1960年代後半から学生運動や成田闘争などのルポルタージュを発表し、一方で全国各地の土地をたずねて人々の暮らしや風景をアサヒグラフやアサヒカメラに掲載して、常に時代の流れを記録してきた北井一夫。今、貴重なヴィンテージプリントを中心に283点の作品を一挙公開した展覧会が南魚沼市の池田記念美術館で開催中だ。
本展はすべてアートスペースシモダの所蔵作品で構成されており、個人コレクションによる展覧会としては類を見ない規模といえる。なおかつ、一人のコレクターが作家の初期から現在までの作品と向き合って、その精髄となるオリジナルプリントを選び抜いた最上級のコレクションである。たとえば〈1973年中国〉と〈沖縄放浪〉の2つのシリーズはすべてヴィンテージであり、初公開作品もある。なんと北井本人でさえ行方知れずだと思っていた〈新世界物語〉の一連のバライタに焼かれたプリント群は、丸ごと下田氏が購入していたことに今回気がついたというのだから、隠れた名品と邂逅する機会になった。
展覧会の初日、本展を企画構成した石井仁志氏(20世紀メディア評論)と北井一夫が「写真と旅」と題したトークショーを繰り広げた。その中から、作品が生まれた背景や知られざるエピソードなどを語った北井の発言をピックアップしながら、ここで展示作品の見どころを紹介してみよう。
写真家として歩み始めた頃
〈抵抗〉〈三里塚〉〈流れ雲旅〉〈沖縄放浪〉
〈抵抗〉は1964年11月7日、アメリカ原子力潜水艦の横須賀寄港に反対した全学連の闘争を撮影したモノクロ写真と、横須賀基地周辺の米兵相手のバー街を撮影したカラー写真をあわせて写真集にしたデビュー作。出版と同時に日本大学芸術学部写真学科を中退、その後も全学連新聞の依頼で1968年まで学生運動を撮り続けた。
「1968年にアサヒグラフの編集部の依頼で、日大全共闘がバリケード封鎖している大学内を撮影して、自分の写真が雑誌にはじめて掲載されました。当時、1ページ6000円で6ページも載せてくれて。雑誌が売れていた時代だったし、中にいる学生でないと撮れないものだから評判も良かった」
その翌年の1969年1月、学生運動の現場から離れ、北井は成田空港反対闘争の渦中にあった千葉県成田市三里塚へ向かった。
「歴史上のいい写真って、やはり人間の営みを撮ったものが多いのではないかと。それで、三里塚の反対同盟の農民たちが、普段は畑仕事をしているような日常を撮らしてもらおうと考えた。それをアサヒグラフ編集部の大崎紀夫さんに申し入れてOKしてもらった。僕が闘争場面よりも畑にいる人ばかりを撮っていたので、周りから大崎さんが責められたけど、押し切ってくれて結局2年半くらいやっていた」
「三里塚の仕事の終盤、(マンガ家の)つげ義春さんが三里塚の写真を気に入ってくれて〈流れ雲旅〉のシリーズをアサヒグラフでやることになった。その頃、国鉄のディスカバージャパンキャンペーンが始まり、週刊誌でも旅企画が増えて、よく仕事がきた。旅が好きだったわけではないけど。沖縄返還の前に、沖縄の離島を巡ったりとか」
会場の第1室の最初が、つげ義春とアサヒグラフの大崎氏とした3人旅の〈流れ雲旅〉シリーズ。1970年から73年までの下北半島、九州大分の国東半島、福島県檜枝岐の長閑な村と地元の人の姿が写っている。
そして1972年の沖縄本土復帰の前年に撮影した〈沖縄放浪〉シリーズは第3室に展示されている。返還前の風景や風物をとらえた作品は民俗学的にも貴重な記録である。
政治的な闘争の場から日本の原風景である農村への移行、くしくも「ディスカバージャパン」のかけ声で旅行ブームが到来し、日本社会も生活も変貌していく渦中にぶつかっていた。そうした写真に囲まれ、北井自身は「部屋の中(展示室)に緊張感がある」と印象的に語っていた。
旅する写真家として
〈1973年中国〉〈村へ〉
1972年に田中角栄が訪中して日中の国交が回復したとはいえ、まだ旅行で中国に入れない時代だったが、73年5月に木村伊兵衛を団長とする日中友好撮影家訪中団に同行して北井も中国へ渡った。木村から直接電話で訪中団に誘われたという。
「僕はもともと満州で生まれたので、すぐ行くことに決めた。行ってみると、北京の街など懐かしかった。現地で木村伊兵衛さんの体が弱っていた感じだったので、僕が木村さんのカメラバックを持つことを申し入れると、すんなり『お願いします』と預けてくれた。それまではカメラバックを誰かに持たせるなんてことは絶対なかった方ですが、相当疲れていたかもしれない。日本に戻ったら木村さんの奥さんから感謝のお電話をもらいました」
