撮影:串田明緒

串田和美 自由の練習帖

父・串田孫一と母・美枝子のこと

カルチャー|2025.9.16
聞き手=草生亜紀子

 知っている人にすれば、俳優・演出家の串田和美さんが串田孫一さんの長男であることは今さら語るまでもない事実であり、知らない人でもちょっと検索すれば、父は哲学者・文学者・登山家・作家・詩人であることに加えて、絵が描けて楽器まで嗜むマルチな才人であり、今なおその作品が多くの人に愛される大きな存在であることがわかる。串田さんがこの人の影響を受けなかったはずはなく、孫一さんの『考えることについて』(2015年刊)に寄せた追悼文でも、和美さんは「知らないうちに、なんと多くのものを受け取ってしまったのだろうと今思う」と書いている。だが本稿は、孫一さんに勝るとも劣らない影響を与えた母・美枝子さんの話から始めたい。家系図的には「華麗なる一族」としか言いようのない華やかさの中で、串田夫妻がそういったものにとらわれない自由で開放的な家庭を築いたことが伝わると思うからだ。

「当たるを幸いに何でも読む」人

――串田さんのお母様って、いわゆる「いい家のお嬢様」なんですね。

 え、そうなの?(笑)

――美枝子さんのお父様である佐佐木行忠氏(1893-1975)は華族で、爵位は侯爵。貴族院副議長を務めた後、戦後は伊勢神宮の大宮司や神社本庁統理を務め、國學院大學理事長・学長だったそうですね。そのお祖父様が佐佐木高行氏。板垣退助、後藤象二郎と並ぶ「土佐三伯」の一人として知られ、明治天皇の側近だったとか。

 高知に行った時に、歴史民俗資料館みたいなところでそういう話を聞いたことはあるけれど、ぼくたち兄弟は3人ともそういうことに興味を持たなかったから、親の家のことはぜんぜん知らない。孫一さんも美枝子さんも、そういう話をほとんどしなかったし。
 たまに「服部のおじさんはケチだから、時計くれないのよ」とか言ってるから、誰のことだろうと思っていたら、服部時計店(セイコーのルーツ)の服部さんと親戚だとわかったり、時々そういうことはありました。

――美枝子さんについて書かれたものを読むと、ものすごい読書家で、語学の才能があって、遊び心に溢れた方のように見受けられます。どんなお母様でしたか?

 ぼくから見ると美枝子さんは何でもできる人で、敵わないなあと思っていました。

 小さい時は自分の親しか知らないから何とも思わないけれど、学校に行くようになると、よそのお母さんとはちょっと違うということに気がついた。給食の手伝いとかでお母さんたちが来ると、みんな割烹着みたいなのを着て同じような髪型をしている中で、美枝子さんは長く伸ばした髪を三つ編みにして、それをぐるっと頭に巻いていたり、ちょっと雰囲気が違う。不思議な感じ。他のお母さんたちとは馴染まない感じで、後ろの方で静かにしてる。子ども心に「なんだか合わないんだな」と感じたから、「学校に来なくていいよ」と思ったりしていました。でも、ふだんはよくしゃべるし、ぼくの友達ともよく話していました。

 大人になって友達に、「串田のお母さんに電車の中で大きな声で話しかけられて、わいわいしゃべった後で、先に電車を降りていくから、その後、残されたぼくはみんなに見られて恥ずかしくて仕方なかった」と笑いながら言われたこともある。無邪気で明るい人でした。おしゃべりは好きなんだけど、お母さんたちとの世間話が苦手だったのかなあ? 一般的な話題と興味が違ったんだろうね。

――大変な読書家だったと聞きました。

 なんでも読んでいましたね。青山の屋敷から学習院に通っていたらしいけど、当時のことだから女の子が一人でフラフラ歩いていてはいけなくて、お茶やお花の稽古以外は家に居させられたから、ひたすら本を読んでいたらしい。なんでも表参道の山陽堂書店に本を注文して、ツケで買えたようです。そのあたり、ぼくはあまり知らなくて、明緒が美枝子さんをインタビューした時、「へぇー」と思うことがたくさんありました。

