錬金術師列伝

カルチャー|2022.8.19
澤井繁男

第2回 アラブ世界へ(2)

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 錬金術が別名、「ヘルメスの科学」と言われているのは第1回(2)で述べた。ヘルメス思想の根本を述べている「板」に『エメラルド板』がある。ヘルメス自身がエメラルドの板に刻み込んだと言われており、12世紀にアラビア語からラテン語に翻訳された。箴言的な口調の全13章から成る短文の集成である。ここでは、それらをわかりやすく口語に直して掲載しよう。※( )内は著者の補足。

 あなたは常に真実を語り、実に神聖この上ない方です。あなたは信じられないことをなさいますが、それは宇宙の事象と地上の現象が相関関係にあることを示してくれこるとです(天地照応、マクロコスモスとミクロコスモスの感応)。この世のあらゆる現象は一なるもの(一者)に端を発していて、その一なるものが姿形を変えている、と私たちの目には映るのです(一者の円環・循環の理念)。森羅万象は私たち人間の類似でもありますから、この宇宙も含めて、太陽(火)は父、月(水)は母、風(空気)はあなたの胎内に宿って、乳母である大地(土)からの実りであなたを育てて下さいました(四元素の原理)。

 こうして成長したあなたはこの世で最も完璧な父であって、その威力たるや、大地を支配下に置き、はたまた、人間の文化的営為の始原とおぼしき火と、自然の源である大地、精妙なるものと粗雑なものを、巧妙に分離するのです(蒸留作業)。

 またあなたは天地間を自由に往来し、事実の優劣を見定め、世界のひとびとの蒙を啓いて栄光に浴させ、万有のなかで一等強い方で、その威力を武器に全固体に浸透する(精気〔スピリト〕、キリスト教の「聖霊」ではない)ことも可能です。世界の創造はあなたのこのような術で創造されたのです(創造神話)。全く驚くべき業(わざ)で、既存の世界を変容させた仕掛け人なわけです。

 全世界の物体に浸透したあなたは、個人の霊魂とはべつに、世界霊魂の異名を得て、一なるものの叡智の三部分(最高の哲人、最高の神官、法の執行者)を補う始原の神学者とみなされています。太陽の恵みに誓って、以上の物語に嘘はありません。

 「叡智の三部分を補う始原の神学者」こそが、言うまでもなくヘルメス・トリスメギストスである。この「エメラルド板」は中世・西方ラテン世界の錬金術思想に大きな影響を及ぼした。「あなた(スピリト=精気)」とは一種の触媒で、たぐい稀な力を持ち、天地間に充ち、万物に浸透してそのモノをそのモノならしめる。このスピリトが凝固したのが「賢者の石」である。「エメラルド板」とは、掉尾近くの文言にみられるように、一種の世界創造神話である。それも唯一神のキリスト教とは異種の、複数形の汎神論的世界創造神話である。口語訳の原文の「精と粗を、静かに巧みに分離すべし」は蒸留の過程を述べたもので、これが「近代化学」へと発展する(この蒸留が錬金術で使われたフラスコなどのさまざまな器具とともに近代化学誕生の基となる)。「エメラルド板」が錬金術の基本文献であるのは言うまでもないが、「宇宙の事象と地上の現象が相関関係にある」といった文面から、古代より存在している「大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)の照応・感応」の思想を述べている。

エメラルドタブレット

 錬金術の場合、物質(金属)界(ミクロコスモス)の変成と、精神(祈り)界(マクロコスモス)の深化となって顕現してくる。また「一者」という存在もあって、その一者の分身が流れ出し、一者が万物に宿ってゆく、という「生命の秩序的連鎖」の理念がうかがえる。一者が森羅万象に留まるわけだから、「一」でなくて「多」であって、一神教のキリスト教からすれば異教に相当する。

 それは「一即全、全即一」といった一者の遍在で、言い換えれば、「生死円環」、先述の「両性具有」という「対立物の一致」となり、一元論の世界を形成する(「ウロボロス〔尾をむさぼり食うもの、の意〕の蛇」の図が良い事例である)。始まりもなく終わりもない、円環(循環)の思想を表現しているこのウロボロス、キリスト教では敵役である。

ウロボロス

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 7世紀になるとアレクサンドリアのほかに、シリアのハッラーン(古代シリア地方北部の都市。現在はトルコ南部のシャンルウルコ県に当たる)もヘルメス主義の拠点となって、アラブ世界に伝播した。その経緯はイブン・アン=ナルディーム(932?―990年)著『諸学目録(フィフリスト)』に詳しい。第2回(1)冒頭で述べたように、アラブの錬金術はギリシアのそれの要約である。

フィフリスト

 いま2つに分けて説明しよう。これまでの話でもわかるように、物質面と精神面とに分かれる。
 両者の「不即不離」を提唱したジャビール・ハイヤーン(721?―815年)は物質変換の操作によって一者(「一者」は新プラトン主義の基本語で、キリスト教の神とは異なるが、それと似た存在といまは解してほしい)への自己回帰を主唱しヘルメス思想を正統的に継承し、新たに「硫黄・水銀の理論」を樹立した。著書『百十二書』で、以下のように述べている。

ジャビール・ハイヤーン

 金属はすべて本質的に水銀と硫黄から成る。……水銀と硫黄が結合しても、ともに、それ自身の本性を保持している。そこで起こっていることは、その両者の部分が弱められ、互いに近似してくるので、目には出来上がったのが、一様にみえるだけである。……原理そのものの変質は自然哲学においては不可能である。

