季節の有職ばなし
●橡の生地
4月22日は「橡(つるばみ)色の生地が減って困った日」です。
『河海抄』
「天長格曰 太政官符
応貢調緋絁卅疋(民部省)相博橡絹事
右被大納言正三位兼行左近衛大将民部卿清原真人夏野宣奉勅。称諸国所貢調物緋多橡少。至于宛用或致闕乏。宜越前国調緋而橡々令貢省。宜承知依宣。施行但復旧之事待後符。
天長八年(831)四月廿二日」
平安時代初期、諸国から納められる「絁(あしぎぬ)」(絹の生地)について、緋色のものが多くて橡色のものが少なく困っている。そこで越前の国は、三十疋(60反)を緋色でなく橡色で納めよ、という暫定命令が出されたのです。
橡(つるばみ)には謎が多いのですが、一般には、クヌギの実(ドングリ)を煎じて得た茶色い汁を灰媒染で染めた薄茶色、とされます。
『延喜式』(縫殿寮)
「橡
綾一疋〈東絁亦同〉搗橡二斗五升・茜大二斤・灰七升・薪二百廿斤。」
この原材料名から灰媒染であることがわかりますし、茜(アカネ)を入れることから、単なる茶色ではなく、レンガのような赤茶色であることが想像できます。しかしこの『延喜式』の橡よりも、クヌギ汁を鉄媒染で染めた黒みのある焦げ茶色、「黒橡」とも呼ばれる色が「橡」の代表格で、この橡の衣は、喪服として使用されたのです。
『助無智秘抄』(鎌倉前期?)
「天皇御服之時事〈天下諒闇是也〉殿上侍臣。四位。五位。六位。ミナ橡ノ袍。タゞシ表袴下重等鈍色ナリ。」
『栄花物語』(鶴林)
「九月よりは、殿ばら皆皇太后宮の御うすにびにておはしまし、宮司などこまやかなりつるに、黒橡にならせ給。世中の十が九は、皆鈍み渡りたり。いはゞ諒闇ともいひつべし。」
万寿四年(1027)、藤原道長が亡くなったときの描写です。このように一定の喪服需要があり、また喪に服していないときも橡の生地を使うことはありましたから、橡の絁が貢納されないのは一大事だったわけです。
面白い歌が『万葉集』にあります。橡の衣類が、喪服ではなく下級役人の日常着として着られていた様子。これは『延喜式』にあるレンガ色の橡かもしれません。
当時、越中守の大伴家持の歌です。妻を残して単身赴任中、現地の美人「さぶる子」に入れあげている部下(史生)の尾張少咋さんを諭した歌です。
『久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母
紅は 移ろうものぞ橡の
馴れにし衣に なほ如かめやも』
「紅の色は美しいが色あせしやすい。地味な橡でも着慣れた衣には及ばない。」
(美人は三日見たら飽きる。不美人でも慣れ親しんだカミさんのほうが良いんじゃないのか?)
