キュートで洗練された人、倉俣史朗
倉俣史朗の仕事とそのイメージの源泉をたどる展覧会が、東京の世田谷美術館で開かれている。稀代のデザイナーの内面まで掘り下げた内容で、実際に作品やスケッチや作家本人の言葉と対面すると、物事に純粋に向き合い、さらに洗練されたユーモアがある人だったことがわかり、こんな風に夢を思い描くのはとてもキュートで素敵なことだと感銘を受けた。
倉俣史朗とは、どんな人物で、どんな作品を残したのか。彼の「言葉」にさまざまなエッセンスが詰まっているので、本展の図録に収録されている倉俣語録の抜粋とともに、紹介してみたい。
透明、浮遊、ミステリアス、ドリーム。
1991年に56歳で世を去った伝説のデザイナー倉俣史朗(1934-1991)。その頃の日本はバブル絶頂期、街は不夜城となって発光していた。彼は70年代後半からイッセイ ミヤケの店舗デザインを手掛け、80年代にイタリアのデザイン運動「メンフィス」に参加するなど、日本が上昇気流に乗っていく時代の先頭に立っていたデザイナーだった。
その代名詞ともいえる1988年に発表された椅子《ミス・ブランチ》は、今も変わらず衝撃的なインパクトを与えてくれる。透明なアクリルの中に封じ込められた赤い造花のバラの浮遊感といったら、きわめて謎めいている。
従来の家具ではあり得なかった、アクリル、ガラス、建材用のアルミなどの工業素材を用いた家具やインテリアは、独特なイメージから生まれている。
イメージスケッチ「ミス・ブランチ」 1988年頃 クラマタデザイン事務所蔵 © Kuramata Design Office
空間と光を表現した感覚的な家具
倉俣史朗は父の勤め先であった理化学研究所の社宅で生まれた。当時を振り返った印象を「記憶の中の小宇宙」という文章に綴っている。
「野積みされている各種色とりどりの膨大な薬瓶、進行中の建築現場、砂、石、煉瓦や木材や資材の山……この混沌としたミステリアスな広大な空間は、木戸御免の子供の私にとってまさに宝島であり天国であった」(『未現像の風景』、住まいの図書館出版局、1991年)
通称「理研」の中で育った子供時代の環境は意識下に宿り、インテリアデザイナーとなって製作した透明アクリルの家具は、自分の分身のようなものだったのかもしれない。
《プラスチックの家具 洋服ダンス》は、光が透過した先にタンスの影が映って浮かんでいる。服を仕舞って素通しで見えるのもいいが、空のままのほうが完成形になる
「むしろ使うことを目的としない家具、ただ結果として家具であるような家具に興味をもっている」(「アンケート ファニチュア・デザインのなかの問題」、『インテリア』第118
号、1969年1月)
「光」も倉俣のデザインにおいて重要なテーマになっている。1969年に製作された《光の椅子》、《光のテーブル》、そして1972年製作の《ランプ(オバQ)》は白く光るシンプルな造形で、家具というよりはミニマル・アートである。ランプのタイトルの「オバQ」は当時流行った藤子不二雄の漫画の主人公のオバケの名前で、懐かしさと同時に微笑を誘う。「オバQ」は布をかぶると姿を消すことができるのだ。
「僕にとっては『つくってみたい』というのが一番大事なこと。売れたり、売れるということは大したことではない」(1989年、パリの国立高等装飾美術学校でのレクチャーでの発言)
引出しの家具は、今回の会場の床に直接置かれているので、そばに寄って見ることができる。全体のシェイプは鋭利でミステリアスでありながら、暖かみのある白色が品の良い和やかな雰囲気を醸し出している。
「家具の中でひき出しというのはそうとう心理的なものも含めて、人間といちばんコミュニケーションが強い家具なんじゃないかという気がします」(「異色のデザイナー」、『室内』第205号、1972年1月)
無重力願望の椅子
1976年に発表された《硝子の椅子》が一つの転機になった。三保谷硝子店が提供したガラス同士を接着できるフォトボンドが福音をもたらしたのだ。板硝子をボンドで強固に張り合わせることが可能になり、倉俣史朗の「引力からの解放」というイメージは無色透明なガラスに生命を吹き込むことで到達点を迎えた。
「あるとき、屋外で硝子の椅子を撮影していたところ、子どもたちが集まり、『見えない椅子だ』とよろこんでいた。椅子という実体を認めながら、言葉の上では見えないという、このわずかな透き間に実は広大な宇宙を見る思いがする」(「連載 色の空間8」、『インテリア』第217号、1977年4月)
新たな素材や技術を取り入れて、自由に浮遊するイメージの椅子の傑作が次々に生み出されていった。通常はフェンスなどに利用されるエキスパンドメタルを用いた《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》は、外枠とメッシュの構造だけで、従来の椅子の概念を覆していた。倉俣はそれを「無重力願望の椅子」と呼んでいた。