 ここからわかること、ジャビールが言いたいことは、錬金術ではその術での物質面と精神面が上述のように「不即不離」だ、ということである。ジャビールの物質面を継承したのが、『秘宝の書』の著者、10世紀のアル=ラーズィー(865―925年)で、精神面の後継者が『金の培養の知識』の著者アル=イラーキー(生没年不詳)である。

アル=ラーズィー

 これより以前になるが、9世紀にはウスマーン・イブン・アル=スワイドが『哲学者たちの論争』を書いている。「錬金術進歩のためのヘルメス会の報告」と銘打たれた哲学者たちの会合の報告書である。べルス、パンドルフス、ピュタゴラス、アナクサゴラス、パルメニデス、ソクラテス、ゼノン、プラトンなどの名が見受けられるが、彼らの哲学とは何ら関係がない。

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 これらアラブの錬金術が西方では2人の偉大な人物に受け継がれた。
 1人目はイングランドのフランチェスコ会士である、ロジャー・ベーコン(1214―94年)で、このひとは「工芸・機械術」にも秀で、抽象的意見には否定的で、聖書に基づく神学を最高のものしながらも、数学と経験を重視した。これは保守的な教会批判へとつながり、フランチェスコ会の許可のない著述活動が禁じられ、不遇時代が長く続いた。

ロジャー・ベーコン

 錬金術では、諸要素から成る全事物の生成を扱う思弁的な面と、アルス(技芸)によって、高潔な金属色などを造る作業的な面を、認めている。「思弁+実践」である。

 彼の見解に好意的な人物が教皇の座に就いてはじめて、著作がゆるされた。その主著が『大著作』(1267年)だった。本書の第5部がレンズについての研究で、「採光認識学」の紹介となる。これにルネサンス期に数学が加わって「遠近法」の樹立をみる。

 さらにベーコンはアラブの実証的・経験主義的研究方法にもとづき、自動車、潜水艦等の実現を予想するなどして「驚異博士」と呼ばれた。

 2人目はドイツのドメニコ会士で、トマス・アクィナスの師でもあった、アルベルトゥス・マグヌス(1200?―1280年)である。彼は、金属から他の金属への変成、錬金薬と呼ばれる医学的解毒薬が金属の病気を治すことを否定しつつも、こうした用語を用いて自然界での金属の生成を議論した。時代は進んでいるかのようにみえるが、視座は「金属の生成」という地点にあって、一歩も前に出ていない。

アルベルトゥス・マグヌス

 彼はアラビアの「硫黄・水銀の理論」を十全に把握していたようで、錬金術の著書として、『錬金術に関する小書』、『小錬金術』がある。後者は後世の錬金術師に多大な影響を与えた。
マグヌスはあらゆる学知・学問に精通していたので、「全科博士」と称賛された。

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 ここで、ルネサンス期をやがて迎えるのだが、現在の「歴史学」の見地では「ルネサンス時代/期」という設定はない。中世末期あるいは近世と呼ぶ。それゆえ文化面を強調したいときには「ルネサンス文化現象」とよぶのがよい。さてこの「文化現象」は、キャロリン・マーチャント『自然の死』の次の文章が的確に言い当てている。

 ルネサンスの有機体説すべてに共通していたことは、宇宙のあらゆる部分が互いに関連し合って統一体を成しているという前提だった。「自然の親和性」により、万物は互いの引力または愛によって結ばれていた。……パラケルススは「ある物がその構成成分の過ちで苦しむときには、他のものたちも不幸になり、……われわれの欠陥を天空がみつめているのと同じように、天空の欠陥や過ちをわれわれは目撃することができる」と述べている。

 第3回は引用文中に出て来た、パラケルススに言及する。上記の文の基礎には、共感魔術と、天地感応・照応の思想がある。「親和性」という言葉で、マーチャント女史はうまくまとめている。

 パラケルスス(1493―1541年。本名テオフストゥス・ポヌパトス・フォン・ホーエンハイム。パラケルススとは、古代ローマの医学書の著者である「ケルススを超える」の意味)で、パラケルススにいたって錬金術は新時代を迎える。

パラケルスス

 彼を一言で表現すれば、放浪と批判と刷新の人と言えよう。スイスのシュワーベン州アイジーデン近郊で、医師であるとともに錬金術師であった父の子として生まれ、父から医学と錬金術を学び、次にバーゼル大学に籍を置き、そしてシュポンハイム修道院長トリテミウスの許で修業した。

 その後、チロル地方の鉱山に出向いて、採鉱の技術や鉱物の性質、鉱夫の病気の研究に没頭した。医師としてはスペイン、オランダ、イタリア、フランス、サクソニア、ポーランド、ハンガリーなどを遍歴して、各地の呪術師、外科医からあらゆる種類の医事的事例を修得した。呪術と外科の恩恵をこうむっているようだが、次回、内科学の出発点をこのパラケルススが築くことになることを明かそう。

第2回(2)、了

参考文献
荒井献 柴田有共訳『ヘルメス文書』朝日出版社, 1980年
キャロリン・マーチャント著 団まりな訳『自然の死』工作舎,1985年
クリエイティブ・スィート編著 澤井繁男監修『「錬金術」がよくわかる本』PHP文庫,2008年
澤井繁男著『ルネサンス再入門』平凡社新書,2017年

澤井繁男
1954年、札幌市に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
作家・イタリアルネサンス文学・文化研究家。東京外国語大学論文博士(学術)。
元関西大学文学部教授。著者に、『ルネサンス文化と科学』(山川出版社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『自然魔術師たちの饗宴』(春秋社)、『カンパネッラの企て』(新曜社)など多数。訳書にカンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会・特別賞受賞)などがある。

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