この歌の2日後、なんとカミさんが「さぶる子」のところに突然殴り込みをかけてきて、「里もとどろ」の大騒動に発展するのですが……。
のちに、単に「橡」と言った場合、「黒」と同じ意味になって、ブラック全般を指すようにもなりました。平安中期以降、四位以上の公家は黒い袍(上着)を着るようになりましたが、これを「橡の袍」と呼ぶことも多くなりました。
『今鏡』(腹々のみこ)
「ある人の申されけるは、つるばみの衣は、王の四位の色にて、たゞ人の四位と王五位とはくろあけを着、たゞ人の五位、あけの衣にてうるはしくはあるべきを、今の人心およすげて、四位は王の衣になり、五位は四位の衣を着るなるべし。」
『餝抄』(中院通方/鎌倉前期)
「橡袍。四位己上橡。五位有蘇芳気。六位緑。廷尉佐大夫外記史大夫尉等着赤色。近代四位五位無差別。不知故実云々。」
こうして喪服の色が、日常着の色になっています。そもそも、律令の定めで紫であった高位の袍が、いつからブラックになったのかが不明なのです。しかし清少納言の記述にこういう一節があります。
『枕草子』
「白樫といふものは、まいて深山木のなかにもいとけどほくて、三位、二位のうへのきぬ染むるをりばかりこそ、葉をだに人の見るめれば、をかしきこと、めでたきことにとりいづべくもあらべど……」
これによれば、三位、二位の袍を、橡染めのような方法で染めていたようです。つまり黒橡。しかしクヌギではなくシラカシだと。確かにシラカシの葉にもタンニンが含まれており、鉄媒染で染色してみますと紫がかった黒に近い色が得られます。
●フナ料理
4月27日は「宮中でフナ料理が出た日」です。
『御湯殿の上の日記』(宮中女官日誌)
「慶長八年(1603)四月廿七日、いつものごとく、やまぶきの御ふるまいあり。」
この「やまぶき」は、女房詞で「フナ」のことです。この日、帝の代理として下京の因幡堂(平等寺)へ参詣したご褒美に、山科言経が宮中で鮒料理を食べさせてもらったのです。女官たちもご相伴に預かったのでしょう。どんな料理かと言えば「鮒汁」でした。
『言経卿記』(山科言経)
「慶長八年(1603)四月廿七日癸丑。因幡堂へ禁中御代官トシテ参。各相伴之衆、持明院、冷千寿丸、五辻、正親町、三條、滋野井、高倉等也。朝食已後各参了。(中略)長橋殿ヘ御ナデ物、御香水等進上申、珍重之由被仰出了。禁中常御所ニテ鮒之汁各被下了。」
さてさて、この鮒汁については詳しい製法が同時代資料に残っています。
『料理物語』(江戸初期)
「鮒の汁は、みそを中より上にして、だしをくはへよし。若和布にてもかぢめにても、ふなをまきてに申候。あまみすくなき時は、すりがつほいれてよし。いづれもみそをだしにてたて候てよし。よく煮候てさかしほさし、すい口山椒のこ。」
鮒をワカメで巻いて味噌でよく煮る。出来上がったら「酒塩」をさして山椒の粉をかけて食べる。かなり濃厚な味付けで、「鯉こく」のような「鮒こく」の仕上げであったようですね。これは美味しそうです。鮒は非常にポピュラーな食材で、同じ『料理物語』には、
「鮒 なます、汁、さしみ、にもたしこゝり、なまなり、小鳥やき、かす漬、すいもの。」
と、たくさんの料理が紹介されております。ほう、刺身でも食べていたのですね。平安時代も盛んに食べられておりました。
『延喜式』(内膳司)
「造醤鮒鮨鮒各十石。味塩鮒三石四斗<近江国筑摩厨所進>。缶卅口。商布十八段。信濃麻一百斤。酒五斗。米一石。塩八石。醤大豆二石五斗。(中略)
年料 山城国<氷魚。鱸魚>。(中略)近江国<煮塩年魚二石。鮒。鱒。阿米魚。氷魚>。美濃国<鮨鮒隔月三缶。火干年魚一担八籠。鮨年魚四担八壺>。」
いまも琵琶湖の鮒寿司は有名ですが、平安時代も「醤鮒」「鮨鮒」が作られ、鮒は近江国から納められています。おや、美濃国からも「鮨鮒」や「鮨年魚(あゆ)」が納められていますね。これは長良川の鵜飼で獲ったものですかね。