その中国での写真を「アサヒカメラ」誌上で発表すると、編集部から「来年連載をお願いしたい」と声がかかり、74年から伝説的シリーズ「村へ」の連載が始まる。
「その頃、高梨豊が『都市へ』という写真集を作っていたので、僕は逆に『村へ』だな、と言うと編集部もそれがいい、ということで決まった」そして「アサヒカメラ」で4年間という長期連載となった。同一シリーズの連載としては最長といえる。電車で見知らぬ土地へ向かい、バスを乗り継ぎ、その合間に撮影をするスタイルは、道を歩いて人に出会うという飾り気のない、しかし一瞬に永遠性を見る独特の表現で完成された。いみじくも木村伊兵衛が北井の作品を評して「北井さんの写真は、日常の長い時間を撮っている。これは大変なこと」と語った言葉が的を射ている。この当時、「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」という流行語が連発され、日本列島改造論のもとに開発ブームが起きて土地が荒れる中で、北井は世間の狂騒から離れて旅に出ていた。
初期に愛用したカメラとレンズの展示
会場の2階のフロアには、当時連載した「アサヒカメラ」の実物の掲載誌とともに、愛用していたカメラとレンズも出陳されている。
「〈抵抗〉まではミノルタSR-1に50ミリと100ミリをつけて撮っていたんですが、〈三里塚〉ではキヤノンⅡDとⅣSbに、キヤノン25ミリのレンズをつけて、できるだけ広角で人に近づいて撮りたいと思いました。このキヤノン25ミリレンズは評判が悪くて、ライカを真似ているから画角は広いけど周辺が光量不足になるし、ゆがみがひどい。でもゆがみが出ないようにちょっと上向きか下向きにした加減で抑えられる。その調整を工夫するといいレンズで、中国の撮影の時もこの25ミリ一つで行った。この眼になりきっていたので逆にそれがよかったみたい」
中国旅行からボディーをライカM3とM4にして、キヤノンのレンズをつけて撮影していたという。それを横目で見た木村伊兵衛から「ライカはレンズが命なんですけどねえ」と嫌味を言われたそうだ。北井といえばライカ、と今ではイメージが定着しているが、1976年に第一回木村伊兵衛賞を受賞以後にキヤノンからライカに本格的に切り替えたようだ。
そして展示コーナーに並べられた70年代の雑誌も何か時代の勢いが感じられる。当時のカメラマンによれば「印刷も一つの生き物」というのだ。
「やっぱり雑誌のために撮ったんだよね、僕らは」という北井の言葉には、写真がオリジナルプリントとして鑑賞される以前の、「勝負する写真」という気概が感じられる。グラフ雑誌で時代を築く写真家の在り方に想いを巡らした。
時代の残像としての風景
〈いつか見た風景〉〈新世界物語〉
1970年代初頭、月の半分は旅に出ていたというが、〈三里塚〉から〈村へ〉までの3年間をくくって、雑誌社から取材を依頼されたカラーグラビアの写真をまとめたのが〈いつか見た風景〉シリーズである。
「僕の写真は一刻を争うような写真ではないし、子供が写っている写真が多いから、よく『郷愁ですか?』と聞かれていました。ちょうど高度成長期で工業化して、どんどん変化していく日本にいて、写真家たちは都会を撮っていました。一方で僕らは『のら社』をつくって、むしろ今だからこそ農村とか田舎に目を向けるべきだと主張して活動しました。写真に小さい子供がでてくるのは、その頃の田舎にいた若い父親世代は皆、都会へ出稼ぎに出ていて、小学生か中学生くらいの子と、おじいさんやおばあさんとで暮らしていることが多かったし、どこへ行っても一人で遊んでいる子供がいたからです。僕もどちらかというと孤独な育ち方をしているので、そういう風景に共感を持った。そういう風景に、キヤノンの25ミリのレンズの周辺が暗くなるところが合っていた」
「その頃、僕が影響されたのは、つげ義春さんです。つげさんのマンガで真正面向いて子供がぽつんと立っている場面とか、すごい強烈な印象だったんですよ。僕もこういうのを写真でできるといいなと思った。いいなというか演出しないで自然のままで強いというかなあ。じわじわとそういう感覚で写真が出来ていったと思います」
そうした農村をめぐる旅ぐらしの日々が、〈村へ〉〈そして村へ〉の長期連載で一区切りし、1979年から81年まで大阪の古い歓楽街を撮ったシリーズが〈新世界物語〉だ。