――雑誌『Coyote』(2018年冬号)「特集・串田孫一のABC」で、奥様の明緒さんが美枝子さんにインタビューされた記事ですね。幼い頃からの活字中毒ぶりについて聞かれて、美枝子さんはこう答えています。
〈昔はね新聞でも雑誌でもふりがながついていたの。だから子供がなんでも読めちゃうの。ひらがなの活字が今と違うけどね。わたくしは旧仮名が読めるから、大概の古本は読めるの。ひいおじいさんが読んだ本が物置にあって、ヴァン・ダインの翻訳ものとか、坪内逍遥のシェイクスピア全集も読んだな。案外坪内さんのなんかひらがなが多いの。とにかく、当たるを幸いに何でも読んでた。高校くらいになったら、夢野久作の『ドグラ・マグラ』とか、わたくしのお父さんが好きだった百閒は大概。それから露伴、泉鏡花全集。孫一からは誕生日に『日本の遊戯』(小高吉三郎著)とかもらったね。〉

とにかく何でも読んでいました。読むのも速い。

串田孫一の自宅。夫妻の寝室の勉強机にて 撮影:串田明緒

――語学も天才的にできたとか?

 戦後、物がない時に歌集もないから、頼まれてアルバイトで海外の童謡や民謡みたいなのを翻訳していたようです。孫一さん経由で頼まれたのかな? 後から知って「え、お母さんが訳したの?」と思うようなものがいくつかありました。
 ある時は、豆の種類を知りたいからと言ってアラビア語を独学で勉強していた。「2週間もあれば大体読んでわかるようになるのよ」とか言って、資料を原語で読んでいた。「そんなわけないだろう!」と思うけれど、ちゃんと大学ノートに調べたことをアラビア語で書いていたりする。とにかく、知りたがり。自分が知るために勉強する。
今、手元にあるのは『The Ancient Music of Ireland』という1800年代のケルト語で書かれた古代アイルランドハープに関する本を自分で訳したもの。これはハープをやってる友達のためのものだったらしいけど、基本的に出版するとか、そういう目的があるわけじゃなくて、ただ自分が知りたいから、読みたいから訳してる。新聞もほぼ全紙、毎朝目を通していました。びっくりしちゃうよね。なんでそんなことができたんだろう。

――時代が違ったら、進学して勉強を続けたかったのでしょうか。

 そうかもしれない。

――そんな家で育ったお嬢様の美枝子さんが、三菱銀行会長だった串田萬蔵氏の一人息子である孫一さんとお見合い結婚したわけですね。

「おままごとみたい」な夫婦だったと美枝子さんは言ってましたね。孫一さん26歳、美枝子さん19歳の結婚。1941年、太平洋戦争が始まる直前で、「戦争になれば男は兵隊に取られてしまうから、相手がいなくなる前に結婚させてしまえ」ということだったようです。美枝子さんはかなりインテリだから、孫一さんとは話があったと思います。

――美枝子さんは家事も得意だったのですか?

 料理でも裁縫でも何でもできたけど、美枝子さんのお母さんが輪をかけて何でもできる人で、ちょっとコンプレックスだったらしい。「お母さんが何でもできるから嫌になっちゃう」みたいなことを言っていた。
 美枝子さんのお母さんの米子さんは外交官の子で、アメリカで生まれたから米子。イギリスで生まれた妹は英子、みたいなそんな家(注・美枝子さんの祖父は、元外交官で宮内官僚の上野季三郎氏。1901年にサンフランシスコ領事を務めた)。
 背が高くて美人で、着物を着て日傘をさした写真が雑誌の表紙を飾るような人だったらしい。
 100歳近くになった頃、米子さんが急に若い頃の思い出話をしてくれたことがありました。ギンガムの服を着て、編み上げの靴を履いて、カリフォルニアの広くて浅い川を馬に乗ってバシャバシャ水飛沫をあげて走ったとか、近所に「ポテト王」と呼ばれた人(おそらく牛島謹爾氏)が住んでいたとか、ドラマみたいな話をする人だった。

――2005年に孫一さんが亡くなるまで64年間、夫妻は仲睦まじかったようですが、美枝子さんとお姑さんとの関係は必ずしもスムーズではなかったとか?

 おばあちゃん(孫一さんの母)は気位の高い人で、子ども心に「お母さんとは折り合いが悪いんだな」と思っていました。もちろん美枝子さんが愚痴をこぼすことはなかったけれど(注・孫一さんの母フミさんは、今村銀行【後の第一銀行】や、角丸証券【現みずほ証券】を創立し、鉄道王としても知られる今村清之助の娘)。

 本当はいろいろ大変だったと思いますよ。孫一さんの戦時中の日記を読むと、東京の様子を見に行って疎開先に戻ると、遠くから美枝子が泣いているのが見えたみたいなことが書いてありましたから。

 おばあちゃんもかわいそうだったんだよね。早くに夫である萬蔵さんを亡くしているから。いつも部屋に一人で座ってラジオを聴くか、小説雑誌を貸本屋から借りて読んでいたのを覚えています。ラジオからオペラとか聞こえてくると、「嫌な声だねえ。なんだかバター舐めたような声だねえ」とか言ってましたね。

