は松居さんにそんな方々を紹介できたと思います。

―― 画家の内田巌を父に、児童文学の翻訳家である内田莉莎子を姉に持つ路子さんと読書家の堀内誠一さんが出会って、きっと波長があったのでしょうね。

紅子 母は自分でもパステル画を描いたり、詩を作ったり、今からは想像もつかないですが、当時の「とんがった」少女だったようです。

花子 父親は共産党なのにキリスト教の女学校に通っていた母は、学校では「革命派」だったみたいです。権力に刃向かっていく感じ。ちなみに姉の莉莎子も同じ女学校でした。

紅子 その頃、「私は結婚しないで、世界中を旅して、違う父親の子どもを10人産む」と豪語していたと、母の友人から聞いたこともあります。その女学校時代の仲良し組の中で、結婚して仕事を辞めてしまったのは母ひとりなのですけど。

花子 父の秘書だったのかな。仕事の相談をされたら意見を言うし、お客がきたら母が相手をするし。母を怖いと思っていた編集者もいたと思います。

紅子 父は母に仕事のことは何でも話すから、夜遅くまで起きていて父の話を聞いていました。そのせいか朝は遅くて、ある程度大きくなると、私たちは勝手に起きて学校に行っていました。

花子 日曜の朝は机に10円玉が置いてあって、それを持って日曜学校に行ってました(笑)。

紅子 母は父に信頼されていたし、頼られていたと思います。フランスでみんなで生活するなんて、母がいなければできなかったことですし、母には何事も「なんとかなるでしょ」という鷹揚さがあるんです。子どもの意見は聞かれたことはなかったから、私たちも何も考えずにフランスに行きました。

花子 父が言うことは絶対でしたし、そういうものだと思って育っていましたから。母は父を立てていたと思います。だから私たちも逆らわなかったです。父も母も勉強しなさいとかは一切言いませんでした。笑ったり騒ぐと「うるさい」とかは言われましたけど。
どんな絵本を読んでもらいましたか?と聞かれると、まったくそれはなかったけれど、トランプやゲームは他の家よりしていたかもしれません。

紅子 わかりやすく子どものために何かしてくれるとか、子供の喜ぶことをしてくれるとか、子ども中心のイベントは一切ない家でした。旅行だって父が行きたい所へ行くのだから、こっちは面白くも何ともないわけです。

『パリの手紙9』(「装苑」1976年9月号)より。

花子 でも飛び石連休に学校を休んでどこかに行けるのは、私は嫌ではなかったけれど。

紅子 私はもっとキャンプとか行きたかった(笑)。でも父のように、何かを見るために「そこへ行きたい」という情熱があるのがすごいと思っていた。いつも全部、絵か教会、建築を見に行く旅。似たようなものばっかり見させられるだけだから私は退屈だったけど。

花子 でもだんだん面白くなってきたじゃない?

紅子 うーん、そうでもないかな(笑)。同じ頃にフランスで暮らしていた日本人の友だちと話しても、全然違うバカンスの過ごし方をしていたんだってよく思っていた。もちろん今はそれでよかった、たくさん本物を見せてもらったと思っています。

花子 でも、「一緒にこの映画をみんなで観にいこう」ということもあって。

紅子 それも全部父が見たい映画ばかりだから(笑)。でも、私たちは親の期待をまったく感じることなく育つことができたよね。なんのプレッシャーもないまま、それは素晴らしいことだった。

花子 本人が学校へ行っていないせいもありますね。学校へ行かなくてもこれだけできているという自信があったから。

紅子 親が何かしてくれているということを微塵も思わずにいられた。いっぱいしてくれていたんだけど、そんなこと感じなかったから自由でいられた。私たちも別に親を喜ばせるためにこうしなくちゃとか考えなくてよかったこと、本当にすごいと思う。

1972年頃 鹿島灘の海岸で。左から花子さん、誠一さん、路子さん、紅子さん

―― ご家庭でお父さまとお話はよくされていたのですか?