「大阪の出版社から、福祉関係の施設で展示する写真展をやってほしいと頼まれて、2年間くらいかけて写真を撮りました。その展示のときに下田賢司さんが見にきていて、バライタに焼いた1セット全部買ってくれていたんです」
ドヤ街に暮らす人、飛田遊郭の女性、スタンドバーの客、おなじみの通天閣など、哀愁のあるノスタルジックな作品が並んでいる。〈いつか見た風景〉も〈新世界物語〉も北井が幼少時代の記憶へのオマージュのようでもある。どちらも今はもう失われた風景であり、時代の残像として写真の中で息づいている。
新境地を開拓したシリーズ
〈おてんき〉〈ライカで散歩〉
この展覧会のタイトルが「写真の旅人」とされているように、あちこちの旅の風景と共に北井の人生の旅を重ねて、ある写真史として流れに沿って進んできたが、最終コーナーはどこかへ出かけずに身近な風景を写した〈おてんき〉〈ライカで散歩〉シリーズとなる。
1990年から95年にかけて撮影した〈おてんき〉シリーズは、それまでの人物風景写真とは変わって、鳥やカエルや小さな虫など、身近な生物たちを撮ったものが目立つ。これまでに使っていなかった望遠レンズと複写のためのマクロレンズを買って、周辺の身近な自然に目を向けた一連の作品となる。
2000年代に入ると、古いライカのバルナック型カメラと沈胴式レンズを手に入れて、近所や家の中で撮影する〈ライカで散歩〉シリーズがスタートする。
「2000年代になる少し前、日本カメラの前田さんという編集者からひょっこり電話があって、何か連載をやってくれないかと。1回につき3ページで、テーマ性がない写真の方がいいような依頼だった。自分から〈ライカで散歩〉というタイトルを提案したんです。もともと旅行があまり好きではないし、つまらなくなった。どこの駅を降りても同じ、どこを歩いても同じ景色だから。ということは、家の近所で撮っても同じなんじゃないかって」
そして始まった連載は9年間続くロングランとなった。
「だんだん外に出ずに家の中で撮れないかと思って、ゆずが3個とか、紙くずが3個とか。1個、2個、3個で連続して3ページ。これはバカらしすぎて、下田さんしか買う人はいない(笑)」
はじめに説明したように、今回の展覧会はすべて「アートスペースシモダ」代表の下田賢司氏のプライベートコレクションで展示構成された。下田は李禹煥や山口長男などの現代美術のコレクターとして名高い人物で、およそ1000点以上の現代美術や写真作品を所蔵している。その中の北井一夫の写真作品400点の中から、大阪の写真ギャラリー「G&S根雨」を主宰し本展をプロデュースした石井仁志氏とツァイトフォトサロンの鈴木利佳氏によって283点に厳選された。
その下田が気に入っているのが、「ゆずが3個」だ。日本カメラの連載で2008年9月号に掲載された。これは実物をぜひ見てほしい。最初に2009年1月にギャラリー冬青で展示されたこの作品を見た時は、驚くと同時に新鮮な写真に出会えたと感動した。
この時期に刊行された写真集『Walking with Leica2』の巻末で、アートライターの寺田侑が「何かが、起きている。」と題した評論を綴っている。北井一夫がそれまでのキャリアから逸脱して、新しいスタイルに挑んだ姿勢に作家としての「広がり」を見たという。
今回の展示は、長いスパンで一人の作家の足跡を見つめ続けた一人のコレクターの情熱がなくては実現しないものだった。惜しげもなくヴィンテージ作品が網羅された展示空間の中で、ファンの一人としてこの機会に立ち会えたことを幸運に思った。
展覧会概要
「北井一夫 写真の旅人」アートスペース シモダ所蔵写真展
南魚沼市 池田記念美術館
会期:2024年5月25日(土)〜 7月7日(日)
開催時間:9:00-17:00/最終日は15:00閉館
※入館は閉館の30分前まで
休館日:水曜日
観覧料:一般500円、高校生以下無料
問合せ:025-780-4080
公式ホームページ:http://www.ikedaart.jp
会期中のイベント
ギャラリートーク[作品鑑賞]
2024年6月22日(土)14:00〜
北井一夫×下田賢司(アートスペース シモダ)×石井仁志
トークショー「1970年代の写真とのら社」
6月23日(日)14:00〜
北井一夫×橋本照嵩×金丸裕子(ライター・編集者)
北井一夫プロジェクトWEBサイト
池田記念美術館の展示情報なども掲載されています。
公式ホームページはこちら