 ぼくがちっちゃい時、おばあちゃんが朝晩お線香を焚いて小さな鐘をチーンと鳴らして萬蔵さんの仏壇を拝んでいるから、聞いたことがあるんです。「仏様って本当にいるの?」って。すると、おばあちゃんは打ち明け話みたいに、「いやしないんだよ」って言うんです。びっくりした。昔の人は閻魔様とか本当にいるみたいに話すから信じているのかと思ったら、案外冷めた感じのことを言う。

 でも、そうかと思うと、ぼくがヘビを捕まえて網をかけた箱に入れて、家の中に入れられないから縁の下に隠して時々餌をやって飼っていたら、見つけたおばあちゃんが「ヘビは神様だから、逃してやりなさい」と言う。「え? 逃したらまた誰かに捕まるよ」と抵抗したら、「弁天様のところで逃しなさい」と言う。仕方なく、近所の弁天様の池のところに行ってヘビを離したら、蛇行しながら泳いで、弁天様の方にまっしぐらに向かっていった。びっくりしました。「ほんとだ、ヘビは神様なんだ!」と思った。

 ヘビは神様だと言ったり、仏様はいないと思っているのに毎日拝んでいるとか、一体なんなんだろうと思った。でも、この時、なんとなく信仰って、そういうものなのかもしれないとも思いました。

 こうした出来事が、自分を形成するものの一部になっているのかなと思います。

「りんごの並んだ家」

――美枝子さんはちゃめっ気のある人という印象を受けます。

 安野光雅さん(画家・絵本作家)がのこしたエッセイに、美枝子さんがテーブルにりんごを並べていた話が出てきます。
〈奥さまが言われるには「昨日、テーブルの上にりんごをきちんと一列に並べておきましたらね、息子が帰ってきて、おかあさんこれはどうしたのって聞くので、ははあ、やっぱりそう言うだろう、と思って並べておいたのよ」と言われた。(中略)
 アイルランド人は笑わずに冗談を言うと聞いたが、この奥さまもそうなのである。つまり奥さまのほうが串田先生よりも役者が上なのではないかと、密かに案じているし、そんな噂がないでもない。〉(季刊『銀花』1995年第百二号)

 テーブルにポンポンポンと並んだりんごを見て、みんなが「何これ?」って聞くと、「そう言うと思って並べた」って言うんですよ。かわいいというより、ちょっとヘンだよね(笑)。そういう人でした。

 戦時中に疎開先から親に宛てたハガキにも「荒小屋週報」(荒小屋は疎開していた山形県新庄の村の名前)というタイトルが付いていて、下には新聞みたいに「広告ラン」があって、「昆虫学者に告ぐ! 蚤の死骸差上げます。本年度にて採集せる蚤の死骸百匹におよぶ、卵を持てるものもあり、子もあり」とか書いてある。おもしろい。

 ちょっと変わった、おかしなお母さんだということが成長するにつれてわかってきたんだけど、小さい時は、なんとなく恥ずかしかった。でも、友達も笑っているし、そのうちちょっと誇りに思うようになっていきました。

美枝子さんが実家に書き送っていた「荒小屋週報」 串田家提供

――美枝子さんに育てられて良かったと思うのは、どんなことですか?

 これは孫一も含めてだけれど、もともと自分がちょっと変わった子だったのか、親が変わっていたからそうなのか、境目がわからないんですよね。日記とか読むと、孫一はぼくのことを相当ヘンな子だと思っていたらしい。たしかに、朧に覚えていることを振り返ると、ちょっと変わっていたかなとは思う。それはふたりの影響なんだろうか。ぼくの妙な行動をふたりが呆れている、というか、おもしろがっている感じは何だったんだろうな? よくケラケラ笑っていた。

 ぼんやり覚えているのは、雨が降って水たまりができると、ぼくは枝に糸をつけてその水たまりに釣り糸のように垂らしていた。屋根の上で一日中過ごしていたこともある。そういうことを、ふたりは呆れながらおもしろがって、孫一さんは日記に書いていた。

――孫一さんと美枝子さんは、似た感性の人だったのでしょうか。

 孫一さん、美枝子さん、ふたりともいわゆる「いいところの子」であることにちょっとうんざりして、自由でいたいところがあったんじゃないかな。似ていた。美枝子さんは孫一さんに出会って楽だったんじゃないかなと思います。かといって、ベタベタしている感じでもなかった。

珍しく一緒に出かけた登山で美枝子さんと孫一さん 撮影:三宅修

偉そうにするのはカッコ悪い

――「いいところの子」といえば、孫一さんも相当なおぼっちゃまですよね。父・萬蔵氏は1885(明治18)年にアメリカに留学し、後に三菱銀行会長や明治生命保険会長などを歴任した銀行家。母のフミさんは実業家で鉄道王の娘。そんな家の長男といえば、当時の感覚であれば家業を継ぐことが期待されたと思いますが、哲学の道を選ぶことは簡単に許してもらえたのでしょうか?

