松井冬子が新たなステージで始動する
異界と行き来する境界を、特有の美意識と超絶的な画技で創出する画家・松井冬子。唯一無二の存在感を放ち、美術界において高い境地でその道を切り拓いてきた。
2014年から、畢生の大作である新宿・瑠璃光院白蓮華堂の客殿「白書院」の襖絵《生々流転》の制作のため、表舞台から姿を消して没頭し、10年の歳月を費やして完成させた。
しばらくの沈黙の時を経て、新たな段階に向けた出発点として、今春3月14日より「懼怖(おそれ)の時代」と題する個展が東京・銀座の画廊「ナカジマアート」で開催されている。
まず本展のタイトルの意味について、松井冬子本人にコンセプトを語ってもらった。
「かつて私は外側からの痛み、〈痛覚〉をテーマに制作してきましたが、今は内側から湧き出る〈おそれる〉という感覚に向き合って描きたいと思っています。今の時代、本物であるか偽物であるかの区別ができないようになってきています。〈おそれ〉を煽る情報が多くなって、騙されるのではないか、脅されるのではないかという恐怖が日常的に湧き起こるシステムが組み込まれているのです。このような現実における感覚の変化を通じて、意識のステージが移行したと感じています」
現実世界こそ異界となった日常を〈おそれる〉ことで、覚醒した松井冬子が差し出した作品は、わたしたちの意識を問う衝撃的なものだった。
記念碑的な作品《被観察者》の衝撃
本展のメインとなる作品《被観察者》(2025)に注目してみよう。この作品について作家が綴ったコンセプトは次のような言葉である。
「〈おそれ〉は、世界を救う役目を担っていると錯覚させる。
精神が完全に〈おそれ〉から自由であれば、あなたは世界の意識に影響を与えるだろう」
ここに記された「あなた」は、作品の鑑賞者であり、この作品と対峙するときに、同時代に生きる人間としての役割を意識させられる。
また、松井は次のようにも語っていた。
「《被観察者》というタイトルは、見ている者がじつは見ているだけではなくて、誰かに見られている。見られているつもりでも見ている、というその繰り返しを意味します」
作品の中で、無防備に肌を露わにした少女が軽く身を捩って浮遊するように立っている。彼女を観察する自分は別の人に見られてもいる。彼女は見られている自分を純粋に受け止めながら、見えざるものを見ているように目の焦点が定かでない。
見ると、その足首には禍々しい蛇が巻きつき、彼女を拘束している。足元の草むらは、抵抗の後のように踏み荒らされている。
その内腿に、どろりとへばりついたグロテスクな蟇(ひきがえる)は、彼女の生命力に引きつけられて寄生しているモチーフだろうか。胸の中心を穿たれ、砕け散った白い百合の花は、彼女の純潔と望みが暴力的に破壊されたモチーフでもあろう。
これほどストレスフルで地獄のような状態でありながら、彼女が解き放たれつつある予感がする。それは、絵の中で黒く浮き出ているものが、「手綱(たずな)が壊れているイメージ」という松井の説明で示されるように、彼女が拘束具を粉々に吹き飛ばす強い精神力を見せていることに感情移入して自由を希求しているからなのだろう。
「懼怖の時代」のテーマを象徴する本作品は、これまでの松井冬子の仏教絵画の要素を持つ綿密な日本画の印象から離れて、無国籍なイコンへ表現が変容したように思われた。まさに本作品の少女像は実態の見えない〈おそれ〉に満ちた時代に出現した聖母といえるのかもしれない。
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©️Fuyuko MATSUI
特別展示《終極にある異体の散在》の到達点
本展のもう一つのみどころが、特別展示された作品《終極にある異体の散在》である。
中央に祭壇のごとく掲げられた本作は高さ124.3センチ、幅97.4センチの大作で、2007年に制作された初期の作品であるが、今回のテーマとの共通性があることと、先頃大きな話題が提供されたことを機に特別に出陳されることになった。
その話題とは、英語圏を代表する最大の総合百科事典『ブリタニカ百科事典』の〈哲学と宗教〉の領域で、松井冬子の《終極にある異体の散在》(2007)が図版と解説とともに掲載されたというものだ。
記載の内容はダンテの『神曲』に触発された偉大な芸術家たちの「地獄十景」を紹介したもので、ボッティチェリ、ミケランジェロ、ファン=エイク、ブリューゲル、ヒエロニムス・ボスらと並んで10作品の中に選ばれて掲載されている。
『ブリタニカ百科事典』に掲載された「地獄十景」の各作品解説は、以下のリンクから参照することができる。この作品の女性は強迫的な罪責感に差し迫って逃走していて、事典の解説には「永遠の不確実性の状態にあるように見える」と述べられている。
「地獄十景」
他の9作品は西洋の古典的名作であるが、それに対して東洋の現代作家である松井冬子の作品は別格の存在といえる。世界で最も権威のある事典に編纂されたことは、松井の国際的評価の高さと芸術家としての功績を最大に物語っている。

©️Fuyuko MATSUI
そのほか本展には新作『実態の無いものをつかもうとする』(2025)や異色の三部作『犬圖』(2013)など新旧さまざまな作品が展示されていて貴重な機会となっている。また、5階の第二会場の方では近年制作されたデッサン画の展示や関連書籍とグッズの販売をしているので併せて立ち寄りたい。会期は4月3日(木)まで。
展覧会概要
松井冬子「懼怖(おそれ)の時代」展
東京・銀座 ナカジマアート
会期:2025年3月14日(金)〜2025年4月3日(木)
開館時間:11:00-18:30
休廊日:3月20(木・祝)、3月30日(日)
観覧料:無料
住所:東京都中央区銀座5-5-9 アベビルディング3 階・5階
問合せ:03-3574-6008
公式ホームページ:http://www.nakajima-art.com

関連書籍
「別冊太陽 松井冬子 芸術は覚醒を要求する」
監修=八柳サエ
定価:2,750円(本体2,500円+税)
A4変型判 並製 152ページ