「従来の椅子の形態はそのままにして、ボリュームを消し去り、物理的にも、視覚的にも軽く、風が飛び抜ける。在ってないようなもの……そんなことを考えながらデザインしました」(「無重力願望の椅子」、『家庭画報』、第30巻第3号、1987年3月)
この頃に製作された《五本針の時計》も、いわゆる時計の概念から自由に飛躍したユニークなオブジェ。ペンシル型の短針と長針、蝶、てんとう虫、煮干し。シュールレアリスム的な時計は、時間に縛られない生活であったり、永遠への憧憬をイメージしているのだろうか。
アクリルに封じ込められた生命感
1988年に製作された《ミス・ブランチ》は、発表当時は日本での反響は少なかったが、倉俣は翌年、パリのギャルリー・イヴ・ガストゥで個展を開くことを試みた。そこで大いに注目を浴びて成功し、世界的な評価が確立したことは言うまでもない。
「一人でも僕は地球上に理解者がいれば十分で。一人以上になるとそれはより嬉しいことだと想うんですよね」(1989年12月、パリ、ギャルリー・イヴ・ガストゥ個展でのインタビュー)
まさに80年代から90年代へと時代の波が変化していく頃、倉俣の仕事はポップでリリカルなアクリル製の作品が主流となっていった。ガラスからアクリルに移行したのは、同じ透明な素材であっても、より軽みを追究しつつ、自由に浮遊するイメージを意識した倉俣独特のアプローチといえるのではないだろうか。
「まず、自分を出来るだけ自由にして置くことだと思います。肉体も精神もあるいは脳ミソも、意識的になったり、一つのことに執着し過ぎず考え過ぎないように」(「パネル・ディスカッション 五感で語るデザイン−−IN・SPIRATION展をめぐって」、『イコン』第12号、1988年7月)
夢日記、イメージスケッチ
本展の見どころとして、「倉俣史朗の私空間」というテーマで、愛蔵の書籍やレコードジャケット、そして書簡やスケッチブックなど、これまで公開されてこなかった資料がまとめて紹介するコーナーがある。
スケッチブックの中には、見た夢を絵と文で書き留めた「夢日記」もある。夢の記憶も創作につながり、イマジネーションの源となっていたことがわかる。
「目が覚めて夢を憶えているときは文字と絵の両方でメモします。
憶えていながらもちょっと横を向いた一瞬、たったいままであんなに憶えていた夢を忘れてしまうことがよくありますが、僕はこの瞬間の感覚もまたなんともいえず好きです」(「夢のつづれ織り」、『未現像の風景』、1991年)
展示スペースの壁面に、いろいろな作品のイメージスケッチが並んでいて、それがなんともかわいい。そして「あの頃=80年代」の感覚が呼び覚まされるのである。安西水丸の線画だったり、雑誌「ビックリハウス」のイラストのペン画に見ていたようなユーモアとデリカシーがないまぜになったフリーハンドの線の軌跡。倉俣が愛好した文学、音楽、映画などから紡がれた芸術観がスケッチの余白からにじみ出ている。
そして現在も、倉俣史朗の海外での評価は高く、そのマスターピースである家具も海外メーカーで復刻・販売されている。
香港にオープンしたアジア最大級の美術館M+に、1988年に倉俣史朗がインテリアデザインを手掛けた寿司店「きよ友」が移設されたことも美術界の注目を集めた。
それに比べて日本では、倉俣史朗を紹介する展覧会はこれまで数多くはなかった。本展は約5年の準備期間をかけて、世田谷美術館、富山県美術館、京都国立近代美術館の3館による研究成果を集約したもので、倉俣の業績を見渡せる貴重な機会となっている。インテリアデザインに興味のある方には見逃せないタイミングであり、倉俣史朗の思考の柔軟性や純真に夢を追い続けた人間性にぜひ触れていただきたい。
展覧会概要
「倉俣史朗のデザインー記憶のなかの小宇宙」
会場:世田谷美術館
会期: 2023年11月18日(土)〜2024年1月28日(日)
休館日:毎週月曜日および年末年始(2023年12月29日(金)〜2024年1月3日(水))
*ただし、2024年1月8日(月・祝)は開館。1月9日(火)は休館
時間:午前10時〜午後6時(最終入場時間午後5時30分)
料金:一般1,200円、65歳以上1,000円、大高生800円、中小生500円
問合せ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
世田谷美術館公式サイト:https://www.setagayaartmuseum.or.jp/
巡回展
富山県美術館 2024年2月17日(土)〜4月7日(日)
京都国立近代美術館 2024年6月11日(火)〜8月18日(日)