花子 パリに行く前は、父が起きてくるのが午後3時頃で、夕方から仕事に出かけて、明け方に帰ってくる感じです。だいたい私たちが学校へ行く頃はグウグウ寝ているか、二日酔いで唸っていました。

――それは奥さんの路子さんも大変でしたね。

花子 でも自分の父親もお酒飲みでしたから母は大丈夫だったのでしょう。

紅子 たぶん母の家もかなり変わっていたから……。パリに行ってからは、基本的に家で仕事をしていたので、よく顔を合わせて話していたほうなんだと思います。家に来た人に、親子の会話が多いと感心されたことがあります。でも普通の日常会話です。

――ふだんお母さまは家で何をされていることが多かったのですか?

花子 よく本を読んでいました。

紅子 でも家にいないときもいっぱいあったと思うけど。

花子 たいてい家にいたでしょう、編集者が毎日のように来るので。それから矢川澄子さんや野中ユリさんとか結構誰かしら来て、夕ごはんを一緒にすることが多かった。だれもいないと、「今日の晩ごはんはグレープフルーツ」って言ってそれだけ。私たちはグレープフルーツが好きだから、「わーい!3つ食べられる」と喜んでいました。あとチーズだけの日とか。ストーブの上でチーズ溶かして……それしかない夕ごはん。でもうれしいわけですよ、私たちとしては。パリに行く前の話です。

『ぐるんぱのようちえん』1965年 福音館書店 ©︎Seiichi Horiuchi

――ところでお聞きしたかったのですが、お二人が好きな堀内誠一さんの絵本は何でしょうか?

花子 私は『ぐるんぱのようちえん』(1965)と『おおきくなるの』(1964)と『たろうのおでかけ』(1963)は繰り返し読んでいました。紅子は絵本を卒業するのが早くて、すぐ児童文学の方にいってドリトル先生とか読んでいましたけど。

紅子 そうなんです。私は父が描いた絵本を小さい頃に読んだ記憶があまりなくて、自分が読んだ絵本というよりも、自分の子供に読んだ絵本の方が印象的です。『パンのかけらとちいさなあくま』(1979)とか。

花子 『どうぶつしんぶん』(1983)とか『てがみのえほん』(1972)は、やっぱり父ならではの絵本だと思います。瀬川康男風に描いたヤマネコからの手紙は文を一緒に考えたことを覚えています。絵本の絵は家族に見せて意見を聞いていました。父の絵本が今も読み継がれていて、「この本知ってる」と言ってもらえるのは嬉しいです。文学とはまた違った普遍性が絵本にはあるのかもしれません。私には父がすごく苦労をしていたというイメージがあります。持っているものを人に分け与えるというか、自分のものだけにしなかった。好きなものに出逢ったら人に伝えずにはいられない。

紅子 最高のものをね。

――花子さん、紅子さん、とっておきの貴重なお話をいただき、ありがとうございました。
今回の展覧会には、お二人のお話に出てきた絵本はもちろん、『ロボット・カミイ』(1970)や『ふらいぱんじいさん』(1969)や『マザー・グースのうた』(1975~1976)といった人気の絵本の原画や、モダンで細やかな手描き地図、愛用したものの数々が一堂に展示されています。全国巡回展も続きますので、ぜひご覧くださいませ。

「堀内誠一 絵の世界」ベルナール・ビュフェ美術館での展示風景
連載「堀内誠一のポケット」にも登場した数々の愛用品も展示されている。 「anan」「Olive」のロゴを書きとめた手帳、堀内家所蔵の井上洋介さんの作品にも注目。

・展覧会情報

「堀内誠一 絵の世界」
2022年7月25日(月)まで
ベルナール・ビュフェ美術館 (静岡・長泉)
https://www.clematis-no-oka.co.jp/buffet-museum/exhibitions/1873/
休館日 水曜日・木曜日(ただし2022年5月4・5日は開館)
開館時間 10:00~17:00(入館は閉館の30分前まで)

公式図録『堀内誠一 絵の世界』(2022年 平凡社)

<巡回展会期情報>
2022年7月30日(土)~9月25日(日)
県立神奈川近代文学館(神奈川・横浜)
その後も巡回する予定です。

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