第16回 有職覚え書き

カルチャー|2022.3.7
八條忠基

季節の有職ばなし

●靴の日

3月15日は「靴の日」です。明治三年(1870)3月15日、東京・築地入船町に日本初の西洋靴の工場が創設されたことに由来しています。

さて有職文献では「くつ」にはさまざまな文字があります。靴・沓・履・舃……。この中で「靴」と言えば、だいたいにおいて「鞾(かのくつ)」という、束帯で履く革ブーツを指します。カノクツは、闕腋袍の武官束帯で用いられることが多いですが、本来、文武を問わず束帯装束のときの靴で、儀式の時は文官も用いました。牛革製です。

『延喜式』(弾正台)
「凡内外諸司。不論把笏。非把笏者。公事公会之所悉著靴。自余時著履。把笏者。雖非公会。雨泥之日聴著靴。又庶人等通著履。」
「凡諸衛府生以上<左右馬寮准此>。除衛仗日之外。皆著靴。但著布帯時。須用麻鞋。」

官員は公事(くじ・儀式)のときは全員が靴。その他平常勤務では履(これは浅沓のこと)とされ、武官は平常勤務でも靴をはく、と明確に定められていますね。

『年中諸公事装束要抄』(花山院忠定・1400年頃)
「節会。  主上御束帯。御笏。御靴。  公卿同上。近衛次将闕腋袍。笏。螺鈿細劒。巡方帯。魚袋。靴。」

節会ではやはり靴。現在でも男子皇族は、即位礼や結婚式などでは、束帯装束で鞾(かのくつ)をはいておいでです。 さてその靴、どういうものかと申しますと……。

『桃華蘂葉』(一條兼良)
「靴。靴氈は赤地の錦。靴帯はひきはだの皮。有黄金物。節会の内弁外弁公卿。若行幸供奉の時用之。深沓同事也云々。」

 靴氈(かせん)というのは靴本体の上に付いている錦の生地のこと。通常は赤地の錦ですが、青(グリーン)地錦を用いることもあったようです。

『後照念院殿装束抄』(近衛冬平/鎌倉後期)
「靴ノ花仙事。  衣笠命云靴ハ赤地。但亟相以前ナドハ。其ハ青地無苦之由。普賢寺殿被亟仰。後日命云。普賢寺殿仰ニハ。靴花仙物青地。而猪隈殿ハ執柄以後コソ青地ニテハアレト被仰。」

赤と青の使い分け基準は、なんだか明確では無いですね。 靴を絞るベルトである「靴帯」。『桃華蘂葉』には「ひきはだの皮」とありますが、これについては江戸時代の本居宣長が解説しています。

『玉勝間』(本居宣長)
「沓などにも、ひきはだといふこと有と聞ゆ、此名のこゝろは、蟾蜍膚(ヒキハダ)なるべし」

ヒキガエルのようにザラザラした皮、ということですね。バックスキンを用いることだと思います。……さて、靴帯のみならず、靴の本体も牛革でつくられていたのですが、その皮はどこから入手していたのかが気になります。ちゃんとルールが定められていました。

『延喜式』(馬寮)
「凡寮馬牛斃者。以其皮充鞍調度并籠頭等料。唯御靴料牛皮七張半充内蔵寮。(後略)」

馬寮で飼育している牛馬が死んだ時に、その皮を靴の材料にするために内蔵寮(くらつかさ)に届ける、とあります。

 ところで、装束着用時は基本的に「裸足」で、「襪(しとうず)」(股のない足袋)は履きません。ただ、硬い「鞾」着用時には足が痛いので、「下靴(したぐつ)」というものを履き、その「したぐつ」が変化して「しとうず」になったのです。

昭和度の即位御大礼の「鞾(かのくつ)」。

●采女

3月16日は「郡司世襲制が廃止された日」です。

『日本後紀』
「延暦十七年(798)三月丙申《十六》詔曰。昔難波朝廷、始置諸郡。仍択有労、補於郡領。子孫相襲、永任其官。云々。宜其譜第之選、永従停廃、取芸業著聞堪理郡者為之。云々。其国造兵衛、同亦停止。但采女者依旧貢之。」

それまで原則的に世襲制であった地方官「郡司」の職に、能力のある者を任命することに改める、という詔です。郡司は、古代の地方豪族「国造」がそのまま任命されることが多かったのですが、中央集権を強化するためにも、朝廷が選任する形に変えたのですね。明治の廃藩置県のようなものです。

