『ピーター・シスの闇と夢』 練馬区立美術館

アート|2021.10.18
坂本裕子(アートライター)

繊細な画と豊かな幻想が紡ぎ出す物語の世界

ピーター・シス(1949~)。
 「絵本好き」にはファンも多い、知る人ぞ知るチェコスロヴァキア(現チェコ共和国)出身の、アメリカを代表する絵本作家である。

細かな点描に浮かび上がる、ユーモアと創造力あふれる幻想的な彼の画と物語は、どこか哀愁をはらんだ不穏さに彩られ、大人をも魅了する。

1987年から生み出された絵本は30冊以上、国際アンデルセン賞やボローニャ国際絵本展金賞をはじめ、アメリカのコールデコット・オナー賞*の3度の受賞など、数々の絵本賞を獲得し、各国で翻訳が出版されている。

*アメリカでその年に出版された最も優れた子ども向け絵本に授与される賞で、オナー賞は時点候補者に与えられる

このシスの国内初の原画展が、練馬区立美術館で開催中だ。
 1.「かべ」のなか、2. 自由の国、3. 子どもたちのために、4. 探求の旅、5. 夢を追う、の5章に編年を織り込みながら、その創作の軌跡を追う。

もっとも知られている彼の代表作が、『三つの金の鍵 魔法のプラハ』(1994)、『星の使者 ガリレオ・ガリレイ』(1996)、『かべ 鉄のカーテンのむこうに育って』(2007)、『飛行士と星の王子さま サン=テグジュペリの生涯』(2014)の4作。

こうした代表作の絵本原画だけではなく、国際的な評価を得た初期のアニメーション作品から新聞・雑誌の挿絵、公共の場のアート作品、スケッチや日記の資料など、シスという作家を知る貴重な空間になっている。

《『三つの金の鍵 魔法のプラハ』原画》作家蔵(エリック・カール絵本美術館寄託)1994年 ©Peter Sis, 1994
シスの代表的な作品のひとつ。自身の記憶にある母国プラハの街を黒猫に導かれてめぐる物語には、家族との思い出のつまった家の扉を開けるための3つの金の鍵となる、街に眠る伝説が挿入されている。
アメリカで生まれた娘にルーツを伝えるために、そして故郷についてはじめて描かれた一冊。 精緻な画と幻想的な風景が、プラハの持つ光と闇の魅力をみごとに表している。
《『三つの金の鍵 魔法のプラハ』原画》作家蔵(エリック・カール絵本美術館寄託)1994年 ©Peter Sis, 1994
3つの鍵を手にしてカレル橋を渡り、わが家へと戻る「ぼく」。橋の彫像には「モーツァルト」「カフカ」、17世紀の天文学者「ティコ・ブラーエ」の名が読める。
四季とともにプラハの歴史を遊歩できる、懐かしさにどこか怖さをはらんだ絵本は、編集者だったジャクリーン・ケネディ・オナシスからプラハの本を依頼されてようやく実現した。残念ながら完成を待たずにジャクリーンは亡くなったが、本書は彼女にも捧げられている。

シスが生まれ育ったチェコスロヴァキアは、東西冷戦時代のソビエト連邦の支配下で表現の自由を厳しく制限されていた。
 「鉄のカーテン」に閉ざされて、国外に出ることも、情報を得ることも、自分の考えや感情を出すことも禁止されていた社会ながら、シスは家族に恵まれていたといえる。
 映像作家だった父ヴラジミールは政府の仕事で海外に出る機会があり、アメリカへの移住を夢見て、息子に世界が広いことを教えた。
 アーティストであった母ヘレナはシスに紙と鉛筆を与え、家の中では自由に表現することを許していたそうだ。

多様な世界の存在と自由を教えてくれた家族と、それらを奪う社会、シスの作品が持つ闇と光は、この子ども時代に培われたのだろう。
 アメリカに亡命して絵本作家としての安定を得た彼が幼いころを振り返って描いたのが、『三つの金の鍵 魔法のプラハ』と『かべ 鉄のカーテンの向こうに育って』の2作。