『源氏物語』(藤裏葉)
「東の池に舟ども浮けて、御厨子所の鵜飼の長、院の鵜飼を召し並べて、鵜をおろさせたまへり。小さき鮒ども食ひたり。わざとの御覧とはなけれども、過ぎさせたまふ道の興ばかりになむ。」
光源氏の邸宅「六条院」に帝の行幸があったときのシーン。寝殿造りの庭の池で鵜飼をして小鮒を獲っています。貴族の邸宅には大きな池があるのが普通でしたが、あれは見て楽しむだけでなく、鮒や鯉を飼う「いけす」でもあったようで、庭の池での漁撈(?)も文献に多く登場します。
『醍醐天皇御記』
「延喜十八年(918)十月八日。幸朱雀院。至馬埓云々。次移柏殿云々。王卿下殿持右京職御贄。侍従大夫職官人同持之。立庭中。覧了召膳部下給云々。左衛門督藤原朝臣請捕魚。依請。左右衛門官人率門部令舁網参入。施網前池得鯉鮒十余喉。於御前調供。又於東砌下調給侍臣了。雅楽於池上奏音楽云々。」
朱雀院の池で、網を使って鮒を十匹あまり収獲。さっそく帝の御膳に上がりました。侍臣もご相伴。目の前で獲ったばかりですから、これは新鮮ですね。
●日本に来たゾウ
4月28日は「象の日」です。
これは享保十四年(1729)にベトナムから来日した象が、中御門天皇の御前で披露され、従四位に叙された日を記念しています。
『江戸名所図会』(斎藤月岑/江戸後期)
「中野宝仙寺<当寺に、享保十四年、交趾国より貢献する所の馴象の枯骨あり>。馴象之枯骨 享保十三年戊申、交趾国より鄭大威なる者、広南に産るる所の大象、牝牡の二頭を率ゐ来て、本邦に貢献す<林信言の事物権輿には、大泥国より来るとあり。牝象は同申年九月十一日長崎に於て斃せり>。同年六月十三日、長崎に着す。」
「献上された」とありますが、実は前年に、八代将軍・吉宗が、清国の商人・鄭大威に発注したもの。ベトナムは交趾(こうち)の広南という所から来た象で、雄7歳、雌5歳だったそうです。しかし雌は長崎に到着早々、死んでしまいました。翌年春、残った雄象は長崎から延々と江戸まで旅します。その途中、4月28日に中御門天皇の謁見を受けたのです。
「同二十八日、禁掖に朝して天覧を蒙むる<爵位なくして禁闕に参入の例なければとて、獣類といへ共、従四位に叙せられ、広南従四位白象と称へられたりといへり>。」
四位に叙されて拝謁した象さん、前足を折って頭を下げる芸をして天皇を喜ばせました。天皇は
時しあれは 人の国なるけだものも
けふ九重に みるがうれしさ
と和歌を詠んでいます。
江戸には5月25日に到着。そして27日、象は待望の将軍・吉宗に拝謁しました。その後、浜御殿で13年間飼育されましたが、膨大な餌の費用が負担となり、寛保元年(1741)4月、中野村の農民・源助に下げ渡されることになりました。
源助には、飼育代として年に130両が支給され、見世物小屋で儲けたり、象の糞を「はしか」の妙薬として売ったり、見物客向けに黄・緑・白の三色饅頭を作って「中野の一文饅頭」として売り出したりしましたが、次第に飽きられて客が減ってきます。そうなると飼育の経費が負担になってきました。
なにしろ、一日に菜葉200斤、笹葉150斤、青葉100斤、芭蕉2株、大唐米8升、餡無饅頭50、橙50を食べたというのですから大変です。管理が悪くなったのか、中野に来て1年8ヶ月後の寛保二年(1742)12月、象は死んでしまいました。
象の皮は幕府に納め、骨と牙は源助に下げ渡されました。それらは源助の死後、義理の弟が受け継ぎ、のちに名主の堀江卯右衛門が、金8両3分と鐚銭8貫400文で買収。さらに安永八年(1779)、堀江家から宝仙寺に譲り渡されたのです。寺宝として大切にされていましたが、昭和20年5月25日の大空襲で焼損してしまいました。
次回配信は、4月19日予定です。
八條忠基
綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。