第2回 演出家・串田和美インタビュー
表現者の息遣い、観客の熱気を
感じる劇場を目指して

カルチャー|2022.9.28
文=鈴木伸子 写真=押尾健太郎

渋谷に文化を。
観客が豊かな気持ちになる劇場に

 渋谷の一大文化拠点Bunkamuraのはじまりからいま現在、そして未来への取り組みを辿っていく本特集。第2回は、日本を代表する演出家・串田和美氏にインタビュー。串田氏は草創期からBunkamuraの舞台づくり、劇場づくりに長年にわたり携わってきた。開業当時のエピソードや、シアターコクーン初代芸術監督を務めたBunkamuraへの思いを存分に語っていただいた。

突然声がかかった、
Bunkamura事業への誘い

 1989年のBunkamuraオープン時からシアターコクーンの初代芸術監督を務めたのは、演出家・串田和美だ。串田がこのBunkamuraの仕事に関わり始めたのは、その4年前の1985年のこと。その時点では、これからできる施設の全体像、そこにどのような劇場をつくるかなど、すべてはまだ手探りの状態だった。
 当時、串田は六本木にあった自由劇場を本拠に、劇団「オンシアター自由劇場」を率いて活動していたが、そこにある日、東急百貨店文化事業開発室の田中珍彦(うずひこ)がやってくる。

「すべては珍彦さんから始まった。珍彦さんは、東急エージェンシーからBunkamuraの開業準備室にあたる部署に転籍して、現場で中心的存在になって事業を進めていた人でした(のち、2007年には東急文化村代表取締役社長に就任、2019年歿)。本来、そういう文化事業は国や行政がやるべきことですが、日本は立ち遅れていると感じていた。珍彦さんに話を聞いて、企業がそれに乗り出すなら、僕たちと東急のやりたいことが本当に合致しないとお互いが不幸になるからと、二人で相当しつこく話し合いをしました。
 その一方で僕が感動したのは、東急グループが多摩川をきれいにする活動をしているという話でした。それは、やはりBunkamura開業のもう一人の功労者である当時の東急百貨店社長の三浦守さんに聞きました。多摩川をきれいにすることで、東京と横浜をつなぐ鉄道の沿線に住んでいる人たちの生活環境が豊かになって、電車に乗って渋谷に買い物にくる。そういう地道で誰も気づかないようなことを大事にしている会社なんだと。その姿勢に一番惹かれた。これは信頼できるなと」

劇場はただの建造物ではない、
譲れない思いを日夜交わし合った劇場づくり

シアターコクーンは舞台から1階最後列の客席までが24mという近さ。中規模劇場としてはコンパクトな空間になっており、舞台と客席の一体感、臨場感がある。また、舞台面と客席の一部が可動式になっているため、自由な発想を生かした、さまざまな舞台づくりが可能。

 その後、Bunkamuraの施設の概要が定まり、大ホールとともに、のちに「シアターコクーン」となる700席ほどの演劇・音楽劇用のホールをつくることとなった。その設計以前には、串田と設計者である石本建築事務所のスタッフの間で徹底的な議論が交わされた。

「設計者は『劇場のコンセプトは“森”で』とか言い出して、僕は僕で『入口の太ったモギリのおばちゃんが、芝居を見たいけどお金がない人をこっそり入れてあげるような雰囲気の……』なんて言っていて、話が全然噛み合わない(笑)。でも一番大事なのは、シアターという言葉の意味は、『劇場』という建造物だけじゃなくて、『演劇』なんだ、そこで上演する中味のことでもあるということ。僕たちがどういうふうに劇場を使って演劇を上演しているかを設計者に知ってもらわなければダメだと、それまであまり演劇というものを見たことのない設計担当の人たちに、銀座の博品館劇場まで僕らの公演を見に来てもらって、開演前、上演中、休憩中の楽屋、客席、ロビー、トイレなどがどう使われているかをリサーチしてもらったりもしました。
 それから、劇場のつくりにもいろいろなアイデアを出しました。客席の真正面となる舞台奥に搬入口を設置して、そこが開くと渋谷の街が舞台の背景になったり、客席を全部取り除いて土間にできるようにしたり、いろんなアイデアの仕掛けを仕込んでもらった。実はその中にはまだ使い切れていないものもあるけれど」

Bunkamuraらしさを求めて、
独自の公演スタイルの確立へ

 そうして完成した「シアターコクーン」。串田のオンシアター自由劇場は、フランチャイズ契約を結んだ座付きの劇団となる。

「劇場には、本来表現者が住人として居て、つくったり考えたりしていないといけない。それは僕が六本木の自由劇場でやってきたことでもあった。そして、そこでどんな作品を上演するかが重要になる。日本ではなかなかアメリカのようなロングラン公演はできないし、ヨーロッパのようなレパートリー・システムもむずかしい。だからその中間がいいなと。秋に新作を出して2週間くらい上演、次の春には少し調整して再演。そうして作品が溜まってきたら、そのなかからいいものを春に2、3本並べて上演するというシステムにした。時には失敗もあったけれど、それも大切。失敗しないようにばかりしていると当たりさわりのないものしかできなくなってくる。そんなやり方を観客と一緒に共有しようと、いろんなことに挑戦してきた」