前者は、美しい故国の都と少年時代の思い出を愛おしさとともに表したもので、石畳の街並みが持つ歴史の謎めいた魅力が、ほの暗く温かい記憶とともに浮かび上がる。

後者は、管理され、制限される共産主義の統制のなか、それでも自由を得る夢をあきらめない意志を、体制への怒りを込めてメッセージする。

《『かべ 鉄のカーテンのむこうに育って』原画》作家蔵(エリック・カール絵本美術館寄託)2007年 ©Peter Sis, 2007
こちらもシスの代表作のひとつ。ソ連支配下のチェコスロヴァキアに生まれ育ったシスが、日記をもとに自らの経験を絵本にしたものの一葉。監視灯と秘密警察の車のヘッドライトに照らされながら、スケッチブックからあふれ出るカラフルな紙を翼に自転車で海上を飛ぶ「ぼく」の象徴的なシーン。
厳しい統制の中でも自由な表現への情熱と夢をあきらめないことの大切さを訴えた本書は、2008年、コールデコット・オナー賞を受賞した。
Concept: DOX Centre for Contemporary Art, Prague, Czech Republic www.dox.cz
Production: Frmol Productions(会場展示から)
《かべ 鉄のカーテンのむこうに育って》のアニメーション。
シスの絵本はつねに絵が「動いて」いくように感じられる。彼がアニメーション作家をめざしていたことが活きているのだろう。
モノクロームの中、ライトを浴びた自転車の紙の羽と、遠景の街だけが色を持つ。街には一生懸命に手を振っている人の姿がある。きっと飛んでいく先にはカラフルな世界があるのだ……。 数分の動画が、深い物語を語り出す。自由をめざし、希望を持って飛ぶ自転車の少年に思わず「がんばれ!」と声をかけたくなる。

「かべ」に閉ざされていても、その隙間から流入してくるポップカルチャーは若者を魅了し、彼も大学時代にはロックにのめり込み、髪を伸ばしてバンドを結成。ラジオ番組のDJなど、音楽ジャーナリストとして活躍する。
 卒業後は、映像会社で比較的自由度のあった子ども向けのアニメーション作品に携わるも、何度も検閲にかかり、秘密警察にも呼ばれたそうだ。

1979年に創作したアニメーション『頭』(試訳)が、ベルリン国際映画祭のアニメーション部門で金熊賞を受賞し、その2年後にはテニスプレーヤーをモチーフにした『選手たち』(試訳)がトロント国際映画祭で受賞すると、アニメーション作家として国際的に知られるようになる。

第1会場の展示風景から
左:手前は、映像制作会社で携わった童話アニメ『6,000個の目覚まし時計の島』(試訳)の資料。人間のためにベルを鳴らすのに叩き止められる時計たちの反乱を描いた物語は、検閲を逃れたものの、すぐに放映禁止になったという。
奥が代表作『かべ 鉄のカーテンのむこうに育って』の原画と各国で翻訳刊行された絵本。
右:シスが国際的に認められるきっかけとなったアニメーション《Heads/頭》の原画。
プラハの宮廷画家だったジュゼッペ・アルチンボルドへのオマージュとに重ねて、監視下の社会で感情や真実を心に隠している人々を表したという。シュルレアリスムにも通じる不思議な世界は、セル画の重なりとともにぜひ近くで確認して!

転機が訪れたのは1982年、33歳の時。
 2年後に控えた夏季オリンピックの映像制作のためにロサンゼルスに招待される。
 翌年にソ連と東欧諸国はオリンピックをボイコット、それに連なったチェコスロヴァキア政府からシスにも帰国命令が出るが、彼が母国に戻ることはなかった。

ようやく手に入れた自由、けれど家族に二度と会えない痛みと異国での孤独のなかで、一本の電話が光明をもたらす。アメリカ絵本作家の巨匠モーリス・センダックからの「絵本の仕事をしたいならニューヨークへ移るように」という助言だった。

第2会場の展示風景から
実は、アカデミー賞も受賞したミロシュ・フォルマン監督の傑作映画『アマデウス』のポスターもシスのデザイン(右)。モーツァルトの才への称賛と嫉妬から彼に破滅をもたらすサリエリの闇をみごとに表したイメージはご記憶の方も多いだろう。
父の友人であり、シスも敬愛する監督の作品を手がけることで、ハリウッドからニューヨークに移住する資金を得たという。
人生の転機のきっかけをくれたフォルマンへの感謝を込めて、モーツァルト生誕250周年記念として2006年に出版した『モーツァルトくん、あ・そ・ぼ!』を捧げた。左はその原画。