 萬蔵さんにとって孫一さんは遅く(48歳の時)にできた一人息子だったこともあり、自由にさせてもらったようです。それでも哲学の道に進むと告げた時にはちょっと悲しそうで、「そうかあ、これからは電気の時代なんだがなあ」と言われたそうです。

――中学で山登りを始め、東京帝国大学で哲学を学び、上智大学や旧制東京高等学校で教鞭を執り、東京外国語大学教授となり、1958年に山の文芸誌『アルプ』を創刊して1983年の終刊まで責任編集者を務めるかたわら膨大な著書と訳書を残した孫一氏。初見靖一名義で小説も発表し、詩集や画集も残し、2005年に亡くなった後も代表作『山のパンセ』をはじめとして作品は長く読み継がれており、唯一無二の独立峰のような存在ですよね。その上、絵も達者で音楽にも造詣が深く、リコーダーやハープなど楽器演奏もなさる。カッコよくて眩しすぎます。若い頃は「串田孫一の子」と言われるのが嫌だったとか?

荒海山での孫一さん 撮影:三宅修

 嫌、ということではないんだけれど、若い頃は、先生や先輩から「君は串田孫一の息子か?」と聞かれると、「誰だって誰かの息子ですよ」みたいな斜に構えたことを言い返していましたね。

 でも大人になると、孫一さんが文壇とはちょっと違う道にいる人だとわかってきて、それは誇りというか、「ちょっといいなあ」と思いました。文壇というのに入りたくなかったようで、同じような考えの北杜夫さんとも親しかったようです。ぼくもその影響を受けたのか、日本劇作家協会とかに誘われても、「劇作家じゃないから」と言って断ったりしています。

――孫一さんの文庫『考えることについて』に寄せた「父・串田孫一について」で、こう書いていらっしゃいます。
〈知らないうちに、なんと多くのものを受け取ってしまったのだろうと今思う。と同時に本当に大切なこと、僕の未だに知らない大切な何かを、受け取り損ねているような心細い気持ちにもなる。
 中学2年になる春、谷川岳に連れて行ってもらった。初めての雪山。2階の窓まで雪に埋もれた天神峠の山小屋で、煙にむせながらストーブを焚き、乾パンをかじった。外は月の光でテラテラ光っていた。あの日が、あの雪山の気配が僕の生きる方向を決めたのかなあ。うん、確かにそう思う。それから一緒にいくつもの山を歩いた。危険な岩壁にしがみついたりもした。少しずつ僕の方が重い荷物を背負うようになり、少しずつ、友だち同士のような会話もした。
 父と仲間たちのアルビレオという小さな詩人の会があり、時々僕もそこに座って話を聞いたり、わかったような顔をして笑ったりしていた。ある時僕は父の背広を着て、鼻の下に髭を描いて、その会の中でチエホフの「タバコの害について」という一人芝居をやった。中学生が大人の詩人や美術家の前でロシアの田舎の恐妻家を演じている。尾崎喜八さんが笑いもせず、怖い顔をしてうなずいている。それをまた孫一さんが半分照れくさそうに口をへの字にして笑っていた。あの日なのかなあ、僕が今こんなふうに演劇の在り方にこだわることになった始まりは。
 本当に伝えたいことは、絶対に伝わらないことの中にある。だから本当に大切なことは誰も観ていないところで、誰のためにでもなく表現しよう。
 芝居屋と物書き。僕と孫一さんは随分遠くにいるのだろうか? それとも重なりあっているのだろうか?〉
 『アルビレオ』は、孫一さんが36歳の時、『アルプ』創刊の前に教授仲間と創刊した同人誌で、その集まりを自宅で催していたそうですね。作家・武者小路実篤や火野葦平、哲学者・亀井勝一郎ら錚々たるメンバーが執筆する同人誌の集まりで、和美少年がそこに混じって詩を朗読したり一人芝居をしていたというのは、すごい体験ですね。
『Coyote』に寄稿された「断層『父孫一のこと』」には、こんなくだりがあります。
〈『アルビレオ』の会には面白い人たちがいた。「奥さん、ちょっとシーツをかしてください」と言って、部屋にそれを吊るし、自分で作った幻灯の絵を映しながら朗読する人や、草野心平さんは丹前を着ていたような気がする。尾崎喜八さんは新作の自分の詩をドイツ語みたいな調子で読み上げながら、自分で感動して泪を流していた。〉