Bunkamura開業以来、数々の作品がシアターコクーンで上演された。その演目の多くが、劇場設計を上手く取り入れたBunkamuraならではの演出で好評を博した。

 その一方で、今やシアターコクーンの名物となっている渋谷・コクーン歌舞伎だが、最初に実現したきっかけは、松竹のスタッフが「ここで歌舞伎公演をやりたい」と熱心に働きかけてきたことだった。

「最初、僕は乗り気じゃなかったんだけど、松竹の担当者が、ここの客席には江戸時代の芝居小屋みたいな熱気があるからって。それは劇場をデザインする時にこちらも意識していたことだから、“これはよくわかっている人だな”と感じました。それで、さっそく勘九郎さん(2005年に十八代目勘三郎襲名、2012年歿)に話をしてみたら、彼もすぐに興味を持ってくれて、若手中心の公演になるはずが自分が出たいとか言い出しちゃった。歌舞伎は、古典を大事にするだけじゃなくて、もっといろいろな解釈があってもいいんじゃないかと、僕も誰もやっていないような新しい演出を提案したら、勘九郎さんもそれを大いに面白がってくれた。二人でずいぶん喧嘩もしたし、一緒に喜び合った。その成果は平成中村座にも繋がったんですね。でも、今彼がいないことを考えると、やっぱり涙が出ちゃうね」

 その後、渋谷・コクーン歌舞伎はシアターコクーン恒例の演目に。2022年2月に第18弾、串田演出の『天日坊』が上演された。

1994年に上演された第1回の渋谷・コクーン歌舞伎『東海道四谷怪談』。大きな水槽に30トンもの水を入れ、その中で立ち回りをする圧巻の演出は、多様性のあるシアターコクーンだからこそ生まれた。写真左は五代目中村勘九郎、右は三代目中村橋之助。
渋谷・コクーン歌舞伎 第1弾『東海道四谷怪談』(1994年)©︎松竹

運命的なタイミングで携われた
幸せな芸術監督の仕事

 シアターコクーンの立ち上げから、この劇場と喜びも苦しみもともにしてきた串田。そんな彼にとってBunkamuraシアターコクーンでの仕事とは、どのようなものだったのだろうか。

「Bunkamuraの仕事を始めた時、僕は43歳だった。今考えたら若いけれど、感覚、体力とも、これ以上若かったら絶対引き受けられない、これ以上歳を取っていてもできない、それはベストなタイミングだった。そう思ったのも引き受けた理由かな。1989年から96年までの7年間が、最初から決まっていた芸術監督としての任期だったけれど、その時期は、観客が入って儲かりそうだから公演をやるというのではなくて、つくりたいものを上演して、それをなるべく多くの人に見てほしい、そんな贅沢な発想を受け入れてもらえた、ギリギリの時期だったと思います。改めて、この場所にBunkamuraと名づけたのはすごいことだなと思う。人間が大切にしている“文化”が根元にあるんだということを、時々誰かが思い出さないといけない。機能だけを追求して、そこに人間が居る感覚がなくなってしまったら文化は成立しなくなってしまう。そのための建物、街、劇場だろ、と。そういう劇場に居させてもらえたことは本当に幸せでした」

串田和美(くしだ・かずよし)

俳優・演出家・舞台美術家。まつもと市民芸術館総監督。
1966年、劇団・自由劇場(後にオンシアター自由劇場と改名)を結成。1985年から96年までBunkamuraシアターコクーン初代芸術監督を務め、渋谷・コクーン歌舞伎やレパートリーシステムの導入で劇場運営の礎を築く。代表作に『上海バンスキング』『もっと泣いてよフラッパー』『渋谷・コクーン歌舞伎「夏祭浪花鑑」』など。歌舞伎俳優の十八代目中村勘三郎と取り組んだ、平成中村座での歌舞伎演出も多数。2003年4月より、まつもと市民芸術館芸術監督に就任(現・総監督)。「信州・まつもと大歌舞伎」や、サーカスと音楽と演劇による『空中キャバレー』など市民を巻き込んだイベントで“街に溶け込む演劇” を根づかせてきた。2006年芸術選奨文部科学大臣賞、2007年第14回読売演劇大賞最優秀演出家賞受賞。2008年紫綬褒章、2013年旭日小綬章を受章。2015年、ルーマニア・シビウ国際演劇祭でシビウ・ ウォーク・ オブ・ フェイムを受賞。

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