アニメーション作家を希望していたものの、生活のためもあり、ニューヨークへの移住を決めたシスは、センダックに紹介された編集者たちと会い、ニューヨーク・タイムズ紙などの挿絵の仕事で才能を発揮、やがて自分の絵本をつくるまでになり、絵本作家としての楽しみとやりがいを見いだしていく。

このころ、他の作家との違いをアピールするためにはじめたのが小さな点で描く手法だった。これが好評を得て次々と挿絵の仕事をこなし、やがて彼の作画のスタイルとなっていく。
 会場ではこうした新聞・雑誌の挿絵も多く紹介され、繊細で緻密な点描画は、絵本原画とともに見どころとなっている。

1989年5月に、40歳となったシスはアメリカ市民権を得る。
 その半年後にベルリンの壁が崩壊、30年近くにおよんだ「鉄のカーテン」は消滅し、シスは、7年ぶりに故郷へ帰り、家族と再会した。

自身も結婚し、娘マドレーヌと息子マテイを得て、シスは愛する子どもたちのために絵本をつくる。
 マドレーヌには『三つの金の鍵 魔法のプラハ』を、マテイには『星の使者 ガリレオ・ガリレイ』を。

ガリレオ・ガリレイや、それに先立って制作されたコロンブスの伝記絵本『夢を追いかけろ クリストファー・コロンブスの物語』に見られる、探検家や発明家といった他人とは異なる考えや視点を持つ人物が抑圧や挫折に屈することなく意志を貫く物語は、彼の主要なジャンルのひとつとなる。

《『星の使者 ガリレオ・ガリレイ』原画》作家蔵(エリック・カール絵本美術館寄託) 1996年 ©Peter Sis, 1996
振り子の法則や落下の法則、そしてコペルニクスの地動説の立証で知られる、科学者で天文学者のガリレオの伝記を描いたもの。
「地動説」の提唱がローマ・カトリック教会の有罪宣告を受け、その死まで軟禁されながらも自説を貫いた彼の生涯が、当時のイタリアの状況とともに、美しい絵で綴られる。
「鉄のカーテン」下の社会に育ったシスだからこそ生み出せた、詩情あふれる、宝石のような一冊だ。
左:《星の使者  ガリレオ・ガリレイ》の見返しと裏見返しの原画
右:部分拡大(ともに展示から)
ドゥオモのシルエットのあるフィレンツェの夜景と、N.Y.の摩天楼を思わせる夜景。たったひとつの明かりが灯るそれぞれの窓には、望遠鏡で天空を観察する人物が描かれて、ガリレオが持ち続けた勇気と好奇心を16世紀から現代へとつなげている。
額縁のような周辺のイラストにもご注目! 細やかで楽しげな事物が歴史や文化を伝えて画面を奥深いものにしている。
《『飛行士と星の王子さま サン=テグジュペリの生涯』原画》作家蔵(エリック・カール絵本美術館寄託)2014年 ©Peter Sis, 2014
フランスの有名な童話『星の王子さま』の著者、サン=テグジュペリの伝記絵本から。
12歳の時に父から贈られたのがこの童話で、20年後、アメリカにいる息子を訪ねてきた父に、サン=テグジュペリがニューヨークでこの作品を書いたことを教えられたことをきっかけにつくられた。
サン=テグジュペリと星の王子さまを重ねて描いたこの物語には、最後に羽のついた自転車で飛ぶ少年の姿が描かれて、シスと父の姿も重ねられていく。青が圧倒的に美しい一冊。

こうした彼の作品には地図や地形図がたびたび登場する。いずれもとても美しく、旅そのものへの憧れと、空想の中でも世界を冒険する愉しみを感じさせる。
 そこには、父の影響が大きく寄与しているという。
 シスに外の世界を教え、いつかそこへ行くという夢を育てた父は、誰よりもシスを理解し、遠く離れていてもそばに在った。
 その父のために描いた『チベット 赤い箱のひみつ』(試訳)は、彼のこれまでの創作の中でもっとも哲学的で神秘的な作品となっていて印象深い。