興味深いのは、「国造兵衛」という名称が残っていたこと。これも翌月に「国造」の付かないただの「兵衛」に改称されました。

『日本後紀』
「延暦十七年(798)四月甲寅(四)。勅。依去三月十六日勅。云々。郡領譜第、既従停廃。国造兵衛、同亦停止。但先補国造、服帯刀杖、宿衛之労、不可不矜。宜除国造之名、補兵衛之例。」

「兵衛」は天皇を護衛する軍事機関ですが、諸国の国造の子弟から選抜されて上京した者たちでした。天武天皇の御代に成立したとされています。しかし国造の存在意義が薄らぐ中で次第に衰退してゆきます。「兵衛府」自体、平安時代の六衛府(左右近衛・左右兵衛・左右衛門)の中で、天皇親衛隊は近衛府、京都の治安維持隊は衛門府が担うようになり、兵衛府は中途半端な立場になっていってしまうのです。

いっぽう、「但采女者依旧貢之」ということで、地方豪族の子女の中から美人を選抜して宮中に召す「采女(うねめ)」の制度は残されました。しかしその後、桓武天皇の跡を継いだ帝たちによって、采女制度は大揺れに揺れます。

『日本後紀』
「大同元年(806)十月壬申《十三》。勅。凡貢氏女、事明令条、皆限四十已下十三已上。今須氏之長者、択氏中端正女貢之。其十三已上之徒、心神易移、進退未定、宜采女年卅已上四十已下、無配偶者、或貢後適人、必令貢替。又官途怱忙、独何取捨。緩怠之事、当有援助。宜長者相補、令得仕進。」

平城天皇は、律令の定めである采女の採用年齢「13歳以上40歳以下」を改めて「30歳以上40歳以下で配偶者のいない者」と改めました。「少女は心が不安定で、将来どうなるか判らないので」という理由です。もう「かわい子チャン募集」の対象ではなく、後宮の雑用おばちゃん的な扱いになっているわけです。そして翌年、とうとう采女制度を廃止しました。

「大同二年(807)五月癸卯《十六》。停諸国貢采女。(中略)大同二年十一月辛丑《十八》。停諸国貢采女。唯択留其年老有労者卅二人、任旧終身。若叙五位已上及補雑色者、即除采女名。」

長年勤務した功労者30名は、かわいそうなので終身雇用とする、という配慮。ただし「采女」という名称は廃止する、と。……が、平城天皇の御代は短く、弟の嵯峨天皇が即位しますと、また采女は復活します。

「弘仁三年(812)二月庚戌《廿一》。復采女司。(中略)弘仁四(813)年正月丁丑《廿三》制。令伊勢国壹志郡。尾張国愛智郡。常陸国信太郡。但馬国養父郡。貢郡司子妹年十六已上廿已下。容貌端正。堪為采女者各一人。」

「16歳以上20歳以下の容姿端麗」と、平城天皇の熟女(?)採用基準どころか、律令の定めよりも若い子好みの「かわい子チャン募集」が打ち出されております。何しろ嵯峨天皇は判明しているだけでも49人の子どもがいる艶福家(?)でしたから、采女制度復活に熱心だったのかもしれませんね。

その後、「采女」は残りましたが、地方から貢進されるのではなく、京の下級貴族の娘から選抜され、主に宮中で食膳を整えることがメインの下級女官のような扱いになっていきました。

『吏部王記』(重明親王)
「延長二年(924)一月廿五日。甲子。天子四十御賀。父上皇(宇多法皇)被献之。於紫宸殿有其儀。采女調和若菜羹供進云々。」

こうした下級女官としての采女は、江戸時代まで残りました。即位の儀式のときのみ、内侍所に仕える者の中から3名が選ばれました。

『維新前の宮廷生活』(下橋敬長述)
「内侍所刀自は唯今の内掌典に当たり、上に申し述べました女官方とは全く別物で、定員五人、一生奉公で、士分の女子であれば出られます。職務上甚だしく穢を忌みますところから、身体に故障があっては決して出られません。晴の儀式に一采女は刀自の中から、二采女と三采女とは御末の中から勤めます。」

この江戸時代の采女は、特殊な采女装束を身につけます。この采女装束が、現代の女子神職装束のモデルとなった、と言われております。画像は、平成度即位御大礼における采女装束。


次回配信は、3月22日予定です。

平成度即位御大礼における采女(うねめ)装束

八條忠基

綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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