 アルビレオの会に集まってくる大人たちは、教科書に出てくるような有名人もいれば、そうではない人もいたんだけれど、みんなまったく対等に一緒に過ごしていました。世に知られた人ではないけれど、すごい人がいて、有名な詩人の尾崎喜八さんがその人を敬っているのを見ると、すごい人として敬うことと有名かどうかは関係ないことなんだなと思った記憶があります。他にも、孫一さんの上智大学時代の教え子だった遠藤周作さんや、近所に住んでいた安野光雅さん、ぼくたち兄弟の友達とか、いろんな人が出入りしていました。

 当時から、孫一さんや美枝子さんの様子を見ていて、偉そうにするのがカッコ悪いことだという感覚はずっとあります。地位や名声や財産で人を比べるのはつまらないことだし、恥ずかしいことだというのは、その頃から刷り込まれている気がしますね。

 そういえば、こんなことがありました。安野光雅さんのエッセイにも出てくるんだけど、安野さんが三鷹市立第五小学校の図工の先生だった時、重高敦という「鼻垂れ小僧」がいた。この「あっちゃん」は、ぼくのひとつ年下の弟と同い年で、うちによく遊びに来ていた。彼が大人になってぼくの家を訪れた時に美枝子さんに手土産のお菓子を差し出して、美枝子さんが「ありがとう」と言ったら、あっちゃんが泣き出してしまった。聞けば、戦後、小さい頃、家にお金がなくてお菓子なんか食べさせてもらえなかったけれど、遊びにいくと美枝子さんがお腹いっぱい食べさせてくれた。その美枝子さんに初めてお菓子を渡して「ありがとう」と言ってもらえたと。

 当時、武蔵野の辺りには、ぼくたちもそうですけれど都心の家が焼けてなくなった人、大陸から引き揚げてきた人、元からこの辺りにいたお百姓さんや土地持ちの人や古い商店街の人たちなど、いろんな境遇の人たちが混じり合って住んでいました。さまざまな背景の個性的な人たちに、ふたりは分け隔てなく接していたと思います。

 疎開先でも小学校でもいろんなことがあったけれど、ぼくはいじけることなく「自分はこれでいいんだ」と思えた。その根底には孫一さんがいて、孫一さんが当時はまだ別に有名ではなくて偉そうにもしていないけれど、本を出したりして何かを成し遂げている人だと思えたことと自然に結びついていた。だから自分が勉強しないで落第しそうになったり、人に敵わないなと思うことがたくさんあっても、そのことがいじける材料にならなかったのだと思います。

 芝居を作る時も、そういうのが自分の価値観にある。喝采されるとか、人気俳優が出ていて大当たりするとかよりも、数人でもいいからジーンと人生が変わっちゃうような感銘とか影響を受ける。どっちがいいかわからないけれど、そんな気持ちはずっと今につながっています。それは誰の影響というのでなく、いろんな出来事、親や友達、まわりの環境、そうしたさまざまなもので今の自分の生き方があるんだなと思います。

串田孫一・美枝子夫妻。自宅の庭にて。撮影:串田明緒

次回は、小学校から高校までを過ごした成蹊学園のお話の予定です

串田和美
俳優・演出家。日本大学芸術学部演劇学科中退後、俳優座養成所を卒業し文学座に入団。1966年、六本木の「アンダーグラウンド・シアター自由劇場」を本拠地とする劇団・自由劇場を結成。1975年オンシアター自由劇場に劇団名を改め、「上海バンスキング」「もっと泣いてよフラッパー」「クスコ」などの大ヒット作を生み出す。1985年、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。コクーン歌舞伎も成功させる。2000年日本大学芸術学部演劇学科特任教授に就任。2003年まつもと市民芸術館芸術監督に就任。2023年、演劇創造カンパニーであるフライングシアター自由劇場を新たに立ち上げて活躍中。2025年10月、吉祥寺シアターで「西に黄色のラプソディ」を上演する。1942年東京生まれ。父は哲学者で詩人の串田孫一。紫綬褒章、芸術選奨文部科学大臣賞、旭日小綬章など受章・受賞多数。

聞き手:草生亜紀子 
ライター・翻訳者。近著は『逃げても、逃げてもシェイクスピア――翻訳家・松岡和子の仕事』(新潮社)

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