《チベット 赤い箱のひみつ》 1998年(展示から)
シスが4歳の時に、父は陸軍映像部隊として道路建設の記録撮影のために中国へ送られる。そこで地滑りに遭いチベットに迷い込んで、見たこともない文物や仏教世界に接した。19ヵ月にわたった旅の日記や持ち帰られた品々は赤い箱に入れられ、共産党下、家族にも開けることを許さなかったそうだ。その父からチベットの話を聞くのが大好きだったシスは、父の先が長くないことを知って、封印されたこの旅を絵本にして父の冒険を残し、同時に彼の不在にシスが感じていた淋しさにも改めて向かいあうことを企図した。
箱の中の父の記憶とシスが聞いた話の記憶を織り合わせ、曼荼羅のような、美しく神秘的な作品に昇華した本書もまた、コールデコット・オナー賞を受賞した。

また、名実ともに人気絵本作家となったシスには、公共機関からの依頼も来るようになり、ステキなポスターも手がけている。
 多民族国家で多様な夢にあふれているアメリカに対する彼のイメージと希望を表した、ユーモアとアイデアあふれるデザインは、みる者を楽しい気持ちにする。

《「マンハッタン・ホエール」ポスター、ニューヨーク市メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティによるアーツ・フォー・トランジット》2001年 ©Peter Sis, 2001
ニューヨーク都市圏交通公社(MTA)から地下鉄車内に飾るポスターのデザインを依頼されて制作したもの。
2001年には、夕焼けのマンハッタンを、彼にとって自由の象徴である大海原を悠々と泳ぐクジラに見立てて描いた。背骨と歯が摩天楼に、セントラルパーク内の噴水は潮吹きになって、そこからバスが吹き上がっている。
《イエロー・サブマリン》2015年頃(展示から)
2015年に再度依頼された時は、ビートルズの『イエロー・サブマリン』をモチーフに、潜水艦となって深海の冒険に繰り出すマンハッタンを表した。ロック好きの彼らしい楽しいアイデアだ。

そして現在、新たな視点での絵本が誕生している。
 小さなひとりの人間が、静かになした偉業を物語にした絵本と、その制作の過程で戦争の悲劇に向き合って生まれた作品が最後に紹介される。

《ニッキーとヴェラ  ホロコーストの静かな英雄と彼が救った子どもたち》(試訳)2018年と《水晶の夜》2019年(展示から)
第二次世界大戦の直前に、ナチスが迫るプラハからユダヤ人の子どもたち669人をロンドン行きの列車で脱出させたイギリス人、ニコラス・ウィントンと、助けられた子どものひとり、ヴェラ・ギッシングの物語。ふたりの人生が並行して綴られ、互いを知らぬまま50年後に出会うまでが描かれる。自らの功績を語らなかったウィントンに、静かな正義を貫く姿を見いだしたシスは、それまでの偉人たちの伝記とは異なる「良識と人間らしさを守った英雄」の姿をとどめた。
その制作過程でたどった1938年11月9日のドイツ各地における反ユダヤ主義者の暴動(水晶の夜)も絵画化された。

シスが幼いころから求め続けた自由、あきらめない心、そして表現することの喜びと情熱は途切れることなく、これからも現実を夢と幻想の表現に織り込んで、わたしたちを魅了していくだろう。
 そこには常に彼の記憶や体験を反映した闇が寄り添い、それゆえにこそ夢はより強い輝きを放つ。

 ピーター・シスが紡ぎ出す闇と夢。きっと子どもたちは、もっと鋭敏にその世界を感じ取っているに違いない。

展覧会概要

『ピーター・シスの闇と夢』  練馬区立美術館

新型コロナウイルス感染症の状況により会期、開館時間等が
変更になる場合がありますので、必ず事前に展覧会ホームページでご確認ください。

会  期:2021年9月23日(木・祝)~11月14日(日)
開館時間:10:00-18:00(入館は閉館の30分前まで)
休 館 日:月曜日
入 館 料:一般1,000円、高校・大学生および65~74歳 800円
     中学生以下および75歳以上は無料(要証明書)
     障害者手帳等をご提示の方とその介添者1名は
     一般500円、高校・大学生400円
問 合 せ:03-3577-1821

展覧会サイト https://www.neribun.or.jp/museum/

巡  回:伊丹市立美術館 2023年春予定

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